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海の青より、空の青(リライト版)  作者: 青空野光
第三章 1997年 夏
14/17

8月2日(2)

「それはお姉ちゃんが夏生さんに書いた手紙です」


 手にした封筒に目を落としたまま、彼女がいま何を言ったのかを理解しようとした。

 お姉ちゃん?

 なぜ彼女の姉が俺に手紙を?

 視線を手元から上げて彼女の顔を見ると、ふたたびその小さな唇がゆっくりと動き、言葉の続きを発した。

 それは今しがた抱いた疑問に対する明確な回答だったのだが、それでも尚、彼女が一体何を言っているのかまったく理解できなかった。


「お姉ちゃんは……志帆ちゃんは二年前に亡くなりました。私は志帆の妹の美帆(みほ)といいます。」 

「え」

 彼女は何を言っているんだろう?

「あ」

 もしかして、この子が志帆ちゃんの妹だと?

「ああ」

 だから容姿(すがたかたち)があの夏とまったく変わって――。

「え」

 亡くなった?

「……」

 誰が?

「……あ」

 あ。

「……志帆ちゃんが」

 ああ。

 ようやく俺は、理解してしまった。


 その瞬間、後頭部をバットで殴られたかのような強い衝撃を受け、温かな砂の上に膝から崩れ落ちた。

 そのまま土下座でもするような格好で額を強く砂に擦りつける。

 息ができない。

 声がでない。

 涙もでない。

「あの……」

 すぐ近くから聞き慣れた声が聞こえた。

 顔を上げれば見慣れた姿もそこにあるはずだ。

 しかし、その聞き慣れた声と見慣れた姿の少女は彼女ではない。

 鼻先にある砂の上に大きな雫がポタポタと落ち、みるみるうちに砂の色を白から黒へと変えていく。

 やっと涙が出てくれた。


 あの夏の日に出会った少女は。

 会ってすぐに惹かれ合った少女は。

 夕暮れの砂浜で口づけを交わした少女は。

 俺の大好きだった少女は、志帆ちゃんは。

 志帆ちゃんはこの世界から、永遠に失われてしまったのだ。


「……あ……あああああ!」

 やっと――やっと声が出てくれた。



 どのくらいの時間が経っただろう。

 ようやく地面から顔を離すことに成功した俺の目に飛び込んできたのは、志帆ちゃんの妹――美帆ちゃんが肩を激しく上下させ、瞳から溢れ続ける涙を両手の甲で懸命に拭っている姿だった。

 膝立ちのままそばまで行くと、途端に彼女は砂の上に膝から崩れ落ちてしまった。

 その隣に腰を降ろして小さな背を擦る。

 彼女は俺の膝の上に顔を埋め、その身体を大きく震わせた。

 彼女の涙を吸った俺のジーンズは、麦わら帽子を追いかけて海に落ちたあの夏の日のように、みるみるうちに青を濃くしていった。


 しばらくのあと顔を上げた彼女の目は、ウサギのように真っ赤に充血しており、涙の伝った頬には沢山の砂が貼り付いていた。

 白磁の肌を傷付けぬよう細心の注意を払い、親指の腹でそっと砂の粒を落とす。

「……すいません」

 彼女は乱れた髪を手櫛で整えてから俺の横で膝を曲げると、おもむろに顔をこちらに向け、そしてふたたび口を開いた。

「夏生さんのことは、お姉ちゃんから何度も聞いていたんです」

 彼女はそれだけ言うと、今度は水平線の方向に顔を向けた。

「あの年の夏は私たち家族にとって、すごく特別な夏でした」



 当時小学五年生だった私は、突然決まったお母さんの再婚と、やっぱり急に決まった転校の予定に胸を痛めていた。

 お父さんが亡くなってから心を弱らせていたお母さんに代わって、家事をしたり私の世話を焼いてくれていたお姉ちゃんも、どうやらそれは同じようだった。

 家族の会話は日に日に減っていき、やがて家の中には常に冷たい空気が漂うようになっていた。


 あれは確か、お盆の初日の、八月十三日の夕方。

 自分の部屋で机に向かい、夏休みの宿題をしていた時だった。

 何やら玄関の方からバタバタと大きな足音が聞こえてきた。

 その大きな足音の主は、次の瞬間にはもう私の部屋の前までやってくると、そのままの勢いでドアをバタンと開けて入ってきた。

 そこに居たのはお姉ちゃんで、その顔は長いあいだ見ていなかった笑顔で満たされていた。

「美帆ちゃん聞いて! お姉ちゃん今日ね、すっごい面白い人とお友達になったよ!」

 お姉ちゃんが息を弾ませて語ったのは、風に飛ばされた帽子をびしょ濡れになりながら取ってくれた、同い年の男の子の話だった。


 その日からお姉ちゃんは毎日のように出掛けていき、帰ってくる度に『彼』の話をしてくれた。

 会ったこともない『彼』の話を聞くと、私も自然と笑顔になることができた。


 引っ越しを翌日に控えた、お盆の終わりの日。

 いつものように出掛けていったお姉ちゃんが、夕方になって帰ってきた。

 私は今日も『彼』の話を聞かせてもらおうと、お姉ちゃんの部屋のドアの前に立った。

 ノックをしようとしたその時、ドアの向こう側から泣き声が聞こえた。

 驚いてしまった私は急いで自分の部屋に戻ると、音を立てないようにベッドの上で膝を抱えた。

 結局お姉ちゃんはその日、一度も部屋から出てこなかった。


 その次の日の、引っ越し当日の朝。

 お姉ちゃんは昨日の昼までそうだったように、笑顔で「おはよう」と言ってくれた。

 でも、それ以降お姉ちゃんの口から『彼』の名前と話を聞くことはなかった。


 引っ越し先は全く知らない土地だった。

 気候も方言も前に住んでいたところとはだいぶ違ったが、それでも仲の良い友達はすぐにできたし、クラスにも馴染むことができた。

 新しいお父さんはとても優しくて、何より嬉しかったのは、お母さんが前より笑顔をみせてくれる機会が多くなったことだった。


 引っ越してから一年が過ぎた、ある日の夕方。

 学校から戻り、部屋でランドセルの中から教科書やノートを取り出していた時だった。

 隣のお姉ちゃんの部屋で大きな物音がした。

 お姉ちゃんは朝から体調が悪くて、今日は学校を休んでいたはずだった。

 ノックをしてからドアを開けると、お姉ちゃんはベッドの上で膝を抱え込むようにして体を丸めていた。

 苦痛に歪んだ顔は深い海のように真っ青で、私が部屋に入ってきたことにすら気付いていないようだった。

 すぐにお母さんの職場に電話を掛けると、お母さんが帰ってくるよりも早く到着した救急車で、お姉ちゃんは病院へと運ばれていった。


 そして、その次の日の夜。

 顔に白い布を掛けられて戻ってきたお姉ちゃんは、もう二度と話してくれることも、もう二度と笑顔を見せてくれることもなかった。

 詳しい病名は教えてもらっていないが、心臓の筋肉に異常が起きたのが原因だということだけは、お通夜の席で大人たちが話しているのを聞いて知った。

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