第九章 月龍哭す 第八話
「僕らは感情に名前をつけて、無理にでも分類しようとする。それが恋や愛です。それらは決して、永遠につづくものではない」
皇都にある白亜の城の、かつて龍の間と呼ばれた部屋で、ハレイシア・デューンは目の前にいる銀縁眼鏡の男をにらみつけた。
「私は戦争裁判の話をしている。お前の恋愛観など聞いてはいない」
「いいえ。ロイス・ロッシュに戦争責任を問わないというのは、あなたが彼への想いで目を曇らせているからです。一時の感情で判決を下すわけにはいきません。誰が見たって彼の罪は明らかですよ」
現在王国では、戦争犯罪を問う裁判の下準備が着々と進んでいた。ロイス・ロッシュをはじめとした戦争犯罪人たちを無罪にするか、有罪にするか。有罪にするならば全員の罪を問うべきか、はたまた主要だった者だけか。また、刑罰はどうするか……。
とにかく山のように仕事があった。つい先日もアスハトの国葬を終えたばかりだ。帝国に在籍していた優秀な文官を説得して雇い、王国の主な将校が毎日のように頭を悩ませているが、なかなか仕事が減らない。一つ仕事を片付ける間に、次の仕事がやってくる。
クラウス・オッペンハイマーはひとときもエルザの元から離れなかった頃が嘘のように、精力的に仕事をこなしていた。涼しげな顔ですいすいと仕事を片付けていく。学問都市イスハルで長期休暇を過ごしながらも、あれこれと差配していたとハレイシアは聞いている。
ハレイシアはクラウスに攻撃的な視線を送る。牢屋に座りこんで、戦死者の名を読み上げるロイを思い出した。
「ならば、お前はどうなんだ。お前はエルザ様を慕うあまり、大層なことをしでかしたじゃないか」
「僕とエルザですか? 僕らは恋人であり、戦友ですよ。あなたたちとは絆の深さも覚悟も違う。僕が聞きたいのは、あなたにとって大切なのはハルシアナの民とロイス・ロッシュ、どちらかということです。あなたがロイス・ロッシュを選ぶのならば、僕は止めません。なんと言っても、あなたはこの戦争の英雄なんですから」
腹黒め、と舌打ちしたいのをハレイシアは堪える。ハルシアナが援助の必要な地方なのを知っていて、さらに故郷をハレイシアが見捨てられないのを知った上でこういう物言いをする。嫌な男だ。
クラウスは眼鏡をかけ直して、レンズの奥の瞳をにっこりと微笑ませた。
「……あのね、一つだけ、方法があるんです。ハルシアナの援助とロイス・ロッシュをはじめとした戦争犯罪人たちの無罪放免。この二つを一度に解決する方法なんですけど……、聞きたくありませんか?」
どうせろくな話ではない。内心そう身構えながらも、聞かずにはおれない。視線でたずねたハレイシアに、クラウスは陽だまりのように優しい瞳をしてみせた。
「国王陛下に嫁ぐんですよ、あなたが」
その言葉を聞いた瞬間、ハレイシアは身体をこわばらせた。青い瞳を見開いたハレイシアに、クラウスはふわりと言葉をつづける。
「あなたがお妃様になれば、あなたの出身地である北方都市ハルシアナへの援助は今よりもっと確かなものになるでしょう。ロイス・ロッシュをはじめとする戦争犯罪人たちはご成婚の恩赦で釈放される。英雄が敵将と恋仲だなんて外聞が悪いことこの上ない噂も立たない。名案だと思いませんか」
ぎり、と奥歯を噛みしめる。ハレイシアが帝国皇帝の求愛を断って王国軍に身を投じたことを知っていて、クラウスは提案している。
「私にそれを、受けろというのか」
思わず口から出たうなり声に、クラウスは屈託ない笑みを浮かべ、首をかしげた。焦げ茶の髪がさらりと背中で脈打った。
「嫌なら別に構いません。あなたの愛するあの男なら、他に名案を思いつくかもしれないし」
相談できるわけがない。ロイが「もう来るな」と告げたのは、ハレイシアの立場を慮ってのことだろう。ならば相談するだけ無駄というものだ。国王に嫁ぐ必要はない、ハルシアナを選べと言うに決まっている。
それとも、とハレイシアは瞳を翳らせる。脳裏に蘇るのは、学問都市イスハルで泣き崩れた日のことだ。それは空を飛ぶ鳥の影のように、ロイを想うたび、ついてまわる。
──あのときのように、自分が生き残るために、私を利用するだろうか?
信じたいという思いと、疑うべきだという思いがせめぎあう。クラウスはハレイシアの迷いに気付かないふりをしている。空を飛んでいく鳥を窓ガラス越しに目で追っては、太陽のまぶしさに目を細くする。
ロイス・ロッシュは自分を、死んでいるようなものだと言った。けれども本当に死んでいるなら、温かさなど微塵も感じないはずだ。あの手の温かさを信じよう。
ハレイシアは意識的に信じることを選んだ。今のロイに、一体何が残っているというのだろう。自分だけはロイを見捨ててはならない。たとえ騙されたとしても騙された自分が悪いのだと、くりかえし自分に言い聞かせた。
「……相談するだけ、無駄だろう」
「懸命な判断ですね。彼が本当にあなたにお熱をあげているなら、あなたを嫁がせはしないでしょうから。僕だって、エルザが国王に嫁ぐのは嫌です。彼ならハルシアナを選べと言うと思いますよ」
窓の外をながめたまま、クラウスは心底嫌悪感をあらわにした声を出した。ハレイシアの内にある考えがひらめいた。息を飲んで、眉を寄せる。
「順当に行けば、エルザ様が国王の后候補か」
クラウスは眼鏡を外すと、不敵に微笑んだ。はじめてクラウスの本当の顔を見たような気がした。
「ふふ、よくわかりましたね。敵の愛妾を奪うことは、権力を奪ったことの証でもあります。いずれエルザが国王に嫁ぐ話が出てくるでしょう。させませんけど」
皇帝からエルザを奪うために反乱を起こしたクラウスが、その話を黙って受け入れるとは思わない。縁談が出る前に国王を結婚させれば、エルザが選ばれることはなくなる。国中が后に納得すれば、側妾はいなくともいい。国王と英雄ハレイシアの結婚であれば、反対する者はいないだろう。
「だから私に交換条件を出したのか。私が故郷もロイス・ロッシュも見捨てられないことを見越して」
ハレイシアを后にして、エルザから目を遠ざけるために。
王国の誇る英雄は、唇を固く結んだ。クラウスの顔から微笑が消える。これまで見たことがないほど真剣な表情だった。
「僕はエルザのためならどんなことでもします。たとえあなたを不幸にしても、エルザを幸せにします」
鳶色の瞳がぎらりと輝くのに、決意の深さが見てとれた。ハレイシアが神妙にしているのにばつが悪くなったのか、クラウスは肩をすくめて表情を和らげる。
「当然だなんて開き直るほど、性格は悪くありませんよ。申し訳ない気持ちがないわけではないから、あなたに提案したんです。ハルシアナとロイス・ロッシュ、どちらもあなたにとって大切なものでしょう? 悪くない取引だと思いますが」
「……覚悟を決める時間をくれないか」
ハレイシアの答えに、クラウスは銀縁眼鏡を顔に戻した。
「ええ、構いませんよ」
伏せられたクラウスの瞳は遠くに思いを馳せるようだった。きっと彼がエルザを失った日のことを思い出しているのだろう。もしかしたならエルザも帝国皇帝に嫁ぐために、時間を欲したのかもしれない。ハレイシアは今まで遠く感じていたクラウスのことを、ほんのわずかに身近に感じた。
ロイのために、ハルシアナのために、できることはただ一つだ。腹を決めさえすればいい。国王に嫁げば、二度とロイス・ロッシュに会うことはできなくなる。
牢の床に座り込んで戦死者の名を読み上げる姿を思い出す。あんな状態のロイを放っておくことはできない。すべては、命あってこそだ。
ハレイシアは煩悶を抱えたまま廊下を歩く。窓から差し込む光と室内の影が縞模様を作っている。一日の昼と夜のような縞模様がかわるがわる身体の上を過ぎていくさまは、ハレイシアに時の流れを思わせた。
前からやってきた赤い髪の将軍が手をふる。その隣で書類を読みながら歩いているのはオリーブ色の髪の男だ。
互いに忙しい身だ。手短に挨拶をして通りすぎようとすると、ラグラスがふと書類から顔を上げて、ハレイシアに何か投げてよこした。
「何だ」
「やる」
空中で受け取って掌を見る。小さな包みに入っていたのはチョコレートだった。
「なぜ」
「疲れたときは甘いものがいい」
「いつも持ち歩いているのか」
「まあな」
一瞬で自分の状態を見破ってしまうラグラスに、ハレイシアは苦い笑みを浮かべた。太陽にかかった雲が、ラグラスの腕章に影を作っている。
「私は子供ではないよ」
「俺から見れば子供だ」
「ほう。黒馬の王子様が言ってくれるじゃないか」
「七つも年下の子供に手など出せるものか。美しいものに見とれただけのことだ」
光の中でにやりと笑うラグラスを見ていると、張り詰めていた気が緩んだ。ふっと頬を滑る生暖かい感触に、ハレイシアは困惑した。
「ハレイシアさん?」
カイルロッドの心配する声と、ラグラスの仏頂面がぼやけた。ハレイシアの双眸から涙があふれる。近頃めっきり涙腺が弱くなってしまった。
それもこれも、ロイのせいだ。一体どれだけ心配させれば気が済むのだろう。
嗚咽と共に小さく肩を震わせて、ハレイシアは涙を拭う。
「……馬鹿か、お前は」
ため息と共に手袋に包まれた手が伸びてきて、ハレイシアの頭をぐしゃぐしゃとかきまわす。
「馬鹿馬鹿言うな。私は……」
拭ったはずなのに、もう一度涙がにじんだ。
「……私は……」
甘えてはいけない。かつて己の立場を省みず、皇帝から逃してくれたラグラスだ。ハレイシアが王妃になる話を聞けば、間違いなく反対するだろう。しかしそれでは、ロイの処刑が決まってしまう。
次から次へとあふれそうになる涙を堪え、ハレイシアはラグラスの手を払いのけた。
「いい。なんでもない」
ラグラスは眉間にしわを寄せ、「そうか」と仏頂面のまま歩みだす。自分がどうすべきか、何を選ぼうとしているのか、ハレイシアはわかっている。
泣き言を言いたいわけでもなければ、助けてもらいたいわけでもない。だからラグラスには話さない。
必要なのは、ロイのことを任せられる人間だ。
幸い、ここは皇都だ。ロイならば誰かしら、手を差し伸べる者がいるだろう。しかし今の彼は、きっと誰の手も取ろうとしない。
「ちょっと、マーブル大佐っ」
カイルロッドがラグラスを引きとめようとする。窓を背にした赤髪の将軍を見て、ハレイシアはあることを思い出した。
「カイルロッド、そういえば君、ロイとは幼馴染みだったな」
「え、ああ……はい……」
カイルロッドが語尾を濁して、苦々しい表情になる。
「面会に行ったのか」
王国海軍の若い主は、伏目がちに小さくうなずいた。窓を背に差し込む光を一身に浴びても尚、拭い去れない影がある──。影を目の当たりにしたハレイシアはそっと目を伏せた。
「あんなロイは、見たくない。俺では、何の助けにもならないんだと思います。俺は帝国を、ロイを裏切ってしまったから」
カイルロッドにもロイにも、他人がしてやれることは何もないのに違いない。けれどもハレイシアは、ロイに命を絶って欲しくはない。
──今のロイは、自ら命を絶ちそうで怖い。
「……軍人として禄を食む以上、雇い主である国を守るのは当然のことだ。ロイは帝国軍人として、正しい選択をした。先に裏切ったのは、私たちの方だ」
ロイス・ロッシュが罪に問われるのはおかしい。罪があるとすれば、戦争に負けたということだろう。
街に出れば、戦いを長引かせた罪を償うべきだという者もいる。けれども帝国に勝機があるのなら、それに賭けるのは帝国を守る者として当然のことだ。民衆は自分の生活が守られればそれでいい。あれほど民間人を巻き込むことを嫌い、民を守ろうとしたロイを、民衆は遠巻きにながめるだけだ。それはロイが帝国軍人だからではない。負けたからだ。
王国での暮らしが日常になるにつれて、民の中には帝国を悪し様に言いはじめる者も出てきた。幼い新皇帝が亡くなり、先代皇帝第一夫人マリーが亡くなり、海軍少将アルフォンス・クーベリックが戦死した今、ロイス・ロッシュは帝国の象徴として矢面に立たされている。
報道などは特に顕著だ。舌鋒鋭く帝国の罪を書き立て、民衆を洗脳する。帝国の象徴としてロイがバッシングされるのを、ハレイシアは見ていられなかった。
カイルロッドは苦い表情を残したまま、ハレイシアに向けて強くうなずいた。
「ハレイシアさんの方が、きっと俺より助けになると思う」
「私ではダメなんだ」
ロイス・ロッシュの処刑を止めるために、国王に嫁がなくてはならないから。
心の内でそうつづけて、ハレイシアは首を左右にふった。カイルロッドの赤い髪が西日を受けて朱金に輝く。
「アルベルティーヌさんが生きていれば……少しは違ったのかもしれないけど」
はじめて聞く名前に、ハレイシアは首をかしげた。
「ロイを育てた人です。ロイは妾腹だから産んだお母さんというわけではないけれど……すごく、慕ってたから」
一度言葉を切って、遠い日を思い出すようにカイルロッドは目を細くした。
「ロイにとって、特別な人を何人か知ってます。自分を産んだお母さんと、アルベルティーヌさんと、ライエル中将……今もご存命なのはライエル中将しかいないけど」
「ライエル中将……」
知った名前が出てきて、ハレイシアは目を丸くした。かつての上官の名前が出てくるとは、思いもしなかった。
カイルロッドはうつむいて、緑色の瞳を翳らせる。
「ロイは俺と違って、世界を恨まなかった。それだけこの街に好きなものがあふれてたんでしょう。特別な人や場所が多かったから、軍人になったんでしょう。でも今の世の中を見てると……ロイの拠り所は、なくなってしまった気がして、やりきれない」
ハレイシアはカイルロッドの言葉に、なんと応えればいいかがわからない。
「ライエル中将に会ってくる」
今の自分にできるのは、きっとそれだけだろう。
ハレイシアはそう決意して、歩を進めた。
城のメインストリートを抜けて川を渡れば公園が見える。古い木々の密集する公園の側に、レイド・ライエル中将の経営する孤児院がある。ハレイシア・デューンは馬から下りると、孤児院の扉を叩いた。
「はいはーい、どちら様かな」
「中将、ご無沙汰しています。ハレイシア・デューンです」
扉が開いて、人のよさそうな顔がのぞいた。ハレイシアが知る姿より、幾分か髪が白くなっている。丸縁の眼鏡の奥で、垂れ目がのほほんと笑った。
ハレイシアが敬礼すると、ライエル中将は苦く笑った。
「そんなことでは子供たちが怖がるなぁ。それに僕はもう軍人ではないから、中将というのもやめてね」
「はっ……はい」
かしこまった軍隊式の返事をしたのをすぐに言い直す。ハレイシアは上着を脱いで鞍上にかけた。春が訪れつつあるとはいえ、シャツだけでは寒い。レイド・ライエルが上品な水色のショールを貸してくれた。
「ありがとうございます」
羽織って、うながされるまま部屋に入る。子供用の木製の机と複数人がけの椅子があった。ハレイシアは故郷が思い出される光景に、ふと微笑んだ。
「やあびっくり。君でも笑うことがあるんだねぇ」
「あ……いえ……その」
咎められたわけでもないのに居心地が悪い。うつむいて、ライエル中将が紅茶をいれてくれたカップを両手で包んだ。
「で、何か用?」
あまりに単刀直入だ。ハレイシアが苦笑すると、中将は「だって君、用事がないと来ないでしょ」とあっけらかんと付け足した。元々世間話は得意な方ではない。ハレイシアは真摯に元上官を見つめた。
「ロイス・ロッシュに、会ってもらえませんか」
「ローズちゃんに? それは……できないね」
奇妙な呼び名に面食らったのは束の間のことだった。すげなく断られて、ハレイシアは渋面を作る。折れてしまいそうな心を、カップの温かさが力づけた。
「今のロッシュを見ていられない。でも、あなたなら……」
強い調子の声を、ライエル中将の穏やかな声が遮った。
「待ってよ。退役したとはいえ、僕は帝国陸軍にいた身だよ。そんな人間が会いに行けばどうなる? 彼の立場がますます危うくなるだけじゃないか」
「ロッシュを、見殺しにするつもりですか……」
こわばった声が出た。ハレイシアの手の中で、紅茶が激しく揺れる。レイド・ライエルが静かに首を横にふった。
「王国は、スケープゴートを探してる。ライズランド帝国最後の皇帝が知らない間に亡くなっちゃったもんだから、見せしめに処刑できる人間が必要だ、って。君はローズちゃんがスケープゴートになることを、不満に思うのかもしれない。でもね、責任をとるのは上に立つ者として当然のことだよ。彼は帝国陸軍司令官だった。ローズちゃんも、きっと帝国軍を指揮したことを後悔してない。だって彼は、軍人だもの。作戦で味方を死なせたことは後悔するかもしれないよ。でも指揮をとるのも、責任を取るのも、ローズちゃんの役目だ」
ハレイシアの瞳が伏せられる。
ライエル中将の理屈は正しい。王国側がスケープゴートを欲しているのも、その通りだろう。しかしハレイシア個人としては、スケープゴートなど必要ないのではないかというのが本音だ。皇帝オフィリアと先代皇帝第一夫人マリーの首が届いたというのに、これ以上の犠牲を旧帝国側に強いる必要があるだろうか。
そう思うのは、ハレイシアがロイス・ロッシュに思慕を寄せているからなのかもしれない。理屈というよりは、助けたいという感情の部分が大きかった。
──あなたがお妃様になれば、ロイス・ロッシュはご成婚の恩赦で解放される。
クラウスの言葉が頭をよぎった。ロイを助けてみせるという思いを改めて強くする。背筋を伸ばし、身体中に力をためる。槍で敵を仕留めるときのように呼吸を整えた。
「ロッシュは私が助けます」
レイド・ライエルを真っ直ぐ見据える。凛とした声は決意に満ちていた。中将の目が、眼鏡の奥で細くなった。
「そう。……それで、僕に彼を支えて欲しいと」
「はい」
「やらないことはないけど、無理だろうなあ。あいにく僕は男だから、母親みたいな接し方はできないんだ。君がローズちゃんを抱きしめてあげればいい」
できるならそうしている、とハレイシアは落胆する。肩で金色の髪が揺れた。黙って首をふった女将軍に、初老の男は怪訝そうな顔をする。
正式には決まっていない内容を──国王に嫁ぐことを話すわけにもいかず、ハレイシアはうつむいた。
「ロッシュは私に、もう二度と来るなと……」
「それで、君は行かないの?」
眼鏡の奥の瞳がきらりと光る。試すような、挑むような視線に、ハレイシアはひるむことなく応えた。
「いいえ。自由の身である間は、訪ねてみるつもりです」
「自由の身、ね」
「今はまだ、お話できません」
ふむ、と顎に手をあてて、初老の中将は椅子に背をもたれさせた。
「ローズちゃんは君のことが大切なんだな……まったく……あの子の性格は、父親に似てしまったか」
視線で問いかけると元中将は紅茶を一口飲んでから、ゆっくりと話しだした。
「あの子の父親も──ミシェルもそうだった。奥さんがとても身体の弱い人でね。出産には耐えられないって、医者に言われたそうだよ」
初老の男は視線を落として、昔を懐かしむように訥々と語った。
「奥さんは子供を欲しがってたね。でもミシェルは許さなかった。奥さん……アルベルティーヌを絶対に失いたくなかったんだね。アルベルティーヌは会えば必ず子供の話をする。貴族にとって、跡継ぎは重要な問題だからね。それでミシェルは彼女を遠ざけた」
ハレイシアは小さく息を飲んだ。カイルロッドから聞いた名前と同じだ。ようやく、手のひらに触れたカップの温度が下がっていることに気付いた。
「子供さえいれば、奥さんは無茶なことを言わないと思ったそうだよ。だからミシェルは他の女に子供を生ませた。それがあの子。ローズちゃんはお母さんやアルベルティーヌを裏切ったって、父親のことを恨んでいた。でもミシェルは、ミシェルなりにアルベルティーヌを愛していたんだよ」
襟足をなでるようにして、元中将は力の抜けた笑みを浮かべた。
「ミシェルはアルベルティーヌの墓前によく花を供えていた。それはあの子も知ってる。ミシェルが死んでからはずっと、あの子が墓前に白いバラを供えているはずだよ」
冷たくなった紅茶を飲み干そうとすると、愛想のいい初老の男は片手をあげて制した。
「淹れなおすよ」
「いえ……いただきます」
ロイス・ロッシュは本当に愛した人には、決して愛の言葉など囁かない。「二度と来るな」という言葉は甘くはない。優しくもなければ、ときめきもしない。けれどもそれは、確かに愛の言葉であるだろう。
ハレイシアは琥珀色の紅茶を飲み干すと、席を立った。
「さっきの話、どうかよろしくお願いします。今日はありがとうございました。お話できて、よかったです」
頭を下げると、両肩から水色のショールが滑り落ちた。あわてて腕をかき抱く。レイド・ライエルはその様子を見ながら、ごく自然に言った。
「墓地、シアン川の東ね」
面食らうと、にこにこと笑われた。クラウスと対峙しているようで居心地が悪い。軍服の上着に袖を通してショールを返そうとすると、首を横にふられた。
「君にあげる。これからはね、そういうものも似合う人になりなさい」
ハレイシアがにらみつけると、中将は笑みをひっこめて優しい目をした。子供に対する眼差しのようだった。
「あの子も、その方が好きだと思うよ」
「……もらっておきます」
中将と別れて馬にまたがる。両脇を木々に囲まれた、森閑とした場所だった。小鳥のさえずりと、遠くから聞こえる子供の声、わずかにほこりっぽい青草の香り。のどかで心が洗われるような景色だ。石畳と馬のひづめのぶつかる音に耳を澄ますと、ひどく心が落ち着いた。
まず、白いバラを買おう。
頬が静かに熱くなるのがわかった。腕に絡めたままのショールを落とさないように気を使いながら馬を操る。墓地に向かうまでに白いバラを買った。花など買うのははじめてだ。故郷のハルシアナにいた頃も生活に必死で、花など買ったことはなかった。イスハルの軍事学校にも皇都の陸軍士官学校にも行かず、ハルシアナの師匠の元で勉強したものだから、やはり花とは無縁な暮らしだった。花を買うのは少々気恥ずかしい。白いバラの花束を手にしてうつむく。気のせいだとわかっていても、街行く人々がハレイシアを物珍しそうに見ている気がする。石畳を往来する音が早くなった。墓地の前で手綱をひくと、馬がたたらを踏むように止まった。するりと下馬して金属性の柵に手綱を結び、早足で墓地へと入る。
帝国軍の支給したコートが墓標にかかっているのが見えた。墓碑銘を一つずつ見てまわるまでもない。目にした瞬間、ハレイシアのもしかして、という気持ちはあっという間に確信へと変わった。
前に立って、墓碑銘を確かめる。長い時を経て傷んでいたが、そこにはアルベルティーヌ・ロッシュの名が見てとれた。
「……やっぱり」
ハレイシアは薄く瞳を潤ませて、もう一度その名前を視線でなぞった。
──私が、后になれば。
雨ざらしのコートは墓標にかかったまま、袖を重くぶら下げている。風に揺られて、裾がときおり翻る。階級を記すシンボルが二つ見えた。
「アルベルティーヌさん……」
声が震えた。白いバラを墓前に供えて、使い物にならなくなったコートを見つめる。何日も雨や風に翻弄されてすっかり傷んだコートは、まるでロイス・ロッシュ本人のように見えた。
「どうして、ロッシュを置いて逝ってしまったんですか」
視界が揺れた。自然と組んだ両手に、降りだした雨のように涙が落ちる。
「あなたさえ生きていれば、私は──」
これほど心をかき乱されることもなく、後に不安を残すこともなく、ロイを助けることができただろうに。
墓標に頭を垂れる。ロイのコートの裾をつかむと、布が含んでいた雨水がじっとりと手に残った。
ロッシュがどれほど、あなたを愛していたか──知らないわけはないだろうに。
「墓標にコートをかけていくなんて、亡くなったあともあなたを追いかけていた証拠だ……」
ハレイシアの心に、アルベルティーヌに対する嫉妬はない。あるのはただ、ロイを助けて欲しいという願いだけだった。
風が吹いて、背の高い木々がざわめく。日は徐々に傾き、朱金の光を宿している。
死者は大地に還る。大地は植物を育て、動物は植物を口にして育つ。人間は動植物を口にすることで、死者と一体となって生きる──メイジス・フェシスのその教えが正しいのならば。
ハレイシアはこみ上げる嗚咽をこらえて顔を上げた。
クラウスの言うように、自分の中にあるロイへの想いは永遠につづくものではないかもしれない。いずれ後悔するときが来るかもしれない。けれども今は──。
「どうか──どうか、ロッシュを助けてください」
ハレイシアがすがるように見つめた先で、コートのボタンが落日に小さくきらめいた。




