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エンドロール・サガ  作者: 網笠せい
第九章 月龍哭す
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第九章 月龍哭す 第七話

 レンガ造りの床には、ところどころに苔がついていた。ロイス・ロッシュは鉄格子の向こうを見る。今の彼にとって、それが唯一接することの許された世界だった。生まれ育った皇都モルティアにいるというのに、知らない街にいるかのようだ。牢に窓はない。投げ出した足がひんやりしたのは最初ばかりで、今となっては冷たささえ感じない。それが至極当たり前のことのように思えた。

 看守はニヤリと片頬をつりあげて笑うと仕置き棒で理由もなく鉄格子を叩き、大きな音をたてた。今のロイには余計な言葉を発する気力さえない。薄暗い室内に灯るろうそくの光は頼りなく、影ばかりが右往左往した。


「おい帝国野郎、面会人だ」


 野太い声と同時に扉が開いて、その向こうから見覚えのある顔がのぞいた。ハレイシア・デューンだ。豪奢な金髪が肩で揺れると同時に、眉間に深いしわが刻まれる。看守への不快感を隠そうともせず、ハレイシアは軍靴のかかとを鳴らして敬礼した。


「中佐のことは丁重に扱えと言ったはずだ」

「でもおれは看守ですから。帝国野郎が怪しい動きをすれば、怒鳴らにゃなりません。それがおれの仕事です」


 ハレイシアは看守を軽蔑するように、ほんの少しだけ目を細くした。この男に何を言っても無駄だとわかっているのだろう。


「席を外せ。二人で話がしたい」

「……へぇ」


 看守が猿のように背中を丸めて鉄扉の向こうに消えるのを見届けると、ハレイシアは大きなため息を一つついた。まだ厳しい目をしている。ロイは鉄格子ごしに、ハレイシアの薄い青の瞳をながめた。


「毎日ここに来るなんて、よく飽きないね」

「死なれでもしたら、困る」


 顔を背けて口の中にこもるような声を出した女に、ロイはするりと手を伸ばす。腕を女の細い腰に絡めると、あっという間に鉄格子の向こうのハレイシアを抱き寄せた。


「本当は、こうしてもらいたいの?」

「……っ、安く見られたものだ」


 耳元で囁いてやると、視線を逸らしたままのハレイシアの顔が歪んだ。恥らっているわけではない。痛みをこらえる苦悶の表情だ。動きを止めたロイを、ハレイシアが左手でやんわりと押し返す。ハレイシアは左肩を押さえていた。


「ケガでもしたのか」

「お前には、関係ない」


 ──その言い方じゃ、関係があると言っているようなものじゃないか。


 かつて帝国陸軍司令官を務めた男は、あっさりとハレイシアの嘘を見抜いた。ハレイシアの額に脂汗が浮いているのが見える。


「見せろ」

「いやだ」


 金髪が肩で落ち着きなく揺れた。抵抗するハレイシアを抱き寄せたまま、強引に軍服を脱がしにかかる。散々遊んで身につけた技が、こんな場所で役に立つとは思ってもみなかった。苦笑しながら詰襟のホックに手をかけると、ハレイシアは力一杯暴れた。


「やめろ。お前な、あの看守に知られたら……」

「色事と治療行為の区別くらいつくだろ普通」

「口実にされるに決まってるだろうが!」

「じゃあ、あなたが黙ってりゃいい」


 軍服のボタンを手際よく外すと、白いシャツが露になった。ふとロイの手が止まる。


「ハル……お前、洗濯下手な……」

「えっ」


 シャツに残った無惨なしわに、ロイは笑いを隠せない。笑いを噛み殺そうとしても、うまくいかない。


「苦手なら洗濯屋に出せよ」


 その言葉に思わずハレイシアの顔が赤くなる。笑いを噛み殺しながら、ロイは第三ボタンまで外していく。ハレイシアはもう抵抗しない。

 白い左肩に、赤黒い痣ができていた。


「打ち身だな……かなり強く打った? これ、痛い? じゃあこれは?」


 顔を赤くしたまま子供のようにうなずいたり、首を横にふったりするのがかわいらしい。コルセットで縛り付けた胸元は薄く、あまり女性という感じはしない。

 まるで女の子みたいだな、と思ったところで、ロイの脳裏を雪国で出会った少女の姿がよぎった。手早くボタンを留めて、解放してやる。


「……医者に行って湿布薬をもらってこい。骨はやられてないけど、腫れてるから痛いだろう」


 アルベルティーヌには、もう二度と会えない。

 養母のアルベルティーヌも、ハルシアナのアルベルティーヌも死んでしまった。

 思い出すたびに喪失感が重くのしかかる。背けた顔に視線が注がれている気がして、ロイは鉄格子に背を向けた。白い手袋に包まれた手が、背中からまわされる。力はこめられていない。ふりほどこうと思えばすぐにふりほどける。けれども力強く抱きしめないのがハレイシアの優しさのような気がして、ロイはそのまま鉄格子の向こうにいるハレイシアに背を預けた。

 気が緩んだのか、一瞬呼吸が震える。それを悟ったのか、ハレイシアが話を切り出した。


「あのな、お前に頼まれてた本、探し出したぞ。全十巻だった。何巻まで読んだんだ?」

「三巻」


 ロイは呼吸の震えを飲み込んで、悟られないようにそっけなく答えた。長く話すと気付かれてしまいそうな気がした。


「じゃあ、三巻以降でいいな」

「一巻からがいい」


 帝国陸軍中佐という肩書きがなくなった今、ここにいるのはただのロイス・ロッシュだ。

 これまで自分の外殻であったものがなくなって、取り繕わなくてはならない体面がなくなった。結局残ったのは、戦争を長引かせたという大きな罪と、自分自身だった。その自分でさえ、偽者のような気がした。

 ああしたい、こうなりたい……背伸びしつづけるうち、自分を見失っていたのかもしれない。

 強く思えたのは外殻が分厚くなったからだ。

 策略を身につけた。誰からも好感を持たれる笑みを身につけた。憎まれずにやれやれと笑ってもらえるようにふるまった。それが一体何の役に立ったのだろう。養母を不幸なままで死なせ、少女一人救うこともできなかった。帝国を守れなかった。何千人もの帝国兵を死なせた。幼い皇帝の命だけは助けられたけれど、路頭に迷わせることになった。

 胸の奥から熱いものがこみ上げるのを懸命に押し戻す。懺悔できるのは、その資格のある者だけだ。

 ロイの師であるレイド・ライエル元陸軍中将が孤児院を作ったのは、懺悔の資格がないからなのだという。


 ──罪を告白して誰かが許してくれるのを待つことは簡単だけど、それじゃ僕の気が済まないからね──。


 師の言う通りだ。許されようとは思わない。けれど今だけ、自分を戒める腕に、もっと力を込めてはくれないだろうか。

 ロイはそう思うと同時に、突き放してくれと願う。完膚なきまでに叩きのめされて野垂れ死ぬのが、自分には似合っている。目的のためとはいえ、ハレイシアを利用して捨てた。これほど悪い男を見捨てずに世話を焼くなど、物好きにもほどがある。

 するりと離れた腕と、ハレイシアが去る気配に、ロイは安堵した。このまま自分のことなど忘れてしまえばいい。素直な思いが、唇から滑り落ちた。


「もう、来るな」


 小さくうめいた声は、ハレイシアの靴音と共にレンガ造りの牢に反響する。その声が聞こえなかったはずはないのに、重い鉄の扉の開く音につづいて、ハレイシアは言った。


「本、持ってくるからな」


 ハレイシアの声に、ロイス・ロッシュは深く後悔した。

 何故裏切ってしまったのだろう。何故こんな女を抱いてしまったのだろう。

 遠ざかる足音を聞きながら口を開こうとするが、言葉が出ない。鏡はないが、らしくない顔をしているだろうということは、簡単に想像できた。鉄格子に背を預けたまま、ずるずると座り込む。疲れ切っていた。

 ロイス・ロッシュにとって、生きることは戦うことだった。己を取り囲むすべてのものに挑み、自らの生をおびやかすものを排除した。けれどももう、戦う気力は残っていない。膝に肘を乗せ、右手で首に触れてみる。雪国の少女の首は、オフィリアの首として王国に渡された。腐敗が進んで誰のものかわからなくなったあの首と、自分の首が並ぶのを想像する。悪くはない。


「おい」


 看守の声で我に返る。誰かが来れば足音が聞こえたはずなのに、自分の思考に没入していた。耳を澄ます。リズムの狂った看守の足音と、ためらいがちな足音が聞こえた。


「おい!」


 看守の声に反応せずにいると、チッと盛大な舌打ちが聞こえた。間をとりなすように、別の声が割り込んでくる。


「ご無沙汰……しております」


 もう一つの声にようやく顔をあげる。心底申し訳なさそうに下がった頭が見えた。その男がかつて帝国陸軍にいたことを、ロイはすぐに思い出した。ハルシアナで共に戦った仲間だ。


「……お久しぶりです」


 男は王国の軍服を着ていた。そういえば数日前の新聞で、王国が元帝国軍人の優秀な者を集めて雇ったという記事を読んだ。

 面会人は落ち着きなくおろおろし、これ以上ないほど眉を下げていた。王国に雇われたことを申し訳なく思っているのに違いない。


「ロッシュ中佐、以前のようには、お話していただけないのですか」

「当たり前でしょう。あなたは今王国軍人で、俺は裁かれる側の人間なんです。もう中佐でもない。胸を張ってください。でないと俺は芋虫のように、地面にはいつくばらなくてはいけなくなる」


 看守は満足そうに薄ら笑いを浮かべ、面会人は言葉に詰まった。面会人の瞳にみるみる涙が浮かんで、今にもこぼれ落ちそうになる。


「……変わって、しまわれましたね」

「変わらない方がおかしいでしょう」


 唇を噛んで青い顔をしている元帝国軍人に、ロイは薄く笑った。ここに来ることを、相当悩んだのに違いない。


「私、戸籍係になったんです。帝国軍人の戦死者名簿を作成しています。ご協力願えませんでしょうか。これ、今のところ判明している戦死者の名簿です」


 面会人が渡す紙束に不審物がないか、まず看守が確かめる。看守は仕置き棒で肩を軽く叩きながら、ぞんざいに書類を鉄格子に投げつけた。


「……!」


 面会人が悲痛な表情で言葉を飲み込むのと同時に、ロイの表情がこれ以上ないほど厳しくなった。


 ──戦って死んだ者を、愚弄する気か!


 殺意に満ちたロイの視線に看守がたじろいだ。看守は虚勢をはるようにうなって、身体を大きく左右にふりながら鉄格子から離れていく。


「いまだにあなたは、帝国のために散った者を思ってくれているのですね」


 面会人が弱々しく肩を震わせると、ロイは書類を拾い集めていた手を止めた。苦い思いが再び胸の内にあふれる。少女一人救うこともできなかった。帝国を守れなかった。何千人もの帝国兵を死なせた。幼い皇帝の命だけは助けられたけれど、路頭に迷わせることになった。呼吸を整え、恐々と息をつく。


「……買いかぶりです」


 静かな表情を作る。ろうそくの光に染められた銀色の髪が一筋、さらりと頬に滑り落ちた。

 手元の書類に目を落とし、ページをめくりつづける。部隊別にわけられた書類には、戦死者の名が連なっている。ロイス・ロッシュは一つ一つ胸に刻んだ名前と照合していく。死者の名をくりかえし思い出すことには、もう慣れている。慣れているはずなのに、その名が出たとき、ロイは指を止めた。


 オフィリア・ライズランド──。


 新雪に埋もれて笑う、アルベルティーヌの姿を思い出した。涙ながらに訴える姿を思い出した。ロイの胸にこてんと小さな頭を預けて、下から見上げる姿を思い出した。血を吐きながら鍵を返す姿を思い出した。

 薄暗い牢屋の湿度もレンガの冷たさも、鉄格子の中のすえた臭いも、野卑な看守も弱腰の面会人も、アルベルティーヌを思い出した瞬間にすべて消え去ったような気がした。ロイはそっとまばたきをして、本当は違うはずの名前を、指の腹でなぞる。


 ──アルベルティーヌ・へーゼル。


 何故彼女は死を選んだのだろう。助けてくれと頼んだ覚えなどないのに、勝手に決めて、勝手に死んだ。ロイを一人残して逝った少女のことを多少は憎く思ってもいいはずなのに、思い出すのは優しい記憶ばかりだ。


 ──憎むことなど、できるものか。


 銀髪の元中佐は動きを止めた。


「……中佐……申し訳ありません……」


 うめき声で我に返った。面会人が嗚咽していた。


「あなたは帝国のことを第一に思われていた。陛下のことを何より大切に思われていた。私たち部下のことも。あなたは近衛としての役目を果たしつづけただけです。……あなたは最後まで帝国軍人であるつもりなのでしょう? それなのに……それなのに、私ときたら……あなた一人に敗戦の責任を押し付けて……」


 違うと言いたいのに、口にすることができない。下手に何かを言えば、オフィリア・ライズランドの死を否定することになりかねない。それはアルベルティーヌの死を無駄にすることだ。オフィリアが生きているとなれば、王国は血眼になってオフィリアを探して殺すだろう。先代皇帝第一夫人のマリーやアルベルティーヌの最期の願いは踏みにじられて、彼女たちの死は意味のないことになる。


 ──ベル、ずるいよ。こんなになった俺に、嘘をつかせようとするなんて──。


 ロイは力なく笑みを浮かべた。


「俺は、そんなにできた人間じゃありませんよ」


 面会人から目をそらすわけにはいかない。嘘をついていると気付かれては困る。両目から涙をあふれさせる男を見ていると、胸の奥深くで罪悪感と羨望が渦巻いた。


「私は中佐のことを誇りに思います。だからどうか、生きてください。あなたはこのまま終わってはいけない人です」


 なぜ自分の胸の内に羨望があるのだろう。面会人が次の世界を生きようとしていることへの羨望か? それとも涙を流して懺悔できることに対する羨望か? 答えは見つからなかったが、そう思った理由だけは見つかった。


 ──この期に及んで、まだ生きたいのか、俺は。


 ロイは苦く笑って、首を小さく横にふる。それに呼応するように、面会人の首が強く左右にふられた。


「中佐、生きてできることだってあるはずです。私は、デューン閣下を手伝いたくて王国軍に入りました。閣下は、帝国軍人の遺族の元へも様子を見に来てくれるような方です。私は、私なりに元帝国兵の助けになりたくて……」


 面会人の言葉に、ロイは言葉に詰まった。


 ──帝国軍人の遺族の元へ様子を見に行く? 誰が?


 憤りもいらだちも、焦りも、とらわれていた罪や罰の意識でさえも、ロイの意識から抜け落ちていくようだった。


「ハレイシア・デューンが?」

「はい……もちろん閣下にもお立場がありますから、謝罪などはなさいません。でも様子を見て……一家の働き手を失っているようなら、援助を申し出て」


 ──そうだ。ハレイシア・デューンはそういう女だった。


 戦いの最中でも、敵味方の区別なく民を守ろうとする。ハレイシアは厳しい冬の中で己の無力さを噛みしめながら育ったと聞いた。だからこそ、自分のできることに全力を尽くす。自分のしていることが甘いと知っていても、躊躇することがあっても、彼女は決して歩みを止めることはない。薄い青の瞳を前へ向けて毅然と進んでいく。


「それ、いい顔をする人ばかりとは、限らないんじゃないのか」


 面会人は「やっと以前の口調に戻ってくれましたね」と今度はうれしそうに涙ぐんだ。


「閣下に殴りかかる者もいます。刃物を持って追い返されたことも、一度や二度ではありません。でも、閣下はそれでご自分の行動を変えたりはしない。きっと困っている者がいるからと……素晴らしい方です」


 ハレイシアの左肩に広がる赤黒い痣を思い出した。元敵兵を心配してケガをしていては世話がない。おおかたあの打撲もかわしそこねたのだろう。


「立場を弁えて欲しいと思うこともあるんじゃないの?」

「……ですね。でも、あいつならこうするだろうと仰って、聞き入れていただけないんです。きっと閣下にとって、大切な方なんでしょう」


 戦死者名簿を取り落としそうになった。自意識過剰だろうか、自分のことだと直感した。


 ──とんだ買いかぶりだ。


 どうして女はそうなのだろう。頼んだ覚えなどないのに、あなたのためにと勝手に行動する。言われた側がどう思うかを、何を願っているのかを考えもしない。やさしいけれど、身勝手だ。

 もし帝国が勝ったとしたら、ロイは王国兵の遺族の元を訪ねただろうか。実際にその場に立ってみなければわからない。もし、学問都市イスハルで帝国軍が総崩れにならなければ──もし、北方都市ハルシアナで出会ったベルが死なずにいてくれたら──。


「馬鹿だ、ほんと……馬鹿だよ」


 何度「もし」をくりかえしたところで、現実はそこにない。涙が胸の奥に引っかかって、ロイの身体の内側を熱くする。

 きっとロイには、ハレイシアのようなことはできない。ハレイシアの中のロイは美化されていて、現実とはかけ離れている。

 けれど、もしもアルベルティーヌが……ベルが泣いていたら、ロイス・ロッシュは何を押しのけても手を差し伸べるだろう。

 光の加減によってくすんだ金色に見える栗色の髪が、ふわりと舞う。少女は瞳を閉じたまま、幻のように霧に包まれて色素を薄くしていく。

 少女が目をゆっくりと開く。瞳の色が薄い青になっている。目がわずかに吊りあがって落ち着きのある顔になっていく。それはハレイシアだ。幼い姿のハレイシアは、何かに堪えるように唇を噛んでいた。

 学問都市イスハルで共に過ごした一夜──ことが終わって、いい加減酔いも醒めはじめた頃、ハレイシアはぽつぽつと自分の話をした。寝物語のように聞いたその話を思い出して、ロイス・ロッシュは弱々しく笑った。

 温かいな、と自分の胸に顔をうずめるハレイシアに、腕枕をした。朴訥な口調で語られる内容を聞いた。

 憧れていた兄弟子が食糧のために自殺したこと、娼館に売られていく民の泣き腫らした赤い目と空虚な表情のこと、兄弟子が大切にしていた弟が次の冬に凍死したこと、華やかな新聞記事を見て父に食ってかかったこと、唇を噛んで冬を憎んだこと──。

 だから冷たいのは嫌いだと、ハレイシアは言った。己の無力さを恨み、不幸な境遇の者たちを助けられない罪の意識にさいなまれながら息をひそめ、堪え忍んで生きる。そうして軍人となったハレイシアは皇都にやってきた。故郷の惨状を訴え、支援を求めるため、懸命に己の職務に励んだ。その結果が、失脚だった。

 明日には殺し合いをしなくてはならない、けれど日が昇るまでは──そう言い出したのはハレイシアだ。

 だから学問都市イスハルで泣き崩れたハレイシアを見たときも、罪悪感はなかった。人の心が理屈でどうにもならないものなのは知っている。しかしそれをどうにかするのが軍人だ。ハレイシアは約束を守れなかった。軍人としての自分を保つことができなかった。ただそれだけのことだ。

 チェックを終えた戦死者名簿を手にしたまま、ロイはいつの間にか口に出していた。


「海軍本部付き海軍少佐デオフィル・リシュル、陸軍近衛部隊伍長リュート・セル、ライト・ザック、マッシュ・グエス、第三師団兵長サイファ・エリオット、第六師団長アネス・フェルナンド、第八師団曹長クライブ・ザクセン……」

「中佐……?」


 無意識に口をついて出た名前は、ロイに戦争を長引かせたという大きな罪を思い出させた。

 ハレイシアに手を差し伸べてはいけない。今のロイにできることなど、なにもない。王国将校であるハレイシアが戦争犯罪人である自分と接触すれば、それだけ王国内での立場がまずくなる。

 名簿を持ったままのロイの手に力がこもる。くしゃっと紙の丸まる音がした。紙の束を持ち直して、しわが寄らないようにする。


「中佐……! もういい、結構です!」


 悲痛な叫びと共に戦死者名簿が奪い取られた。


「第一師団所属ブライアン・ドゥミ、エルンスト・ヴェルトフ、リンゼイ・フォード、ロバート・カラックス、第二師団所属エッジ・グィール、ジャック・ブルックス……」


 それでロイの声は止まらない。ベルの死だけに気をとられていてはいけない。ハレイシアとの一夜など、思い出してはいけない。


「中佐……!」


 看守が面会人を連れ出しても、ロイは戦死者の名を読み上げつづける。薄暗い地下牢にそれぞれの姿が浮かんでは消えていく。細い目の背の高い男、短い金髪の青年、焦げ茶の大きな瞳をした熊のような大男、なで肩の陽気な男……。

 律動的な足音に気付いても、ロイはまだ名前を読み上げるのを止めない。すべて呼び終えるまで、やめるわけにはいかなかった。一度呼び終えたら、忘れた名前がないか最初からもう一度確かめなくてはならない。


 ──俺が殺したようなものだ。


 鉄の扉が開く。本を抱えた女が光を背にして立っていた。ゆるやかなウェーブのかかった金色の髪、薄い青色の瞳……さっき唇を噛みしめて俺を見ていた瞳だと、ロイは思う。

 ロイはゆらりと立ち上がり、それでもなお戦死者の名を口にしつづける。

 ハレイシアが息を飲む様子が伝わってくる。本を放り出して駆け寄った女は、小さく震える手で鉄格子をつかんだ。

 おずおずと伸ばされた右手が頬に触れる。冷たくて心地いい。ロイは一度ゆっくりと息を吸うように死者の名を読み上げるのを止めた。


「もう、二度とここへ来るな」


 見開かれたハレイシアの青い瞳に向けて、ロイは穏やかな笑みを浮かべた。

 自分が関わらないことで守れるのなら、ロイス・ロッシュは遠く離れて思いを馳せることを選ぶ。

 鉄格子をにぎったハレイシアの左手に触れ、包み込む。中立都市での一夜のように、けれどもさらに深い愛情をこめて。


「俺は大丈夫だから、もう二度とここには来るな」

「どこが大丈夫だ! お前、お前……っ」


 言葉にならない想いをぶつけようとするハレイシアの頬に、手を伸ばして諌める。頬の温かさがロイの指にしみこんだ。


「大丈夫だ。だから俺のことは忘れろ」

「馬鹿なことをっ」


 ひんやりとしたハレイシアの手に、自分の熱が移る前にロイは手を離した。熱を求めるようにハレイシアが手首をつかんで引き戻す。


「嫌だ! 私はっ」

「俺に関わると、不幸になるぞ」

「そんな馬鹿なことがあるものかっ」


 声変わりするまでは母の跡を継げるとまで言われた声で、ロイは静かに歌った。


「この世に生まれしあなたに祝福を。貴方の旅路が幸福であるように」


 ライズランドに広く伝わる旅立ちの歌に、ハレイシアの両眼から涙がこぼれ落ちた。

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