8月15日(2)
ようやく氷山を崩し切ると、その向こう側には見慣れた景色が広がっていた。
小学生だった頃の国語の時間に、山の陰になるせいで半日しか陽が射さない村の住人が、長い時間を掛けて山の土や石を削り、一日中陽の光が得られるようになったという物語を読んだことがある。
今の僕はまさにその村の住人だった。
当時は埋め立てられた湖に住む魚たちの安否が気になって仕方がなかったが、今は彼女のことが心配でならない。
「志帆ちゃんはどう? いけそう?」
舌をブルーハワイ色に染めた僕の問い掛けに、彼女は弱々しく首を左右に振って答えた。
「貸して」
力なく差し出されたカップに目を落とすと、そこにはまだ半分以上も氷が残されていた。
僕はそれを丼ぶりの飯でも搔き込むかように一気に、胃袋へと流し込んだ。
次の瞬間にはもう、激しい頭痛と胸痛が襲ってくる。
もんどり打ちそうになるのを気力だけでなんとか堪え、平然を装って空になった容器を彼女に示した。
「夏生くんすごい!」
称賛の言葉に手を振り応えながら、空になったカップを捨てに行くため立ち上がる。
彼女に背を向けた途端、耐えに耐えていた苦痛が表情に反映され、途中ですれ違った小学生の女の子が「っひ!」と声をあげた。
かき氷のダメージが癒えるのを待ちながら、昨日の午後に話しきれなかった雑談の続きをする。
それは学校にいる恐い先生の話だったり、最近買ったCDの話だったりと、本当に他愛もないことばかりだった。
それは僕にとっては最高に楽しい時間で、彼女もきっと同じように感じてくれているはずだった。
そう確信できるほどに僕たちはよく口を動かし、それに笑い続けた。
そうして三十分も経った頃。
広場の時計に目を向けた彼女は小さく息を吐くと、長いまつ毛をそっと伏せた。
「夏生くん、ごめんなさい。私、そろそろ帰らないと」
まだ八時を少し回ったところが、中学生の女の子の門限を考えれば、今日がいくら特別な日だからといっても当然だろう。
「家の人が迎えに来てくれるの?」
「ううん。帰りは歩きなの」
「じゃあ送っていくよ」
「え、いいよ」
「いこ」
「あ! 夏生くん待って!」
広場を出ると少しだけ早足に県道を西へと向かう。
暗がりの歩道で手のひらを上にして差し出すと、彼女は熱いものにでも触れるようにそっと手を重ねてくれた。
「夏生くんってやっぱり、ぜったいに変わってる」
その指摘に対する最適な返しを持ち合わせていなかった僕は、可能な限り有り体な返答でお茶を濁すしかなかった。
「そんなに変?」
自覚があるくらいなのだから、実際そうなのだろうが。
「うん。だって、うちの学校にはいないもん」
「僕の学校にもいないよ。志帆ちゃんみたいなかわいい女の子って」
僕は思ったことを自動で出力するだけのコピー機のような男なのだが、故にその言葉の全てが偽りのない本心だった。
だとしても、やはりもう少し言い方というものがあったかもしれない。
なにせ僕たちはまだ中学生なのだし、それよりも何よりも、一昨日の夕方に知り合ったばかりなのだ。
今からでも『な~んちゃって!』とでも言ったほうがいいのだろうか?
それこそ大悪手な気もするが。
そんなどうでもいいことに考えを巡らせていると、ふいに彼女が立ち止まった。
手と手で繋がっている僕も必然的に動きを止める。
「どうしたの?」
「……うちの学校にも」
「え?」
「夏生くんみたいな……素敵な男の子。うちの学校にもいないよ」
昨日の待ち合わせ場所だったリカーショップの前まで来た時だった。
「あ、夏生くん、ここで大丈夫。うち、もうすぐそこだから。今日は本当にありがとうございました」
彼女はそう言うと、浴衣の裾を正してから深くお辞儀をした。
慌てて僕も「こちらこそ」と、かしこまって頭を下げる。
そして互いに顔を合わせてクスリと笑った。
「志帆ちゃん」
「うん?」
「……明日。明日はどこに行こっか?」
自身の口から発せられた言葉のそのあまりの気恥ずかしさに、首の後ろ側がゾクゾクと粟立つ。
一瞬だけ驚いたような顔をした彼女だったが、次の瞬間には手にしていた団扇で口元を隠しながらこう言った。
「いまね、私もおなじこと言おうと思ってたの」
満天の星の下をひとりで歩きながら、今日あった様々な出来事を思い出していた。
このあと僕は、帰宅が遅くなったことで母に怒られるだろう。
だが今はただ、幸せな気持ちに胸を踊らせるがままでいた。
周囲を見回し人も車も見当たらないことを確認すると、歩道と車道を隔てる縁石の上を歩く。
今日は帰ったらすぐに風呂に入り、とっとと寝てしまおう。
そうすればまた、すぐに彼女と会うことができるのだから。