第九章 月龍哭す 第六話
階段を上る途中で足を止めてしまうのは、靴音までもがやけに緊張して聞こえるからだろうか。ハレイシア・デューンはため息をついた。一人で行くと言ったのは自分だが、今隣にラグラスがいてくれたなら、どれほど心強いだろう。思わず他人を頼りそうになる自分に、一人で来たのは正しい選択だったと言い聞かせる。誰かに頼ることは簡単だ。けれどもそうやすやすと頼るわけにもいかない。
「よ、いらっしゃい。久しぶり」
階段の上から聞こえた声に顔を上げる。どれだけ殺意をこめて、その名前を胸に刻んだだろう。艶のある銀色の髪が、以前会ったときよりも伸びている。頬に笑みを浮かべて何事もなかったように、ロイス・ロッシュはハレイシアに声をかけた。
「来てくれてありがとう。また会えてうれしいよ」
「命乞いを聞きに来たぞ」
「そりゃあ、どうも。こっちもあいにく仕事が残ってるもんで、簡単に殺されるわけにはいかないんだけどね。あーあ、サボってたツケが今頃まわってきたよ。提督の野郎、とんでもない仕事を押し付けていきやがって」
軽口を叩いていると、ハレイシアは帝国で過ごした日々を思い出す。けれども過去へ戻ることはできない。ハレイシアは背筋を伸ばして、ロイが後ろへひいた椅子に座った。
「降伏にあたって帝国側にも要求があるだろう。聞かせてくれ」
ロイはいつかのように両手を広げて笑った。まるで時間が戻ったような思いがする。
話の内容さえ、なければな──。
ハレイシアは内心で苦笑して、頬に落ちた髪を耳にかけた。
「もちろん。無条件降伏なんて、性に合わないからね」
一度言葉を切ったあと、ロイの笑みが不敵なものへと変わる。
「捕虜も含めたすべての帝国兵の、生命を保証してもらいたい」
ひと頃より落ち着いたとはいえ、戦闘をつづけている抗戦派もいる。目的は玉砕にあるのだろうが、彼らの生命まで保証しろというのでは困る。
ハレイシアは、穏やかな微笑に戻ったロイに氷のような視線を送った。
「そういう要求は、抗戦派をなんとかしてから出してもらいたいものだな」
「やっだなぁ。命令に背いた彼らはもう帝国兵士じゃないよ。脱走兵さ」
「ずいぶん簡単に見捨てるものだな。帝国の指揮官だけある」
「あはは、我が身でも振り返った? あなたも昔、帝国に言いがかりをつけられて、見捨てられたものね」
言葉の奥に見え隠れする意地の悪さよりも、あなたと呼ばれたことにハレイシアはいらついた。
──もう戻れはしない。わかりきっていたことだ。
いらだちを隠して呼吸を整えた。反論がないことを知ったロイの顔が、屈託のない笑みに変わる。
まるで勝てる気がしなかった。王国は勝ったのだと、ハレイシアは何度も自分に言い聞かせた。属する国を考えれば、ハレイシアの方が優位にある。けれども個人となると、まるで逆だ。
「帝国が捕らえた我が軍の兵士を解放するか?」
「もちろん」
「では降伏してきた者、捕虜の生命を保証する。……これでいいだろう?」
「いい案だね。領地はそちらの国王陛下のものになるのかな? マリー様も陛下も薨去されたから、帝国には正統な継承権を持つ者がいない」
机に肘をついて、ロイは余裕の表情を浮かべたまま、こちらを見ている。ハレイシアは自分が相手に緊張感を欠片も与えていないことを思い知った。
けれどももし、あいつなら非道な条件を出さないだろうという信頼によるものなら──。
ハレイシアは胸にこみ上げた思いを飲み込んだ。自ら進んで思い込もうとしている。腹に力をこめて身構えると、彼女は王国将校としての役目を果たすべく、口を開いた。
「ああ、すべて王国のものとなる。くわしくはクラウスが決めると思うが、帝国軍人の領地は没収しない方向で話は進んでいるよ」
「そう、助かるよ」
銀色の瞳が細くなる。ハレイシアは魅入られないよう視線をそらしかけてやめた。負けを認めるようなものだ。真正面から見据える。心を強くもって、王国将校としての自分を意識する。
「他には?」
「ないよ」
「では、この書類にサインを」
ぶっきらぼうなハレイシアの問いに、簡素な答えが返って来た。以前のロイス・ロッシュならば口説き文句の一つもあっただろう。ハレイシアは自分へのいらだちを強くした。どこかで期待している。隙を見せないようにできるだけ背筋を伸ばして椅子から立ち上がると、サインを終えたロイもすぐに立ち上がった。ロイが先に立って扉を開く。ただの習慣で、誰にでもしていることだと言い聞かせても、女性として扱われることに慣れていない胸は高鳴る。
「では失礼する。後ほど兵がお前を連行しにくるだろう。それに従ってくれ」
黙ってうなずいたロイに、ハレイシアはため息をついた。否定しようとしても、感情が理性の下でうごめいている。一度意識してしまうと気になって仕方がない。
「お前……落ち込んでいるのか?」
きょとんとした様子のロイに、ハレイシアは言葉を濁した。
「ええとその……いつもと、違う気がしたものだから」
ロイの顔に、最上級の笑みが浮かんだ。すべての女性をとろけさせるとかつて皇都で噂された微笑だが、それが作り物でしかないことをハレイシアは知っている。知っていても抗うことができないというのは不便なものだ。
「心配してくれたんだ? ありがとう。でも平気だから」
笑顔と共に、あらかじめ決められていたような台詞が返ってくる。ハレイシアのいらだちは加速した。
「別に心配なんか」
形だけの抵抗をして、ハレイシアはきびすを返す。ふいに、降伏交渉を終えた指揮官が自ら命を絶った話を思い出した。ロイの表情を見つめる。以前と何も変わらないのが余計に痛々しい。この状況で苦痛を覚えぬ者などいないだろうに。
ロイス・ロッシュが自害などするわけがない。そう信じてはいても、普段と同じ様子で、目の前から突然消えていなくなりそうな気もする。一度疑いだすと、気になって仕方がない。ロイは黙って左手を広げている。退室をうながす気配に、ハレイシアは唇を引き結んだ。
──ロイス・ロッシュは決して、私を受け入れない。
見返りがないことなど、とうの昔に気付いている。それでも見捨てることはできない。何故見捨てられないのかを己に問いかけるのは愚かなことだ。そんなことをすれば王国将校としての自分を忘れてしまう。
「やっぱり一緒に来い」
突然の申し出にロイは少し困った顔をして肩をすくめると、「あなたがそう言うなら」とひどく静かな声で応えた。階段に響く足音が、来たときよりも増える。個人としてのハレイシアにとっては喜ばしいことのはずなのに、彼女はもう片方の足取りが重いことを知っていた。
こうして、帝国軍は完全に降伏した。無事にラグラスが帰還した翌朝、雪が止むのを察したハレイシアは全軍に皇都へ戻ることを命じた。冬のハルシアナでは食糧調達が難しい。軍としては長く滞在していたくない地域だ。ハレイシアにとっては苦渋の決断だった。軍が滞在していれば、食糧が後方から送られて来る。そうすればハルシアナの民に分け与えることもできる。しかし補給が滞れば、滞在している軍人の数だけ、現地の食べ物がなくなってしまう。
貧しい土地ではあるけれど、この街を愛せるように──両親はそう考えて、故郷と同じ響きのある名をつけたのだという。ハレイシアはずっと、両親の思いに応えようとしてきた。
──昔の私なら、きっと春が来るまで滞在しただろう。
後方から補給が来ることをあてにして、春までハルシアナに軍を留まらせたはずだ。けれどもハレイシアは、その道を選ばなかった。戦闘が終われば軍は撤退するものだ。滞在期間を長くして、国庫を浪費すれば国は立ち行かなくなる。今は地域のことだけでなく、国全体のことを考えなければならない。
ハレイシアは故郷をたつ後味の悪さを、予備食糧を多めに置いていくことでごまかした。故郷を見捨てるようでつらかった。
白い地平線の上に、青空が広がっている。薄く伸びた雲の向こうから太陽が力強い日差しを投げかけ、光を受けた雪原がきらめいた。
雪原を進む馬の足音が、ざくざくとつづく。ハレイシアはそっと後ろの様子をうかがった。兵の足取りが雪にとられて段々と荒くなっていくのを、苦笑して見守った。皆、雪に慣れず苦労している。ふと足を止めたロイが、白く染まった息を吐き出した。銀色の髪は雪の輝きのように、艶やかで美しい。思わず見とれていると、うつむいていた顔が上がった。目が合う。暗く沈んだ瞳をさっと隠して、ロイは笑った。
どうしようもないいらだちが心を支配して、ハレイシアはすぐに前へと向き直る。馬を二、三歩前に出させて、行軍を止めた。
「休憩だ。三十分後には出発するから、各自暖をとれ」
馬から下りたロイにちらりと視線を送る。今度は最初から笑っていた。
──この期に及んで笑う必要が、無理をする必要があるというのか。
身体の奥深くから怒りがこみあげて、ロイの元へ向かう足が早くなる。「どうしたの」と首を傾げる銀髪の男の胸倉をつかみ、にらみつけた。
「来い」
有無を言わせず、ひと気のない方へ引きずる。二、三歩引きずると、ロイは黙ってハレイシアに従った。新雪が靴の下できゅうきゅうと鳴る。少し歩くと、ハレイシアはいらだちに任せてロイを突き飛ばした。
まだやわらかい雪に倒れこんだロイの身体が、わずかに埋まる。ロイは何事かを思い出したのか、静かに笑みを消した。手袋に覆われた左手で雪をつかみ、まだ固まっていない新雪をきゅうと鳴らした。その横顔がひどく切なげに見えた。雪の冷たさに身を任せるように、ロイがゆっくりとまぶたを閉じる。今度は死に顔に見えた。
ハレイシアの胸の奥からこみ上げるのは、いらだちではなかった。いらだちでないことはわかるのに、それが何なのかわからない。不意に涙がこぼれた。ハルシアナの冬に友が殺された日のことを思い出す。
──これは、あの日と同じ思いだ。深い絶望と、無力な自分に対するいらだちと、何もできない悔しさと──。
引き結んだハレイシアの唇の奥で呪詛がつむがれ、ついには声になった。
「冷たいのは……嫌いだ」
ハレイシアの震える声に、ロイがそっと目を開ける。そこにはなんの表情もなかった。先ほどのような貼りついた笑みもない。ロイが何も見ようとしていないのだと気付いた瞬間、ハレイシアの言葉は止まらなくなった。
「こんなのは違う。お前は私の知ってるロイス・ロッシュではない。こんなお前、見たくはない!」
あふれ出る涙は止めようがなかった。冬の寒さに対する憎しみが、心を満たした。
「あなたが、俺の何を知っている?」
雪の中に倒れこんだままのロイの顔に、酷薄な笑みが浮かぶ。イスハルでの大将戦を思わせる笑みだった。
「知ってるつもりになってるだけじゃないの? 俺はあなたに、何も見せてはいないよ」
ロイス・ロッシュという人間がどういう人間か……迷宮を抜けて扉を開ければ、そこに光があるものだとハレイシアは信じていた。けれどもそこにあったものは、より深い闇だった。新月のような濃い闇では、何も見ることができない。それでもハレイシアは先へ進むことを選んだ。
「知るわけがない!」
断言してロイに馬乗りになる。胸倉をつかんで上半身を起こした。
「お前が誰にも見せてこなかったんだ。そんなもの、どうやって知れっていうんだ!」
ロイは先ほど雪を握りしめていたときのような、切なげな表情に戻った。言葉を飲み込むようにゆっくりとまばたきをしてから、ようやく口を開く。
「あなたに、見せなかっただけだ」
ハレイシアの内に悔しさがあふれて、衝動的に唇を奪った。両手でロイの頬を押さえて口付けた。戦場で敵と対峙するように、真正面にある男の顔をにらみつける。
互いにまぶたは閉じなかった。ロイは目を開けたまま、されるがままでいた。目の前のものを何の感情ももたず、静かに見おろしていた。その瞳をじっと見ていると、ハレイシアのいらだちが次第に落ち着いていく。ハレイシアは我に返って唇を離した。自分のしたことを今さら自覚して、身体中の血管がどくどくと脈打つようだ。敗軍の将を蹂躙した自分を恥じた。
「お前は、少なくとも、自ら死を選ぶような男じゃない」
とってつけたような言葉は、宙に浮いているような気がした。ばつの悪い思いで立ち上がって、コートの裾についた雪を払う。接吻の間中そうだったように、ロイは静かな瞳でハレイシアを見ていた。今さら見ないでくれとも言えず、ハレイシアはロイが起き上がりやすいように少し距離をとる。それでもロイは自分から立ち上がろうとしない。雪の中に倒れたままだ。
「お前な……」
先ほどとは別のいらだちを、気恥ずかしさがあおる。まだ濡れている唇をぎゅうっと結んで、ハレイシアは動きを止めた。
しばらくの間、沈黙があたりに満ちた。折れた木の幹に積もった雪が、ときおり日の光できらめいてまぶしい。木々の根元に積もった雪のすき間から、軍服らしき布の切れ端が見えた。戦場は愛を語らうには不向きだ。
一つため息をついて、ハレイシアはロイに右手を差し出す。
「別に、好きだってわけじゃ、ないからな」
短く切った言葉の間にハレイシアがことごとくためらった様子が面白かったのか、ロイはようやく悲しげな顔のまま微笑んだ。




