第二章 金龍の血痕 第二話
無数の観葉植物が茂る庭園に、金髪の女が二人いる。皇后マリー・ライズランドは数人のメイドを連れていた。傘を持つもの、水差しを持つもの、椅子を持つもの、ドレスのすそを持つものに囲まれて、つりあがった目をわずかに細めた。
「あら、いやですわ」と豪奢な建築を背にして、もう一人の金髪の女性が微笑む。
「なぜ私が暗殺者をかくまわねばならないのです?」
答えた女の瞳の青は、優しい色をしている。アクアマリンの瞳はとても穏やかで、罪など何も犯していないと思わせるに十分だった。その様子を見て、慌てた取り巻きが女帝の顔色を伺った。
「そうおっしゃるのなら結構でしてよ。あなたの部屋からたびたび運ばれているという大荷物を調べさせれば済む話ですもの」
「マリー様と違い、私は後宮に入るために育てられてはおりません。まだ後宮に馴染めないのです。マリー様、ご教授いただけますか。後宮では、洗濯屋に洗濯を頼むこともできないのですか? 外の者に繕い物を頼むことも? もしそうならば、そのための人を雇わなくてはなりません。それは陛下にご負担を強いることになりかねないかと」
とりかごをもったメイドを連れたエルザ・ライズランドはわずかに首をかしげて微笑んだ。エルザが余裕の表情を浮かべているのを見て、女帝の眉がわずかに痙攣した。マリー・ライズランドは日の光を閉じ込めたような色の金髪をふり乱し、強い口調で第二夫人エルザを責める。
「洗濯物! よくもそんなことを言えたものですわね。ではその洗濯物とやらを調べさせます。よろしいかしら?」
「結構です。私としても、あらぬ疑いをかけられたままでは困りますもの」
二人の瞳がぶつかる。エルザの瞳は空の色、マリーの瞳は海の色。マリーの瞳は厳しい光を宿している。
「……わたくしはね」
言葉を切って、マリー・ライズランドはエルザに仕えるメイドの傍に歩を進める。メイドがおびえて、エルザに助けを求める視線を送る。エルザはアクアマリンのような色の眼差しで、メイドをなだめた。
「あなたが誰かを後宮に連れ込もうと、とやかく言うつもりはなくてよ」
むしろ連れ込んでいるのだという証拠が欲しい。それさえあれば皇帝へ密告して、第二夫人エルザを後宮から追放できる。油断して証拠を残してくれればさっさと片がつく。
マリーが屈んで、とりかごの扉を開けた。緑色の羽を持つ小鳥は好機を逃してはならぬと飛び去る。マリーが立ち上がって空を見上げると、小鳥は大空へ羽ばたいて高く飛んでいった。
「けれどもそれが、この城を血で汚した者であるなら、わたくしはそれを見逃すわけにはいかない」
女帝がエルザのすぐ傍に歩み寄る。強い香水のにおいに、空のとりかごを抱えたメイドは泣きそうな顔をした。
どこからか現れた大きな黄金色の鳥が高い声で鳴く。獲物を見つけた黄金鳥は、大きな翼を広げ、ほほう、と不気味な声をあげた。狩りを楽しむように、黄金鳥はしばらく小鳥の周りを飛ぶ。やがて緑色の小鳥は黄金鳥のくちばしに捕らわれた。塔に舞い戻った黄金鳥が、屋根に小鳥の体を打ちつける。そのたびに小鳥の首の筋が伸びる。緑色の羽が散る。空から降る雪のように、緑色の羽が風のない空を舞う。緑の小鳥の亡骸をくわえたまま、黄金鳥は飛び去った。
空色の瞳の女を、つりあがった目で凝視したまま女帝は微笑む。
「それでは失礼いたしますわ。せいぜいお気をつけなさい、かわいらしいお嬢さん」
言葉を残すと、女帝は身をひるがえして庭園に面した廊下に進む。繊細な彫刻をほどこされた柱が、ドーム型の高い天井を支えている。天井画は楽園図。楽園の下で、女帝は唇を噛んだ。ふっくらとした唇に、赤黒い傷ができる。それを舌でなめ取る。錆びた血の味が、女帝の心を騒がせた。
「気に入らない……」
女帝付きのメイドたちは無表情ではあったが、その言葉を聞いた一瞬だけ、顔を曇らせた。
廊下の端から別のメイドが現れる。すばやく歩み寄り、すぐに何事かを告げた。
「マリー様、陛下がお見えになっています。象牙の間でお待ちです」
まあ、と高い声を出して、女帝は微笑む。先ほどから考えられぬような華やかな表情になる。
「早速お茶を用意してちょうだい。先日ライブラ卿からいただいた春摘みの茶葉があったでしょう。あれをお出しして。ああ、そうそう。陛下のお茶にはお砂糖ではなく蜂蜜を入れてね。陛下は蜂蜜の入った紅茶がとてもお好きだから。きっと喜ぶわ」
軽やかな足取りで、女帝は赤じゅうたんを踏みしめて進む。ドレスのすそが女帝の心を代弁するかのように舞い踊っている。数回曲がり角を曲がり、階段を上る。廊下に面した象牙の間の前で、女帝は高鳴る胸を押さえた。
「陛下、お待たせして申し訳ありません」
ノックの後、重厚な扉をメイドが開ける。廊下と同じく毛の長いじゅうたんの敷かれた部屋に、女帝の待ち人と側仕え、そして見知らぬ軍人が一人いた。
「マリー、こちらはハレイシア・デューン大佐だ。ハルシアナ出身でな。今はルーファスの統治を任せている。若いが実に優秀で頼りになる龍将だ」
皇帝の声に、女帝は笑みを貼りつけたまま、凍りついた。
「お初にお目にかかります。ハレイシア・デューン大佐です」
敬礼した細身の将校は金色の髪と青い瞳をもっている。美貌の大佐のもつそれらが、マリーの網膜を焼く。衝撃は、女帝の浮かれた心をあっという間にかき消した。
皇帝の寵愛を受けるのは、必ず金色の髪の持ち主だった。青い瞳の持ち主だった。目の前の軍人のような容姿の人間だ。マリーやエルザとも共通したその容姿は、彼女の心を深く傷つけた。ラピスラズリのような深い青の瞳が悲しみに満ちる。
……もうわたくしでは、足りぬとおっしゃるのですか。
深い悲しみが第一夫人の心を空虚にする。
その美貌で大佐は皇帝に取り入った、異例のスピード出世が皇帝の寵愛をあらわしていると、国中でささやかれている。噂の的である大佐が今、目の前にいる。
わたくしでは足りず、あの小娘でも足りず、ついには、ついには男にまで。
深い悲しみが不快感にかわり、やがてそれは憤りになる。けれどもいくら憎んでも、その感情は皇帝に対するものにはならなかった。美貌の大佐に対する憤りにしかならなかった。
「マーブル大佐のあとを継いで、彼に城内警備をしてもらうことになった。近頃は物騒だからな、後宮の警備も依頼するつもりでいる。今日は顔見せだ」
「慣れぬ仕事ですので粗相をするかもしれませんが、何卒よろしくお願いいたします」
王妃の舌に先ほどの血の味が蘇った。耳の奥で何かが騒ぎだす。自分をそそのかす何かの声が聞こえるようだ。まぎれもなく、それは女帝の頭の片隅にいた。
瑠璃色の瞳の奥、急にひらめいた名案に、女帝は微笑んだ。
ハルシアナの田舎者め。
「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ。……そうそう。早速ですけれど、後宮内にこんな噂があるのをご存知かしら?」