8月16日(3)
世界が終わるその瞬間まで、ずっとこうしていたいと思った。
しかし、現実というやつはいついかなる時でも無粋だった。
いつしか頭上に広がる夏空から青色の成分が徐々に失われ始める。
「志帆ちゃん」
耳元で囁きかけながら身体を揺さぶると、肩に掛かっていた重みが幾分か和らぐ。
「……あ、ごめんなさい。私、寝ちゃってふぁ……」
言葉尻に欠伸を混ぜてそう言った彼女は、目尻に涙を溜めたまま両手で口を押さえながら立ち上がる。
「……小さい頃にね。お父さんが急に『志帆、灯台に行こう』って言って、ここに連れてきてくれたの」
彼女は海に向けていた視線を灯台に移しながら、さらに言葉を続ける。
「その時にね、『パパはここでママにプロポーズをしたんだよ』って言うから、私は『プロポーズってなあに?』って聞き返したの。そうしたらお父さん、顔を赤くしちゃって」
そう言って笑う彼女の横顔は、少しだけ悲しそうにみえた。
「夏生くんと今日、ここに来られてよかった」
「僕もだよ。志帆ちゃんとここに来られてよかったよ。それじゃ、そろそろ帰ろっか」
「……うん」
過去の自分たちがつけた足跡を辿りながら、まるで今日という一日を巻き戻すように、本日のスタート地点であり僕と彼女が初めて出会った場所でもある砂浜へと戻って来た。
灯台を出発した時にはまだ青の陣地が広かった空も、西の端から徐々にオレンジ色に侵略され始めていた。
海原を渡り吹きつける風に揺れるハマゴウの花が、やがて水の底へと沈みゆく運命の太陽を無言で見送っている。
「……夏、もう終わっちゃうね」
斜めから差す陽の光を受け、黄金色に煌めく海を眺めながら言った彼女のその言葉は、僕にではなく自分に向けて発せられているように聞こえた。
その続きが紡ぎ出されるよりも早く、今度は僕が口を開く。
「夏はまだ始まったばかりだよ。それに来年も再来年もその先もずっと、僕たちが生きている限り、何度でもやって来るから」
「……そうだね」
彼女の声は波の音にかき消されてしまいそうに弱々しかった。
僕は明日の昼にはこの町を去る予定でいた。
ただ、部活動がない今年の夏は、明後日の登校日を終えてさえしまえば、またここに戻ってくることができる。
そのことを言おうとした、その時だった。
彼女がクルリとこちらに向き直り、そして静かに歩み寄ってくる。
半歩も離れていない場所で歩みを止めた彼女は、次に僕の目をじっと見つめ、やがて静かに瞼を閉じた。
その行動の意味を理解し、恐る恐るその両肩に手を置く。
西日を受けて砂の上に浮かびあがった二人分の長い影が、互いの顔と顔とを接点にして、やがてひとつに繋がった。
二つの影が繋がっていたのはたった数秒でしかなかったが、僕にはその時間が永遠に等しく感じた。
触れていた柔らかな感触が無くなったのと同時に、いつの間にか消え去っていた波の音がふたたび戻ってくる。
息を深く吸い込んでから瞼を開くと、数歩離れた場所でこちらをじっと見つる彼女と目が合う。
その表情はといえば、微笑んでいるわけでもなければ恥ずかしげというわけでもなく、かといって無表情だったかといえば、それもまた少しだけ違っていた。
喩えようのない不安に駆られ、思わず目を閉じてしまいそうなる。
だが、本当に閉ざしたほうがよかったのは、視覚ではなく聴覚のほうだった。
「夏生くん、ごめんなさい。もう会えないかもしれない」
「え?」
彼女はいま、何と言ったのだったか?
「ごめん、意味がわからないんだけど」
「あのね、私――」
彼女がこの場所を去ってから、一体どのくらいの時間が流れただろう。
僕は夜の帳が下りきった砂浜でたったひとり、海に向かい立ち尽くしていた。
青褐色の空に浮かぶ黒い雲は昼間よりもその量を増し、今や月すらもその影に隠そうとしていた。
きっと今ごろ親たちには、大変な心配を掛けてしまっていることだろう。
だが、そんな些細なことはどうでもよかった。
『明日、私もここからいなくなるの』
彼女はそう言うと、無理に笑顔を作ってみせた。
瞬きどころか呼吸をすることさえ忘れ、その言葉の意味を理解しようと努力する。
しかし、そのために必要な情報を持ち合わせていなかった僕は、結局は彼女の説明を待つしかなかった。
今から四年前、彼女の父親は仕事中の事故で亡くなったのだという。
母親は突然のことに口も聞けないほどに憔悴し、ついには葬儀の途中で倒れてしまった。
それから半年間、家事をすることすらままないほどに塞ぎ込んでしまった。
そんな最中、近所に住む父親の幼馴染であり親友でもあった男性が、足繁く母親の元を訪れては静かに、そして根気よく寄り添い励まし続けてくれた。
一年半が経ち、母親はようやく笑顔を見せるようになった。
さらに二年後の今年の春、男性からされたプロボーズを受け入れた。
夫との思い出が詰まったこの地を去り、どこか知らない土地へと生活の拠点を移すことが、その条件だった。
『だから、ごめんね』
頬を涙で濡らした彼女は深々と頭を下げると、砂浜をもと来た方向へと歩き出した。
僕はその背中を追いかけようと一歩踏み出したところで、それが彼女の決意を踏みにじってしまうのではないかと思い留まり、その場に立ち尽くしたまま後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
それが正解だったのか間違いだったのかを、ただの黒い大質量でしかなくなった海を眺めながらずっと考えていたのだが、いくら時間を掛けても答えは出そうになかった。
やっとの思いで足を動かし家路に就いている時に、それは突然やってきた。
彼女の背を追い掛けなかったことへの後悔。
二度と会うことができないことへの悲しみ。
あまりに無力で無能な自分という存在への怒り。
それらすべてが激しい慟哭となり、怒涛のように次々と押し寄せてくる。
たった数日ではあったが、彼女と過ごした日々を思い出すと、このまま胸が裂けて死んでしまうのではないかと真剣に思ったし、何ならそうなって欲しかった。
もし今、彼女と出会ったあの時に戻れるなら。
真夏の空の下を紙飛行機のように舞うあの麦わら帽子を、僕は決して追い掛けなどしない。
翌年以降、祖母の町に足を向けることはなかった。
もともと情熱など持ち合わせていなかった部活は、結局レギュラー選手になることのできないまま引退した。
ろくに勉強をせずに本番を迎えた受験は、当初の志望からランクをひとつ下げることでなんとか合格した。
夢も目標もない高校生活は退屈そのもので、記憶に残るような出来事もほとんどないままに、二年の夏休みを迎えてしまった。
そして――。




