10
そう思いながら、ふと、背後へ目を向けた時だった。ランセット窓に嵌め込まれたステンドグラス越しに差し込む陽光に照らされ、鮮やかに彩られた大理石の床の上に、ルシエル様が静かに立っているのが見えたのは。この世のものとは思えないほど優美なその姿に、私はつい手をとめ、じっと見惚れてしまう。青白い月明かりの中の彼は、とても神秘的で夢幻のようだったけれど。眩い朝日の中に佇む彼は、それとはまた違って、思わず目を細めてしまいそうなほど神々しく、澄んで清廉なヴェールにやさしく包まれているように見えた。
「……何をしている」
けれど、やはりと言うべきか、投げかけられた声はとても冷淡で、どこか刺々しい。裁縫用の小針でちくちくと胸を刺されているような、そんな哀しみとも寂しさともつかないものに打ち拉がれながら、それでも私は箒の柄を握る手にぎゅっと力を込め、出来る限り明るく、爽やかな笑みを浮かべてルシエル様へ向き直った。
「掃除をしているのです。綺麗な方が、ルシエル様も過ごしやすいかと思いまして」
開け放されたままの扉から吹き込むやわらかな風が、淡いラベンダーグレイの髪の毛をふわりと揺らす。寝起きなのか、それとも外を散歩でもしていたのか。左肩に流された三つ編みはところどころ緩み、少しだけほつれているのが見えた。
祭壇の上に据えられた彼の像は、いつも少しの乱れもない、崇高で凜々しい姿をしているというのに。もちろんそれらは、ノミやハンマー、ラスプ等を用いて精緻に彫り込まれた、微動だにしない大理石の像なのだけれど。だからこそ、今目の前に立つ彼が、“生きた存在”としてそこにいるのだと、強く感じられる。じんわりと、あたたかなものが胸に広がるようにして。
「余計な世話だ。さっさと出て行けと言っただろう」
なめらかな眉間に皺を寄せ、呆れたように肩を竦めながら、ルシエル様は煩わしげな目で私を見下ろす。一晩が明けても尚、突き放す言葉は変わらない。「本物の聖女はお前だ」と言った、その同じ口で。
どうして聖女を遠ざけたがるのか、私にはまるで分からない。
主神と聖女は、決して切り離すことの出来ない対の存在だ、と、そう語ってくれたのは大主教だった。まだ私を“本物の聖女”と思い、一人前に育て上げるべく、厳しくもあたたかく、やさしく接してくれていた頃に。
神は、自らに代わって人々と繋がる“媒介者”を求める。神の声を聞き、神の意志を伝える、唯一無二の人間を。つまりそれが、“聖女”だ。ひとつの時代にただひとりだけ存在する、神と対になる無比の存在。どんな宗教書を読み漁ってみても、そこに記されていることは殆ど同じだった。神と聖女はふたりでひとつ。故に、聖女もまた偉大なり、と。
それなのに、ルシエル様は今朝もまた、私に対して素っ気ない。眼差しと言葉の冷淡さが、ぴたりと一致している。だから、それが嘘ではないということが、どうしても分かってしまう。ここから出て行ってほしいというのは、紛うことなき本心なのだろう。唇や瞼の微かな動きからも、それがひしひしと伝わってくる。
私を“本物の聖女”だと認めていながら、ルシエル様は何故、そうやって頑なに拒絶をするのだろう。大主教が諄々と説いていた教えとも、大聖堂の書庫に並ぶ無数の宗教書に綴られていた内容とも、何もかもが違う。今目の前にいる彼の反応は、悉く。――更に言えば、数十年前に出会ったあの時の彼とも、また違うような気がした。まるで別人のように。
「私は、“魔女”ですから。……王都へ戻ることは、出来ません」
独り言を呟くようにそうこぼし、足元へそっと視線を落とす。王都を出る時に履いてきた靴は、土や草汁や日照りのせいで、すっかり薄汚れてしまっていた。審判の日にはまだ幾分綺麗だったのに、所々にほつれや擦り傷も見受けられる。それがなんだか、“聖女”というよりも“魔女”の風貌らしくて、自ずと静かな苦笑が漏れた。
「それに、ルシエル様は仰ったではありませんか」
どこかが破けたり壊れたりしてしまうまでは履き続けるしかないだろう、と頭の片隅で思いながらゆっくりと顔を上げ、綻ばせた目でルシエル様のかんばせを真っ直ぐに見つめる。不機嫌そうに顰められた顔は、けれどそれでも尚、気高く美しい。その端麗さは、寧ろ威圧的でさえある。
しかし、私は彼の向ける深紫の瞳に臆することなく、にこりと笑みを深めた。箒の柄を握る手は、それでも少しばかり震えてはいるけれど。
「王都へ戻るなり、他の地へ行くなり、好きにしろ、と。……ですから私は、好きなようにすることにしたのです」
アメシストのような双眸を、穏やかに、けれども揺るぎのない強い意志をこめて受け止める。もっと不快感を露わにされるかもしれない、と思った。睨め付けられ、侮蔑のこもった眼差しを向けられるかもしれない、とも。
しかし彼は、まるで虚を突かれたように一瞬言葉を詰まらせ、それから呆れを孕んだ溜息を深々と吐き出した。恐らく、自身の失言を察したのだろう。
「……呆れたものだ」
そう言いながら肩を竦め、ルシエル様は左胸に垂れていた三つ編みを背中へと払い退ける。光の加減によっては白にも見えなくはない、淡いラベンダーグレイの髪の毛が、眩い陽光の中で淡くきらめく。白い耳朶につけられた青いピアスは、よくよく見るととても大粒で、先端にはシルバーの装飾が一列に連なっていた。最高傑作と名高い大聖堂の神像にも、この廃れた礼拝堂にある神像にもない、今目の前にいる彼だけが身につけている唯一のもの。
その澄んだ青色を、私は遠い記憶の中にふと見つける。ベッドに横たわる私を見下ろしていた、あの時。手の甲にやさしく指先を触れさせていた彼の耳にもまた、全く同じデザインのピアスが揺れていた。
「拒まれていると分かっていながら、よくもまあ、こんな場所に居たがるとはな。滑稽にもほどがある」
ぱちりと目を瞬かせ、記憶と現実の狭間を跨いで意識を引き戻す。ルシエル様は不満げに、いっそ苛立たしそうともいえる横顔で、側廊の壁に設けられた窓へ、或いはその奥へと目を向けていた。くっきりとした凹凸のある端正な輪郭と、なだらかな弧を描いて上を向いた睫毛。
迷わなかったわけではないし、決断をすることは決して楽なことでもなかった。
昨夜ルシエル様が去って以降、長椅子に横たわって聖紋を眺めながら、私はほぼ一晩中様々なことを考えていた。身体の疲れも、ひどい眠気も、何もかもさっぱり忘れてしまうくらいに。初めてルシエル様に出会ったあの夜のこと、右手の甲に少しずつ紋章が浮かび上がってきた時のこと、それを知った大主教自ら馬車に乗って孤児院まで迎えに来てくれた時のこと、立派な聖女になる為に様々な勉強に明け暮れていた時のこと――そして、“偽物の聖女”と断じられ、悪しき“魔女”の烙印を押された時のこと。
――神意を冒涜し、聖なる座を穢したその咎は、まさしく大罪に値する。
あの時突き刺されたエリオット殿下の言葉は、今も耳の奥に鮮明に残っている。薔薇の棘のように、それはどうしても鼓膜から抜け落ちてくれないのだ。だから、何度も何度も思い出しては、頭の中で反芻してしまう。神意。咎。大罪――。
けれどルシエル様は、はっきりと仰った。迷いのないきっぱりとした口調で。私の方が思わずたじろいでしまうほどの、いっそ清々しいほどの声で。素っ気なくも、揺るぎのない確信に満ちた言葉で。
――“本物の聖女”はお前だ。己でつけた“聖紋”が分からなくなるほど、俺は落ちぶれていない。