11
箒を右手から左手に意味もなく持ち替え、そっと背後を仰ぐ。埃と、どこから紛れ込んだのかも分からない白い砂にまみれた、精緻な彫り込みの美しい祭壇。その上に凜と佇み、静かにこちらを見下ろす大理石の巨像は、アプスを取り囲むランセット窓から降り注ぐ色鮮やかな光に彩られて、荘厳でありながらもどこか華やかだった。
今朝も、私はこの神像の前に跪き、より良い一日を願う祈りを捧げた。それは、大聖堂にいた頃よりももっと昔の、それこそまだ“聖女”などとは無縁だった、孤児院時代から続けている、ちょっとした日課のようなものだ。
大地を照らす太陽を祝い、パンやスープやそれらに使われた食材のひとつひとつに感謝をし、また一日生きていられることを喜び、そうしてそれらを与えてくれた尊い主神に拝謝する。
逃亡を続けていた頃も、それを欠かすことはなかった。主神像を前に祈ることは叶わなかったけれど、煌々と輝く太陽に、或いは垂れ込めた鈍色の雲に向かって、何度も何度も頭を垂れたものだ。ろくに食事も摂れず、きちんとした寝床で休むことも出来はしなかったけれど。それでも今日もちゃんと生きています、と。命を繋いで下さってありがとうございます、と。
「愚かでも、滑稽でも……」
ゆっくりと振り返り、眉を顰めたルシエル様の、珠玉のような深紫の瞳を見つめる。その瞬間、彼の柳眉がぴくりと揺れたような気がした。見間違いだったかもしれないけれど。ルシエル様は基本的に、殆ど表情を変えることはない。呆れるか、冷ややかであるか、或いはただの無表情か。しかし、たとえば僅かに跳ねる柳眉や、ちょっぴり持ち上がる口角や、僅かに伏せる睫毛や――。その些細な変化が、心の奥に潜むものを映しているように感じられるのは、私の思い過ごしだろうか。
「それでも私は、ここにいたいと思ったのです」
そう言いながら、ゆるく持ち上げた右手の甲に、そっと視線を落とす。王都を出てから暫くの間巻き付けていた包帯は、もうそこにはない。ざらついた麻の感触の消えた肌を、戸口から流れ込んできた風が、ふわりとやさしく撫でてゆく。鋭く尖った八芒星と、優美に開かれた片翼、それらを囲むようにして描かれた繊細な円環。白い甲に刻まれたその紋を、明るい陽の下で眺めるのは、いったいいつぶりだろう。夜もすがら、月明かりの中で見つめ続けていた時とは、輝きというのか雰囲気というのか、兎も角何かが違うように見えた。
この印があったからこそ――。聖紋を見下ろしたまま静かに微笑み、嘗てそこに触れてくれた穏やかなぬくもりを思い出す。高熱に魘され、ただ死を待つだけだったあの時の私に、ただひとり寄り添ってくれた存在。あの夜の彼もまた、衰弱した子どもを前に、淡々とした表情を浮かべているだけだった。声はどこか冷たかったし、気遣うような言葉をかけてくれた憶えもない。けれど、力が入らないながらも一生懸命伸ばした手にそっと触れてくれた指先の、あのやわらかでやさしい感触を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。握るでもなく、包み込むでもなく、ただ手の甲に触れるだけだった、あのひんやりとした指先。
「突き放してもなお、ここに留まろうとするとはな。呆れを通り越して、理解に苦しむ」
腰に片手をあてながら、ルシエル様が深々と溜息を吐く。私は思わず、くすくすと笑い声を漏らしてしまった。楽しいからでも、おかしいからでもなく、ただなんとなく嬉しさのようなものが込み上げて。
そんな私を、彼は冷淡な瞳で、半ば睨め付けるように見下ろした。白い耳朶の先で、ステンドグラスの鮮やかな光を受けた青いピアスが、きらめいている。ひとつひとつの輝きが、まるで宝石のように。小さな光の粒を、幾つも散らしながら。
「……貴方様だけでしたから」
口元を綻ばせたまま、そっと目を細める。身体は今、確かにここにあるはずなのに。どうしてだろう。意識だけが、遠い昔を揺蕩っているような気がする。あの時ルシエル様が包み込んでくれた光の中を、ふわふわと。そのあまりの心地よさに、ついうっとりしてしまいそうになりながら、私はゆっくりとひとつ瞬く。
――また会える?
弱々しく掠れた声が、頭の奥底にじんわりと響き渡る。そう問いかけながら、私は微笑んでいたような気もするし、でもうまく笑えていなかったような気もする。なにせ薬も効かない高熱に魘されている最中だったのだから。火照って気怠い身体はどこもかしも力が入らず、だからきっと私は少しも表情を変えることが出来ていなかったのかもしれない。
それでも、なんとなくだけれど――。長く濃い睫毛に縁取られた、アメシストのような深紫色の瞳を真っ直ぐに見つめながら思う。なんとなくだけれど、あの時ルシエル様は、ほんの少しだけ微笑んでいたような気がする、と。切れ長の目を僅かに細め、形の良い唇の角を、そうと分からないほど小さく上げて。それでも多分、微笑んでいたような気がする、と。
「この聖紋を、“本物”と認めて下さったのは」
そう言って笑みを深めると、微かに見開かれた深紫色の瞳が、ほんの一瞬揺らめいた。気の所為かもしれない、見間違いかもしれない、と思うような、本当に些細な揺らめき。まるであの時のようだ、と胸の内で懐かしみながら、私はルシエル様の背後に、まるで後光のようにしてきらめく薔薇窓へそっと視線を向けた。赤や青や紫や黄緑や、様々な色が複雑に交差する、美しいステンドグラスの薔薇窓を。
「理由は、それだけです。……それで、十分なのです」
***
古びた井戸の滑車が、錆びついた音を立てながらゆっくりと回っている。何度も、何度も。
汲み上げたばかりの新鮮な水を、どこから見つけてきたのか分からない大桶にあけ、そしてまた縄を手繰って滑車を回す。陽光を受けてきらきらと輝く水の中には、嘗ては真っ白だったはずの、すっかり色褪せたシーツやカヴァーが漬け込まれている。
水分をたっぷり含んで重たげなそれらを、ルシエルは遠目に眺めながら、小さく息をつく。頭上には、雲ひとつない澄んだ青空が広がっている。木々の奏でる葉擦れの音、どこからともなく聞こえてくる小鳥の囀り。茶色い羽をした小鳥が二羽、陽の光を切るようにして、どこかへ飛び去ってゆく。頬を撫でる風は、あたたかい。それの運んでくる草花のふくよかな香りが、吸い込んだ息とともに、身体の内側を少しずつ満たしてゆくような気がした。まるで自然と一体化するような、心地の良い感覚。
からからから。その間もまだ、滑車は回っていた。礼拝堂の屋根に腰掛けるルシエルの眼下で。からからから。穏やかで清潔な早朝の空気の中に、滑車の音はやけに大きく響く。その度に、縄に括り付けられた釣瓶は、井戸の底と地上とを飽きもせず行き来していた。
「――へぇ。“聖女”じゃん」
唐突に背後から聞こえてきた声を、しかしルシエルは黙殺する。最近あまり顔を出さなくなったと、清々していたのだが。立てた右膝に頬杖をつきながら、ひたすら滑車を回し続ける小さな人影をただ静かに眺め続ける。あと一杯か二杯程度で、大桶は満水になるだろう。あれほど汚れたものを、洗おうなどとよく思ったものだ。
「久しぶりだよなぁ。お前が“聖女”を傍におくなんて」
「……傍においたつもりはない」
素っ気なくそう答えると、男はくつくつと愉快そうに笑いながら、ルシエルの隣に胡座を組んで腰掛けた。あの女もつくづく変わり者だが、こいつもまた呆れるほど懲りない奴だと、ルシエルは頭の中で密かに毒づく。面倒で厄介だが、しかし今やこの礼拝堂にやって来る者といえば、この男くらいなものだろう。嘗ては礼拝者の絶えなかったこの場所も、人々の記憶の中から忘れ去られて久しい。
「しかしまあ、何でこんなところに“聖女”がいるわけ? 普通は王都の大聖堂にいるはずだろ」
漸く水の一杯になった大桶を見下ろし、女は満足げに笑みながら服の袖を捲し上げる。毛先に向かって緩くウェーブのかかった、淡い亜麻色の髪の毛。白磁のように滑らかな白い肌。長い睫毛に囲まれた、二重瞼の大きな目。涼し気なミントブルーの瞳。
「ああ、そういや最近、“本物の聖女”がどうとか、“偽物”がどうとか、やたら騒がれてたなあ」
ははっと嗤った男の声には、あからさまな嘲りが滲んでいた。ルシエルは眉根を僅かに寄せ、洗濯板へと手を伸ばす女を見つめる目を、そっと細める。男の嘲笑が、眼下で忙しなく動き回る少女ではなく、噂話ひとつで右往左往する愚かな人間たちへ向けられたものであることは明らかだった。そして同時に、彼が今、誰の顔を思い浮かべ、何を思い返しているのかも――。それを聞くまでもなく理解出来てしまう自身に、ルシエルは胸の内で舌打ちをこぼしながら、そっと天を仰いだ。
「――“あの子”が死んで、もうどれくらい経つんだっけ」
思えばあの日も、雲ひとつない蒼穹が一面を覆っていた。突き抜けるように澄んだ、美しい青色が。
そう思いながら、ルシエルはゆるやかに腰を上げ、左肩に垂れていた髪を片手で払う。男の言葉に、興味も関心もない、と示すように。眼下では相も変わらず、“魔女”と断じられた女が、慣れた手つきで洗濯に勤しんでいる。朝特有の、清らかな光を浴びながら。――嘗てそれを愛用していた人間が、そうしていたのと同じように。
「……さあな」