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01

 私はその瞬間、確かに思った。

 ――神様はいないのだ、と。


 右を見ても、左を見ても。念の為に上を仰いでもみたけれど、そこにはステンドグラスの嵌め込まれた細長いランセット窓があるだけで、どこにも神様の姿などありはしなかった。

 だからもちろん、神の呼びかけだって聞こえない。息を殺して耳を澄ませてみても、鼓膜を叩くのは群衆のざわめきばかり。どんな声音をしているのか、どんな言葉を囁いてくれているのか。私には、なにひとつ分からない。


 ああ、やっぱり――私はもう、とっくに見放されていたのだ。

 そう悟った瞬間、ひときわ澄んだ声が聖堂内に響き渡った。陶然と蕩けたような、甘く、熱を帯びた喜びの声が。


「殿下、ご覧下さい! あちらに……あの光の中に、主神ルシエル様がお立ちになっておられますわ!」


 弾けたように沸き起こるどよめきの中、私はただ力なく床に膝をついているしかなかった。静謐さとはまるで程遠い、昂揚した人々の茹だるような熱気に包まれていながら、なぜか胸の奥は、ひたりと冷たく沈んでいく。何かがぽたりと、その冷たい水面に滴り落ちる度、周囲の喧騒が、少しずつ遠ざかってゆくような気がした。ゆっくりと、でも確かに。まるで穴の中に呑み込まれ、小さく窄まってゆくように。


 あんなにも色鮮やかで、眩く思えたステンドグラスでさえ、今の私にはただの色の抜けた、無機質な硝子のようにしか見えなかった。ともすれば、精緻なトレーサリーの輪郭までもが、視界の中で静かに溶けてゆく。


 鼓動も、呼吸も、何もかもが止まってしまったようだった。

 それなのに、頭の中には次から次へと、懐かしい記憶ばかりが溢れ出してくる。病に苦しみ、床に臥せっていた時のこと。そっと手を握られ、甲の皮膚をやさしく撫ぜられた時のこと。やがてそこに、聖女の印である聖紋が浮かび上がった時のこと。孤児院の友人や院長たちに見送られ、立派な馬車に乗せられて大聖堂へ向かった時のこと――。


「王太子殿下へ。主神ルシエル様の神託を、お伝え申し上げます」


 彼女のそのたった一言で、聖堂内のざわめきが、ぴたりと静まった。まるで風が止み、時間までもが息を潜めたように。誰も彼もが、彼女の紡ぐ二言目に耳をそばだてているのが、気配で分かる。どんなに僅かな言葉も、絶対に聞き漏らすまいと。


 まるで壊れかけたぜんまい仕掛けの人形のようなぎこちない動きで、私はゆっくりと隣へ目を向けた。陶器のように滑らかな白い肌、陽光に照らされて淡く輝くペールピンクの長い髪の毛。胸元に純白の薔薇をあしらったやわらかなドレスの裾をふわりと靡かせて、彼女は悠然とした足取りで祭壇の前へと歩み出る。薄い黄色の瞳に、確信に満ちた光を宿らせて。どこか勝ち誇ったようにも見える横顔で。


 そんな彼女の、ほっそりとした白い右手の甲には、金色の紋様が浮かんでいる。鋭く尖った八芒星と、優美に開かれた片翼、それらを囲むようにして描かれた繊細な円環。――私の手の甲に刻まれたそれと、全く同じ“聖紋”。


 それなのに、私には何も視えなかった。何も聞こえなかった。神の姿も、神の声も、なにひとつ。


 神託――それは、神の声を授かることを許された“聖女”だけに与えられる、尊い御言葉。もちろんそれは、“本物の聖女”の耳にだけ届くもの。

 つまり、神に選ばれたのは彼女であって、私ではなかった、ということだ。彼女が“本物”であり、そして私は、聖女を騙ったただの“偽物”。

 神の姿を視ることが出来るか。神の言葉を聞くことが出来るか――。

 それが、“本物の聖女”を審判する為の最終儀式。けれど私は、そのどちらも果たすことが出来なかった。だから私にはもう、“聖女”という肩書を名乗る資格はない。


 ならばこの聖紋は、いったい何だというのだろう――。神に選ばれし者となった、アリス・ヴァロア伯爵令嬢の麗しい後ろ姿を眺めながら、静かに奥歯を噛み締める。私が“偽物”であるのなら、この聖紋はなぜ手の甲に今も薄れることなく在り続けているのだろう。“あの方”が触れてくれたその場所に、年月を経るごとに少しずつ浮かび上がり、今やくっきりと鮮明に刻まれている、この“聖女の証”は。


 この証があったからこそ、私はここへ連れてこられた。大主教自らが、わざわざ孤児院に足を運んでまで。皺の寄った顔に柔和な笑みを湛え、「貴女様こそ本物の聖女です」と、穏やかな口調で、それでもはっきりと断言してくれたはずなのに――。

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