8月1日(3)
「……あの、大丈夫ですか?」
青空を背景にして覗き込んでいたのは、中学二年の夏にこの場所で出会い、この場所で別れを告げられた少女だった。
言葉が出てこなかった。
それどころか、自分がどこで何をしていたのかすら思い出せない。
すぐ近くから波の音が聞こえる。
ああ、そうだった。
俺はいま海にいたのだった。
「……志帆……ちゃん?」
乾ききった喉の奥から渾身の思いで少女の名を口にする。
改めて目にした彼女は、あの夏と同じような大きな麦わら帽子を被り、あの夏と同じような膝丈のワンピースを身に纏っていた。
三年前のあの日と寸分違わぬその容姿に、自分までもがその時代に戻ったように錯覚する。
だが、俺はあの頃に比べて、体格も顔の印象も随分と変わってしまっていた。
自身の名を口にしたその男が一体どこの誰なのかを、彼女は気付けないでいるようだった。
「俺……ほら、杉浦の」
杉浦とは祖母の家の姓だが、初めて会った時にもそう名乗った記憶があった。
薄く形の良い唇が、『す・ぎ・う・ら』とゆっくり動く。
次の瞬間、長い睫毛の下にある大きな瞳に、急に明かりが灯ったようにみえた。
「もしかして……夏生さん、ですか?」
彼女はあの夏、俺のことを夏生くんと呼んでいたはずだった。
「……久しぶり。こっちに戻ってきたの?」
情けないことに声が震えていた。
「あの……こっちのおじいちゃんが去年の今頃に亡くなって、それで今日は法事で」
「……そっか」
そこで会話が途切れてしまう。
何を話せばいい?
いまはどこに住んでいるのか聞きたかった。
いつまでこっちに居るのかも聞きたかった。
話したいことは沢山あったはずだし、何より伝えたい気持ちがあった。
それなのに言葉が出てこない。
あまりの歯がゆさと情けなさに、手を突いていた地面の砂を握りしめる。
「あの」
少し遠くから聞こえた声に慌てて顔を上げると、先ほどよりも数歩離れた場所に立っていた彼女が再び口を開く。
「ごめんなさい。私、そろそろ行かないと……」
ああ、そうか。
そういうことだったのか。
あの夏の思い出をいつまでも宝物のように、ずっと胸の奥底に大事に仕舞い込んでいたのは、どうやらこの俺だけだったのだ。
「……うん。元気で」
もう少しくらい気の利いた言葉は幾らでもあったはずだ。
ただ、そんな味気のない別れの挨拶が、今の俺の精一杯だった。
本当はすぐにでもここから走り出し、彼女の視界から消えてなくなりたかった。
でも、それではあまりに惨め過ぎる。
俺は座ったまま海に向き直ると、まるで何もなかったかのように水平線の上に浮かぶ入道雲へと視線を向けた。
「夏生さん」
背後からふたたび俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
彼女の記憶にある俺の最後の顔が、情けのない泣き顔などということだけは、絶対に避けたかった。
なので振り返ることはせずに、代わりに小さく頷いて見せる。
「私、明日の夕方にまた、ここに来ます。だから――」
思わず振り向きそうになるのを既の所で耐える。
「何があっても……必ず来るよ」
掠れてしまいはしたが、何とか声にすることができた。




