8月16日(2)
海原を左手に眺めながら、かれこれ十五分は歩いていた。
ラジオのノイズの音に似た波の音に混ざり、遠くの方から海鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。
振り返るとそこには、亜麻色の砂浜に二人分の足跡が寄り添いながら、どこまでも果てしなく続いていた。
先ほどから僕たちは会話という会話をしていなかった。
それは話すことが無くなったわけではなく、歩くのに疲れたからというわけでもない。
互いに手と手を取り合い、同じ景色を見ながら同じ方向へと進む。
そうすることで僕と彼女は今、ひとつになっていた。
もはや言葉を交わす必要もないほどに。
やがてゴール地点の白い塔が霞の向こうに見えてくる。
「夏生くん」
不意に耳元で名を呼ばれ、続け様に繋がっていた手がそっと離れた。
「私がいいよって言うまで、目、つむってて」
言われるがままに瞼を閉じる。
視覚が閉ざされると波の音がより大きく感じ、まるで自分が海の上に立っているかのような錯覚に陥る。
時間にすればわずか十秒足らずだったはずだが、視覚からも触覚からも彼女が消えていたその時間は、それよりも随分と長く感じられた。
「もういいよー!」
その声はやけに遠くから聞こえた。
目を開くと、数十メートルも離れた場所でサンダルを両手に持ち裸足になった彼女が、こちらに手を振りながら「灯台まで競争ねー!」と言うや否や、くるりと身を翻して走り出す。
呆気にとられたままで、徐々に小さくなっていく彼女を眺めていた僕だったが、状況を把握すると砂を蹴ってその背中を追った。
「夏生くんって、足も速いんだね」
ようやく追いついてきた彼女は、足の裏に付いた砂を払いながら少しだけ悔しそうな顔でそう言った。
「三週間ぶりくらいに全力で走ったよ」
走力への言及は避けつつ、サンダルを履き終えたばかりの彼女の手を再び取る。
そうして僕たちはまた、ひとつになることができた。
「小さい頃はすごくおっきいと思ってたけど、そんなでもなかったかも」
彼女が目の前の塔を仰ぎ見ながらそう呟く。
僕には十分巨大に見えるが、幼かった頃の彼女の目には、きっと今の何倍も大きく映っていたのだろう。
灯台から少しだけ離れた木陰にはベンチが二基ならべて置かれていた。
僕たちは海側を向いたそれに並んで腰を下ろした。
夏の日差しを受けて白く輝く光の塔は、海上交通の安全のために建てられた守り神であるのと同時に、休日を楽しむ人々の憩いの場でもあった。
水平線の上にある巨大な入道雲を指差し歓声を上げる、幼い兄弟とその父と母。
堤防の突端に三脚を立て、高そうなカメラで写真の撮影をしている、髭面の中年男性。
ここに来ることだけが目的だった、僕と彼女。
各々が同じ場所に居ながらにして、それぞれの夏の時間を過ごしていた。
「夏生くんって、やっぱり夏の生まれなの?」
唐突に振られたその話題は、過去に何度も答えたことのあるものだった。
「ううん、四月。なんかうちの両親が夏に出会ったからだって」
そんな大味な理由で付けられた夏生という名前だったが、当の本人である僕はそれなりに気に入っていた。
「志帆ちゃんは?」
「私は七月生まれ」
夏に生まれたにしては、彼女は随分と白く透き通る肌の持ち主であった。
「夏生と志帆って、なんか海に似合う名前だよね」
彼女はそう言うと、口に手を当てクスクスと笑った。
次に気がつくと、さっきまで灯台の下にいた子連れの家族がいなくなっていた。
「志帆ちゃん。あそこまで行ってみようよ」
堤防の突端を指差しながら腰を上げ、彼女の手を取り引き上げる。
その時だった。
「すみません」
バリトン歌手を思わせる渋い声がした方向に顔を向ける。
カメラと三脚を手にした男性が、再び「すみません」と口にしながらこちらに一礼した。
「ぶしつけで申し訳ない。僕は趣味で写真を撮っている者なんだけど、もし良かったらでいいんです。あなた方の写真を撮らせてもらえませんか?」
その突然の申し出に、僕たちは顔を見合わせ目を白黒させた。
彼の説明によると、近いうちに写真のコンテストがあるそうで、その題材として僕と彼女が目に止まったのだという。
「夏生くん、どうする?」
「僕はべつにいいけど……」
「夏生くんがいいなら、私も」
男性に指示されるがままに、コンクリートの擁壁の縁に腰を下ろす。
「さっきお二人がされていたように、彼氏が彼女の腕を引っ張って立ち上がらせてください」
彼氏彼女と言われたことに若干の照れと抵抗があったのだが、そんなことを指摘するのはもっと照れくさかった。
言われたとおりに、先ほどと同じ動作を繰り返してみせる。
「思った通りだ! すごく良かったです!」
そのあとも何度もポーズを変えながら、何十枚もの写真を撮られた。
「お疲れ様でした。最後にもう一枚だけ。これはお礼として後日あなた方に送らせてもらうので、どうぞお好きなポーズで」
そう言われてしまうと、今度は逆にどうすればいいのかわからない。
「夏生くん、こっちきて」
彼女は僕の手を引くと堤防の突端まで進み、カメラを構えた男性の方にくるりと振り返る。
「お願いします」
こうして最後の一枚は、紺碧の海原と群青の空を背景にして僕と彼女が手を握りあっただけの、非常にシンプルな構図の写真になった。
「出来上がった写真はどちらに送ればいいですか?」という男性の問に、彼女は自分の名前と住所を教えたようだった。
男性は何度も礼を言い、自販機でジュースまでおごってくれた。
引き受けてしまった直後は少し面倒だと思っていたのだが、これほどまでに感謝されると、何だか自分たちが偉業でも成し遂げたような気持ちになった。
大きく手を振りながら去って行く男性を手を振り返しながら見送る。
そして、ついに灯台の下にいるのは、僕と彼女のふたりだけになった。
「ちょっとだけ疲れちゃったね」
自販機脇のベンチに並んで腰掛けると、彼女は静かに僕の肩に体重を預けてくる。
突然のことに驚いてしまったが、すぐに彼女の頭の高さに肩の角度を調整した。
しばらくそのままの体勢で言葉を交わしていると、急に彼女からの返事が返ってこなくなった。
代わりにスースーとかわいらしい寝息が聞こえてくる。
今度は僕が彼女の目覚めを待つ番だと決めながら、左肩に寄り掛かる安らかな寝顔を覗き見る。
柔らかそうな髪が海風に流され、膝の上に置かれた僕の手の甲にその毛先が触れた。
シルクのような感触を伴ったそれは、サラサラと音を立てながら即座に手の上から零れ落ちていった。