8月2日(3)
「この春にやっと、ずっとそのままだったお姉ちゃんのお部屋を、お母さんと一緒に片付けたんです。その手紙はその時に、机の引き出しから見つけたものです」
いつの間にかまた溢れ出していた涙で濡らしてしまわないように、細心の注意を払いながら封筒に手を掛ける。
丸く可愛らしい字で『夏生くんへ』と書かれたその中には、手紙と写真がそれぞれ一枚ずつ入っていた。
二度、三度と深く呼吸をしてから覚悟を決め、彼女が残してくれたその内容に目を落とす。
夏生くんへ
ごめんなさい。
夏生くんと初めて会った日にはもう、私はあの町からいなくなることが決まっていました。
でも、私はあなたにそのことを言えませんでした。
それは、きっと話してしまったら笑顔であなたと会うことが出来なくなってしまうような、そんな気がしていたからだと思います。
風に飛んだぼうしをびしょぬれになって取ってくれた時、私はすぐにあなたのことを好きになっていました。
夏休みの小学校でデートをして、盆おどりを一緒におどって、山みたいなかき氷を一緒に食べて、それに灯台にも一緒に行きましたね。
私はその一日一日で…ううん、一秒ごとにあなたのことをどんどん好きになっていきました。
夕方の海であなたと別れたあと、私は家に帰ってからいっぱい泣きました。
でも、もう悲しくはありません。
親にはナイショですが、今おこずかいを貯めてあなたに会いに行く計画を立てています。
来年の夏にはまたあの海で、あなたと一緒に灯台まで歩いて新しい思い出を作りたいです。
そして、高校を卒業するまでにもっといっぱいお金を貯めて、あなたと同じ大学に通うのが私の夢です。
だから、それまでは絶対に彼女を作らないでください。
絶対に!
あなたと過ごした夏の日々は、私にとって一生の宝物です。
次に会った時には、あの時に言えなかった言葉を伝えたいです。
P.S.
もうひとつだけ、ごめんなさい。
ハマゴウの花言葉を知らないって言ったのはウソです。
でも、はずかしいのでここには書きません。
もし図書館に行く機会があったら調べてください。
志帆
手紙を封筒に仕舞い、次に一緒に入っていた写真を取り出す。
そこには、海を背景にして真顔でカメラに目を向ける俺と、海風に髪を靡かせながら笑みを浮かべる彼女が写っていた。
「お姉ちゃんが夏生さんのお話をしてくれる時、いつもこんな顔で笑ってました」
俺たちは涙を拭うことすらせずに、写真の中で幸せそうな笑みを浮かべている彼女のことをずっと見ていた。
しばらくそうしたあとに顔を上げると、いつの間にか夏の夜空に一番星が瞬いていた。
彼女が行ってしまった遠い場所と比べれば、あの星など少し手を伸ばせば簡単に届いてしまうことだろう。
「俺は……君のお姉さんの、志帆ちゃんのことが大好きだった」
「お姉ちゃんも同じです。夏生さんのおかげで、お姉ちゃんは幸せでした」
彼女はそう言うと、先ほどとは逆にその白く細い指で俺の頬の雫を拭ってくれた。
夏の夜の青に支配されつつある空の下、赤土の畑の間を真っ直ぐに伸びる道を並んで歩く。
言葉も交わさずに足を動かし続けているこの状況は、あの夏の日の海岸を彼女の姉と歩んだ時とよく似ていた。
しかし、目指しているゴールはとても対照的に思えた。
「お姉ちゃんに聞いていた夏生さんと、実際に会って話してみた夏生さんって、なんだか少しだけイメージが違いました」
ふいに彼女がそんなことを言い出す。
発言の意図を問うために、ちょうど頭ひとつ分だけ低い位置にいる彼女に目を向ける。
そこにあった小さな顔が、あまりにも初恋の人のそれと瓜二つで、止まったばかりの涙がまた溢れてきてしまう。
そのことを悟られないよう、わざとらしく咳払いをして空を見上げると、改めて言葉の意味を彼女にたずねる。
「違ってたって、どんなふうに?」
「夏生さんはヘンな人だって。お姉ちゃん、そう言ってました」
『夏生くんって、ちょっと変わってる』
確かに彼女の姉には幾度となくそう言われたことがあった。
しかし、変わってると変な人だと、後者の方が随分と印象が悪い気がしてならない。
「人よりもちょっと変わってるってだけだよ」
自分でそう言ってから、あまり意味のない訂正だったことに気づく。
「……でも、夏生さんはお姉ちゃんが好きだった人です。だからもしヘンな人だったとしても、それはきっと……」
白い頬を赤らめながらそう言った彼女は、まるでスキップでもするかのように軽い足取りで俺の前に躍り出ると、麦わら帽子を両手で押さえながら勢いよく振り向く。
そして、少しはにかんだような笑顔を見せながら、さらに短く言葉を続けた。
「夏生さんは私が想像していた通りで、とってもとっても素敵な人でした」
そのあと俺たちは言葉を交わすようなこともなく、ゆっくりでも急ぐでもなく歩みを進めた。
やがて景色はさみしげな耕作地から、人の営みの気配がする小規模な集落へと変わっていった。
窓に明かりを灯す家々が目に入ると、久しぶりに人の住む世界に戻ってきたような気分になる。
それと同時に、長かった少年時代が今まさに終わってしまうような、そんな不確かな予感が胸をよぎった。
「夏生さん。うち、もうすぐそこなので。送ってくれてありがとうございました」
「うん。こちらこそ、今日は本当にありがとう」
「いえ。……あ、そうだ」
彼女はポシェットからなにかを取り出すと、手のひらの上に置いたそれを俺の目の前に差し出した。
それは、夏の空と同じ色の小さなシーグラスで、今日という日の残滓であるわずかな自然光を受け、宝石のようにキラキラと輝いていた。
「今日、夏生さんに会う少し前にみつけたんです。これ、もらってください」
「いいの?」
「はい。私とお姉ちゃんからのプレゼントです」
「……ありがとう」
俺たちは最後に数秒だけ見つめ合うと、申し合わせていたかのように同時に頷いた。
彼女はそのまま何も言わずに背を向け、先ほどよりわずかに歩幅を広げて歩き出す。
やがて幼い後ろ姿が夕闇に紛れて見えなくなる、その寸前。
突如として振り返った彼女は口の横に両手を当てると、驚いてしまうほどの大きな声で、こう叫んだのだった。
「夏生さんにお願いがあります! これからもずっと! ず~っとヘンな人でいてくださいね!」




