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陽炎の家

作者: 太田

 千葉洋己(ちばよしあき)は、十五年ぶりに実家に帰る事にした。


 彼は、今日、両親に結婚する旨を伝えに来たのだ。


 蝉の声が、耳を()くように響き、陽炎(かげろう)がアスファルトの上でゆらめき、遠くの景色(けしき)を歪ませていた。


 彼が最後にこの家を出たのは十八のときだった。以来、幾度(いくど)となく帰省(きせい)の機会はあったはずだが、どれも見送ってきた。理由は簡単だった。この家に、帰る理由がなかったのだ。


 少年時代の洋己が、階段の陰で膝を抱えていた。殴られた頬に手を当て、堪えていた。父は無骨な職人気質(きしつ)で、成績が悪いと容赦(ようしゃ)なく手を上げた。泣けば「男なら泣くな」と叫び、さらに拳を振るった。


 彼の肌には、いつもどこかに(あざ)があった。色が消えれば、また別の場所に痣ができた。言葉よりも先に暴力があり、会話よりも沈黙が支配していた。洋己にとって父とは、「痛み」の象徴だった。


 母は、いつも彼の傍らにいた。父の怒声が去ったあと、そっと背を撫で、絆創膏を貼ってくれた。だがその優しさも、完璧ではなかった。母の声が鋭く尖るときがあった。「どうしてあんたはそんなに出来が悪いの?」隣家の(じゅん)君と比べられることは、もう習慣のようだった。


 この家には、居場所がなかった。だから出た。二度と戻らぬつもりで、東京の夜を歩いた。


 だが、人の心は不思議なものだ。


 会社で出会った女性と結婚を決めたそのとき、不意にこの家のことが頭に浮かんだ。彼女は優しい人だった。洋己の過去に深く踏み込まず、ただそばにいてくれた。彼女の存在が、過去の痛みを少しずつ薄めていったのかもしれない。


 しかし、真実はきっと、両親にもう一度会いたかったのだ。


 今や両親は八十に近い。


 老いは容赦なく、時間の扉を閉じていく。


 陽炎の向こうに、古びた玄関が見えた。


 14年ぶりの実家は、そこまで変わっていなかった。


 変わった事といえば、両隣の家が建て替わってるくらいだった。


 彼は、冷や汗をかきながら、実家のインターホンを鳴らした。


───ピンポーン


 インターホンを押すと、電子音が乾いた空気に滲んだ。


───ガチャッ


 出たのは、洋己の母、圭子(けいこ)だった。


 彼女は一瞬、石のように固まったが、次の瞬間、「洋ちゃん!」と叫び、彼に抱きついた。その体は、昔よりもずっと小さく思えた。


 「ひ、久し振り。」

 

 「もう、何年もどこで何してたの!」


 と、再会を懐かしむように、会話する。


 圭子の目には、薄っすら涙が浮かんでいた。


 「親父は、いないの?」


 「お父さん?いるわよ。それより、家に上がりなさい。」

 

 久し振りの自宅は、昔となんな変わりない様子だった。


 学生時代、憂鬱(ゆううつ)になった玄関、帰った時に見える壁に飾ってある謎の絵画。


 なんな変わりない。


 少し狭い廊下を歩く。


 ギシギシッと床を踏みしめる音が響く。


 リビングには父の久明(ひさあき)いた。新聞をたたみ、ゆっくりと立ち上がる。その顔は、歳月(さいげつ)の分だけ、(しわ)が刻まれていた。


 「おかえり」


 その一言に、洋己の時間が止まった。


 何故なら、彼の知っている、父は、そんな言葉を洋己にかけたことなどなかったからだ。


 「た、ただいま…。」


 その言葉は、喉の奥でひっかかったまま、ようやくこぼれ落ちた。洋己の声は、頼りなく震えていた。あまりに場違いで、まるで誰か他人が口にしたようにすら感じた。


 ゆっくりと新聞をたたみ、重たい身体をソファから持ち上げた。


 「少し、話さないか? お母さんも一緒に」


 (うなが)されるまま、三人はテーブルを挟んで向き合った。


 懐かしいはずの部屋が、なぜか初めて足を踏み入れた場所のように思えた。空気は重く、言葉が息に乗る前に重力で落ちてしまうような静けさが漂っていた。


 「今は、何の仕事をしているんだ?」


 「…営業。」


 「そうか…。」


 会話が続かない。話が続かない。テーブルの木目ばかりを視線でなぞっていると、耳の奥で蝉の鳴き声が遠くにじんでいった。


 そのときだった。


 久明が、唐突(とうとつ)に深く頭を下げた。


 「洋己。これまで本当にすまなかった。」


 その声は低く、掠れていた。言葉を絞り出すようにして、久明は続けた。


 「すまなかった。……お前には厳しすぎた。お前が出ていったあと、オレは間違いに気づいたんだ。本当に、すまなかった」


 父が、自身に謝るなどという未来を、人生のどの瞬間においても想像したことはなかった。拳でしか語れなかったあの人が、今こうして、頭を垂れ、言葉で過ちを詫びている。


 やがて、母圭子もその隣で、静かに頭を下げた。


 「私からも。私がカッとなった時に貴方が傷つく様な言葉をはいてしまったわ。とても後悔してる。本当にごめんさない。」


 洋己は、しばらく言葉を見つけられずにいた。あまりに非現実的で、心が追いつかなかった。けれど、やがて、ひとつだけ言えた。


 「もういいよ。分かった。許すよ。」

 

 と声をかけた。


 その言葉に、父と母はそっと顔を上げた。目は赤く、腫れていた。

 

 気づけば、胸の奥でずっと重しのように沈んでいた何かが、音もなく消えていた。


 その後、3人での会話は、不思議なほど自然だった。笑いもあった。誰も怒鳴らなかった。


 洋己は、結婚すること、そしてその報告のために来たことを話した。両親は、再び涙を流しながら喜んだ。


 帰り際。狭い玄関で並んで立つ両親の姿が、なぜか滑稽(こっけい)で、あたたかかった。


 「じゃあ、行くよ」


 「元気でな」


 「身体には気をつけるのよ」


 ドアを開けると、熱気と蝉の声が再び身体を包んだ。洋己は最後に、両親の顔を見て、ドアを閉めた。


 そのときだった。


 「本当にありがとう」


 背後から聞こえたその声に振り返ると──そこに、家はなかった。


 目の前に広がるのは、空き地だった。雑草が風に揺れ、遠くで蝉が鳴いている。彼はその場に立ち尽くした。


 ……さっきまで自分がいたあの家は? 両親は? リビングは? 


 理解できなかった。長考しても答えなど出なかった。


 洋己は、隣に住んでいた、淳君の家を訪ねることにした。


 少年時代、何度も通ったその家も、今はすっかり様変わりしていた。白く新しい外壁、無機質なインターホン、そして表札さえ掲げられていない。時の流れが、記憶の輪郭(りんかく)を薄く削っていた。


 それでも、洋己はひとつの希望にすがった。


 ───ピンポーンッ


 無機質な音が、静かな住宅街に小さく響く。


 「はい」


 しばらくして、くぐもった老人の声が応じた。


 「すみません。こちら、淳さんのご自宅でしょうか?」


 「ああ……淳なら、いまは別のところで暮らしておる。失礼だが、どちら様かな?」


 「昔、この隣に住んでおりました。千葉洋己と申します。少しだけ、お時間をいただけますか?」


 少しの沈黙ののち───


 ───ガチャッ


 玄関の扉がゆっくりと開いた。そこから現れたのは、腰の曲がった老人だった。しわの深い顔に、どこか懐かしさがあった。


 「久しぶりだね、洋己君。」


 その声には確かな記憶が宿っていた。松沼和夫(まつぬまかずお)。淳の父親。昔と変わらぬ穏やかな語り口が、時の距離を一瞬だけ縮める。


 「どうしたんだね?」

 

 「その…つかぬことをお尋ねしますが……あの、父と母のことを、何か……ご存知ありませんか?」


 和夫は沈黙した。そして、ぽつりと言った。


 「……そうか、君は知らなかったんだね。……君のご両親は、5年前に火事で亡くなったんだよ」


 言葉の意味を理解するまでに、時間がかかった。耳には、ただ蝉の声だけが残っていた。


 和夫の話によれば、火は夜中に出た。あっという間だったという。隣の家にも火の手が回ったが、亡くなったのは両親の二人だけだった。


 「君のお母さん、よく言ってたよ。『洋己には、ひどいことをした』って、ずっと後悔してたよ」


 洋己は、黙って頭を下げた。


 帰り道。ふと振り返ると、陽炎が揺れていた。アスファルトの向こう、蝉の声が聞こえた。

 

 あれは幻だったのか、それはわからない。


 それでも、彼の胸には、たしかに家族と話した記憶が残っていた。


 そして、ただひとつ確かなことがあった。


 彼は、過去と和解したのだ。

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