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エンドロール・サガ  作者: 網笠せい
第九章 月龍哭す
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第九章 月龍哭す 第四話

 樹氷をまとった木々が、風にざわめいた。北方都市ハルシアナの日差しをうけて、細い枝がガラス細工のように輝いた。白い雪原にいくつもの影がならんでいる。徹底抗戦派の一部を率いていたアルフォンス・クーベリックは足を止め、顔をあげた。見知った顔に、思わず肩から力が抜ける。アルフォンスは戦艦と同じ灰色の頭をかいて、ため息をついた。


「なんでお前らがここにいる? ハルシアナから脱出したんじゃねぇのか」


 男たちはそろって敬礼をした。脇をしめた海軍式の敬礼に、アルフォンスは苦笑した。


「なんでぇ、そろいもそろって。別れのあいさつにでも来たか」


 砲撃手に伝令係、操舵室の面々……プレナイト号で見た顔がいくつもある。スォードビッツの海戦で沈んだロードナイト号の船員、ハルシアナで沈んだアマゾナイト号の船員、アルフォンスを追って陸路ハルシアナまでやってきた海軍本部の連中……全員ではないにしろ、海軍のあちこちからやってきたらしい。


「提督はハルシアナを出られないのですか」


 彼らから声があがる。隻眼の提督は黙って眉間にしわを寄せた。


「海軍の中にも抗戦派の連中はいる。そいつらを見捨てていけねぇだろ」


 瞬時に一団の顔がぱあっと明るくなる。息を飲む者も腹をくくった者も、皆、やる気にあふれている。士気が上がるのを感じて、アルフォンスは苦々しい顔をした。


「だったら俺たちも、ハルシアナから脱出するわけにはいきません」


 アルフォンスは舌打ちすると、左目にかけていた眼帯を外した。ひきつれた傷が左目をふさいでいる。一同は直立不動のまま、じっと提督の次の言葉を待った。


「こんなもんじゃ済まねぇんだぞ。わかってんのか」


 返ってきたのは「はっ」という短い返事と海軍式の敬礼だった。あまりに短い返事に、アルフォンスは珍しく声を荒げた。


「お前ら、待ってる奴がいるんじゃねぇのか! 俺と心中して何になる!」


 冬の冷たい風が森の木々を揺らすように、ざわざわと悲痛な表情が一団に広がった。


「やはり、命を捨てるおつもりなんですね」

「わかってんなら、なんで来た!」


 一番前にいた甲板手の胸倉をつかんでにらみつける。そうまでしても、意思が揺らがないのか動じない。決意を秘めた眼差しが痛いほど刺さった。アルフォンスは男を突き飛ばすと、もう一度盛大に舌打ちをした。


「リシュルが生きてりゃ、一時の感情で判断を見誤るなって、お前らを止めてくれただろうにな」

「少佐なら俺たちじゃなくて提督を止めたはずです。考え方が甘いとか、馬鹿だとか、義理を感じる必要はないとか、降伏のために首を残しておけだとか……何か理由をつけてあなたを止める。止められたはずなんだ」


 海軍本部詰めの連中の言葉には毒っけがある。上官によっては嫌がるだろうが、アルフォンスはそれをよしとしている。学問都市イスハルで死んだリシュルもそうだった。毒舌の癖に心配りがていねいで、口が悪くて腕が立つ。


 ──死なせるのか、リシュルのように。


 風にうごめいた木々が大きくしなるたびに、アルフォンスを慕う一団の影がいくつも飲みこまれた。

 アルフォンスが耐えきれずに視線をそらす。軍人をやっている以上、戦死者が出るのは仕方のないことだが、可愛がってきた部下が命を落とすのはつらい。陸軍のロイス・ロッシュも、それは同じだろう。これから先、そんなものをいくつも見なければならないのかと思うと堪らなかった。


「お願いです。ここで帰ったら、我々が戻ってきた意味がない!」

「うるせぇ、帰れ」

「提督、自分ばっかりズルイですよ。ハルシアナから脱出したら、俺らが提督を見捨てたことになるじゃありませんか」


 口々にわめく帝国海軍の面々に、アルフォンスはハエを追うように右手を振ると背を向けた。ざくざくと雪の中を進むと、後から荒くれどもがヒヨコのようについてくる。


「ダメって言われても、俺たちついていきますからね」

「芝居じゃあるめぇし、やめてくれよ。命を無駄に散らすことはねぇ」

「提督がハルシアナに残らないってんなら、俺たちだってハルシアナを出ます。あんたがいるから、皆戻って来たんだ」


 その言葉に思わず足を止める。戦死者の仇をとるために戦う必要もない。わざわざ平和を乱した王国に従うこともない。ただ、今ここにある者のために──己のために戦うのだ。

 敵はこちらを狙っている。戦わなければ生き残ることはできない。ならば、戦うしかない。帝国海軍少将としては恭順を貫いたが、アルフォンス個人の内に降伏するという選択肢は最初からなかった。王国に生きるつもりなどない。


「俺も業が深いねぇ」


 帝国海軍の面々をハルシアナから脱出させて身軽になったはずなのに、いつの間にかまた、取巻き連中が増えている。アルフォンスは自分の決意が彼らに影響を及ぼしてしまうことを思い知った。いつもの癖で灰色の頭をかく。眼帯をかけ直した。


「……海軍にゃ、馬鹿野郎がそろいもそろってるってことか」

「ええ、馬鹿でも阿呆でもマヌケでもトンマでも、なんでも構いやしません。提督をお守りできるなら」

「後悔すんなよ」


 振り返らずにつぶやいた声に、一同が静まる。次の瞬間、わぁっと歓声が上がった。帝国海軍の面々が次々に雪原を駆け出して、すぐにアルフォンスを追い抜いていく。喜びの雄叫びをあげて雪に飛びこむ者もいれば、アルフォンスの肩を叩いて満面の笑みを浮かべる者もいる。あまりに騒がしい様子に、アルフォンスは苦笑した。


「それじゃ、早速大暴れしてやろうじゃねぇか。陸軍の連中に、船がなければ役立たずだ……なんて言わせんなよ」

「はい!」


 返事はどれも元気がよく、アルフォンスは置いていかれぬように歩を進めながら一人ごちた。


「ほんと、馬鹿ばっかりだなぁ……」


 アルフォンス・クーベリック一行は、日が昇りきる前に陸軍と合流することを目指して、雪の中を進んだ。これから死地に向かおうとするのに、彼らの顔は活き活きとしている。積雪を踏む足も軽やかに、歌など歌いながら進む。これ以上ないほど、士気は高まっていた。

 帝国が──ロイス・ロッシュが降伏を選んだという知らせは、既にあちこちに知らされていた。それでも各地で戦闘がつづいているのは、黙って従うことをよしとしない者が多かったからだ。各隊で動きがてんでバラバラだから、帝国軍の本営はどの部隊がどこにいるかを把握しきれていない。篭城策をとった者、移動しなかった者はロイの指揮で戦っていたときと同じ場所にいるだろうが、それとて、いつまでも動かないという保証はない。戦場を見ればある程度あたりはつけられるが、敵と味方を間違えて近付こうものなら、大きな被害が出る。


「斥候が必要だな」


 そばにいた海軍兵士に戦場の様子を探る役目を与えると、彼は大喜びで敬礼して飛んでいった。まったく陽気なことだ。あたりが明るくなるにつれて、白い雪に覆われた大地に点々と埋もれた遺体が見えるようになった。

 ふいに銃声が聞こえて、行く先に目を凝らした。隊に停止命令を出して戦闘準備をさせていると、煤にまみれた斥候が走って来た。


「状況」

「帝国と王国の小競り合いです。一番近い戦闘区域はここからざっと三〇〇〇先」


 斥候の息は切れ切れで、紅潮した頬には煤がところどころこびりついている。それでも口調ばかりははきはきと、背筋を伸ばしている。


「敵はこっちに気付いてんのか?」

「いえ、おそらく正面部隊に夢中です」

「よし。ここから五〇〇だけ進んで空砲を撃て。多分はさみ撃ちを恐れて逃げるだろ」


 斥候に伝令を頼むと、すぐにまた駆け出していく。伝令を受けて、帝国海軍残党たちの活気が緊迫感に変わった。大砲の準備をしながら進み、方角だけあわせて空砲を撃つ。


「こんなので逃げてくれますか?」

「逃げねぇようなら実弾に変えるまでだ。この先、補給がある確証はない。弾薬は節約しとけ」


 王国軍の動きが変わったのが遠目からもよくわかった。退却しはじめた王国軍を、帝国陸軍残党が塹壕を飛び越えて追いかけていく。


「深追いしやがって……調子に乗ってんじゃねぇよ。おい、誰かひとっ走りして補給を頼んで来い!」


 気管をひゅうひゅういわせている斥候をなだめて、大砲の火薬係と交替させた。火薬係だった男が戦場に走り出していく。あと三〇〇で合流できるというところで、危惧した通り、王国軍の反撃がはじまった。もはや勝利が確定したも同然の王国軍には、帝国軍を物量で押し切る準備が整うまで待つ余裕がある。しかし深追いされれば、部隊の存亡がかかってくる。反撃があるのは当たり前のことだ。このままでは帝国陸軍残党が被害を受ける。帝国海軍残党も余波を喰らいかねない。戦場をそう読んだアルフォンスは進軍を止め、実弾を撃つように命じた。


「軍艦三隻の借りをきっちり返してやれ! 撃て!」


 大砲が一斉に火を噴いた。腹の底から身体が揺さぶられるのを、地面にぐっと両足をつけてこらえる。反撃をはじめた王国軍は攻撃の合間に少しずつ退却している。横から攻撃してくるアルフォンス部隊を警戒しながら、逃げにかかっている。敵軍と距離があいた頃合を見計らって進軍させ、アルフォンスたちは帝国陸軍残党と合流した。

 帝国陸軍の残党たちが王国軍を追うのをやめ、意気揚々と戻ってくる。現場で指揮をとっていたらしき帝国陸軍大尉が馬で駆けてきた。面長の顔にヒゲを生やした男だった。


「やあ、海軍にも骨のある連中がいるんですねぇ。いやはや、感心しました」


 第一声で嫌味が飛んできて、アルフォンスは困ったように目尻を下げた。リシュルで慣れているとはいえ、あまりいい気分にはならない。


「俺たちの持ってる食糧は三……」

「あー、いいです。そういうことは気にしなくて。来てくれただけで十分ですよ。最期に一つ暴れてやりましょう。わっはっは」


 陸軍大尉はヒゲをなでて大笑いする。どうやら本気で言っているようである。面長の大尉が歳若い従者に何事か命じると、少年はすぐに笑顔になって、ヒツジでも追うようにふらふらと走って行った。戦場の緊迫感のようなものは微塵も感じられない。

 この指揮官は戦下手だろうなとアルフォンスは苦笑した。兵糧、武器、弾薬──戦にはどれもそれなりの用意がいる。それを今ここであっさり「気にしなくていい」などと言うのは正気の沙汰ではない。


「せっかく提督も来てくださったことですし、宴でも開きますかな」


 戻ってきた従者が渡したワインを手にして、大尉は呵呵大笑(かかたいしょう)してみせた。

 早速酒を出すのかと、アルフォンスは内心げんなりした。酒は嫌いではないが、戦闘後の被害報告や武器の修繕などを放り出して、今すぐ飲むものでもあるまい。陸戦をする以上は陸軍のやり方に従うしかないが、これから困った状況に追い込まれるのを黙って見ているわけにもいかず、アルフォンスは提案した。


「今見張りをやってる兵を交代させて、休ませてやってくれ。こいつら操船技術は確かだが、剣の扱いには疎い連中が多いからな。最前線で戦うより後方が向いてる。砲撃の腕は折り紙つきだ。なんてったって荒れた海でも敵船に命中させるんだからな。俺が保障するぜ」


 部下の前で「最前線には向かない」というのはあまり褒められたことではないのかもしれないが、聞こえたところで海軍の連中は笑い飛ばすだろう。その程度では揺らがない信頼関係がある。


「提督、海と陸とでは戦い方が違うのです。それとも私は、あなたに指揮権と兵を丸ごと差し出せばよろしいのかな?」


 大尉のヒゲがぴくりとふるえたのを察して、アルフォンスは「悪い」と付け加えた。


「そういうつもりじゃねぇんだ。ただ浮かれすぎんのはよくねぇと……」

「提督は意外と心配性なんですな。だから恭順派だったわけだ。今回の戦いで散々王国を叩いてやったじゃありませんか。王国軍も立て直しに時間がかかるはずですよ。今日ばかりは見張りなんていらないんじゃないですか」


 兵糧や弾薬の残数を気にしない、被害報告を放っておいて酒は飲む、見張りもつけない。とんでもない部隊に合流しちまったな──。


 アルフォンスは閉口して、納得しないままうなずいた。自分の率いてきた部隊へと戻るとこっそり見張り役を決めた。陸軍に任せていたら、仲間が命を無駄に落としかねない。陸軍大尉にばれないよう、宴の最中はできるだけ短時間で交替できるようにして、他の兵には休憩を命じた。

 日がまだ高いというのに、早速宴がはじまった。全員に干し肉と乾パン、ワインが配られる。円陣を組んで踊り、歌い、いつの間にか作った自作の笛で演奏する者までいた。隻眼の提督はそんな中で、兵舎の窓から見張りをしている兵のところへ出かけて「一杯だけだからな」とワインを酌んでまわった。帝国海軍の残党たちはささやかな食事を楽しみながらも、決して銃を手離さなかった。鼻が高い。酒も入って気分よく歩いていると、途中、暗い表情をした一団に出くわした。


「お前ら陸軍か? 宴はどうした?」

「あんなものに参加する奴の気がしれませんよ」


 どうやら陸軍にも、指揮官の命令に疑問を抱く者はいるらしい。頬に煤がついて真っ黒だ。身体には均整のとれた筋肉が過不足なくついている。歴戦の兵士らしかった。


「なるほど、古強者ってとこか。お前らもどうだ? 一杯ぐれぇなら構わねぇだろ」


 手にしたワインの瓶を傾けようとすると、男たちの陰鬱な瞳にギラリと剣呑な光が走った。


「あなたと飲む酒などない」


 思わず手を止めたアルフォンスに、男たちは口をつぐんだ。明らかな殺気を背負っている。


「そうか。元は海軍がセラフィナイトを強奪されたのが悪いんだものな」

「それだけだと?」


 明らかな敵意を含んだ視線に、アルフォンスはなかなか二の句がつげずにいる。


「あなたが兵士を逃がしたおかげで負け戦だ。ロッシュ中佐の策を台無しにしたのは、あなたですよ」

「……お前はロッシュの部下だったのか?」

「いいえ。中佐に心酔してたわけでもない。俺はただ、己の信念に従うだけです。王国と最後まで戦えるなら、上に立つのは誰でもいい。あなた以外ならね」


 ずいぶん嫌われたものだ。けれども陸軍の連中は多かれ少なかれ、似たようなことを思っているだろう。謝ろうとしてやめた。アルフォンスにとっては正しい選択であったし、謝って済むような問題でもない。


「……邪魔したな」


 提督が手をあげると、冷たい風が木々の隙間をぬって吹きつけた。遠くから楽しそうな声が聞こえてくる。兵舎に戻って眠るが、固くて冷たいベッドは雪の大地、ハルシアナに来たことをアルフォンスにことさら思い出させた。宴が終われば、じきに他の面々も兵舎に戻ってくるだろう。雑魚寝にならなければいいが、ぜいたくは言っていられない。

 どれくらい眠っただろうか、キィ、と扉の開く音で目が覚めた。青白い顔をした陸軍少尉が暖炉の前に座っている。上半身を起こして寝癖のついた頭をかくアルフォンスの顔を見て、男は驚いたようだった。


「すみません。まだ宴会に出ていると思ったもんですから」

「年寄りなもんで、派手な宴会にゃ、ついてけねぇのさ」


 アルフォンスが肩をすくめて笑うと、陸軍少尉は目を伏せた。


「このところ、負けがこんでましたからね。さすがにもうすぐお開きになりそうですけど」

「……負けてたのか」

「ええ」


 陸軍少尉の隣へ行って座る。あぐらをかいたところで、暖炉の火がぱちりとはぜた。


「気持ちはわからねぇでもない。でも、もし今攻められたら……」

「大尉は負ける気でいますから」


 帝国海軍少将は、頭を殴られたような衝撃を受けた。灰色の髪の少将は眉をつりあげ、苦虫をかみつぶしたような顔をする。


「最期に暴れてやる、その気持ちは俺も同じだが、みすみす命を取らせてやるもんでもねぇだろうに」

「行き場がない、逃げたくない……ここは死に場所を求めてる連中のふきだまりですよ」

「一矢報いてやろうってヤツはいねぇのか」

「ただがむしゃらに戦ってる奴がほとんどです。これは戦うための戦いです。生死の感覚なんてとっくに麻痺してる」


 訥々と語る少尉を真っ直ぐ見つめる。雪あかりが窓から差しこんで、青白い少尉の横顔をさらに白くした。


「……やりきれねぇな」


 立ち上がって扉を開けた。吹雪が暖炉のぬくもりを一気に運び去った。大地が月の光ほど白く輝いて見える。降りつづける雪はすべてを蹂躙するべく、風に乗って大地を駆け回っている。一歩踏み出して静かに顔を上げると、雪原を駆けてくる気配に気付いた。


「どうした?」

「敵軍です!」


 その声を聞きつけた陸軍少尉が出てきて、陸軍へ知らせに走った。アルフォンスは海軍連中を叩き起こし、すぐに戦闘準備を整える。宴をつづけていた連中が酒瓶や楽器を剣や銃に持ちかえるが、足元がふらふらとおぼつかない。アルフォンスはすぐに戦える兵を集め、王国軍へ向けて進軍させた。


「長時間とは言わねぇ! 陸軍の準備が終わるまで、少しでも長くもたせろ!」


 大砲を撃つたびに身体が上下に揺さぶられる。硝煙の臭いが充満して、耳鳴りがする。どこかで悲鳴が聞こえて、血の臭いが加わった。敵が近いことを察した陸軍の兵士が、剣を抜いて雪の中を駆けていく。その後ろ姿に、アルフォンスは思わず女神の名を──ずいぶん昔に亡くなった闇の神フェシスの神官、シエラ・ユグドラシルの名をつぶやいた。

 突然、背後から衝撃が襲った。

 幾重もの層をなして積もった雪に足をとられるように、アルフォンス・クーベリックは倒れこんだ。大量に降る雪は空気をさらに凍えさせている。周囲にたちこめていた血と硝煙の臭いすら、もう届かない。耳を澄ますと遠くでいくつもの銃声や怒号が聞こえる。けれどもそれは氷の中に閉じ込められた世界のように、アルフォンスにとって遠いものでしかなかった。

 胸が熱い。見事に左胸を貫いた弾丸は、アルフォンスの背後から放たれたものだった。胸からあふれだす鮮血はアルフォンスの軍服だけでは飽き足らず、白い雪をも染め上げていく。

 耳の奥から海鳴りが聞こえる。浜辺を行き来する波の音にあわせて意識が遠のいていく。この雪の大地で海鳴りなど聞こえるはずもない。海は凍っているから、幻聴だろう。けれどもそれは氷に閉ざされた現実世界の物音よりも、アルフォンスにはずっと生々しく聞こえた。かつて海中に沈んだアルフォンスの左眼が聞く音なのかもしれなかった。


「悪く思わないでくれ。あんたのやり方に納得できないんだ」


 海鳴りに半ば消された雑音が、アルフォンスの耳に届いた。隻眼の少将は、ようやく状況を理解して嘲笑した。どうやら味方に裏切られたらしい。残り少ない味方を討つとは、徹底抗戦派が聞いて呆れる。


「生きたいと思うのなら、はじめからこんなところに来るな。こんなところで死ぬなら、プレナイト号と運命を共にすればよかったんだ」


 ギラリとした瞳に見覚えがあった。吐き捨てた男の声に反論するように、幾人もの怒声と銃声が聞こえた。アルフォンスを撃った男が雪上に倒れこむのが見えた。額に大輪の血の華を咲かせている。提督、という声が聞こえる。船を持たないのに提督と呼ばれるのは不思議な気分だ。数人の部下が叫びながら駆けてくる。一瞬がひどく長い。静止画をいくつも繋げたように見える光景に、アルフォンスは妙に感心した。

 海鳴りが一層強くなる。波が身体をなでていく感触すら感じ取れるほどだ。身体が重力からわずかに解放され、ゆっくり海中に沈んでいく。薄れてゆく意識の中、アルフォンスの脳裏に浮かんだのは戦場で散った者の姿でも故郷の街でもなく、穢土に棲む女神だった。


 ──おい、年増。俺は十分生きたよな。


 アルフォンスに生きることを説いた、破天荒なフェシスの女神官は遠い昔にこの世を去った。

 雪に埋もれた身体は不思議と冷たさを感じない。感覚が麻痺しているのだろう。海の中にいるようだ。ときおり揺らめく波が、アルフォンスの全身をなでていく。左手にわずかに感じるのは部下の涙だろうか。


 ──馬鹿野郎、泣いてる暇なんてあるか。


 その言葉がアルフォンスの唇から紡がれることはない。血のあふれ出た唇が、かすかに震えるだけだ。

 北方都市ハルシアナの冷たい空気が頬を刺す。海鳴りが強くなった。

 シエラ・ユグドラシルという年上の恋人を失ってから長い年月が過ぎたというのに、夢か現か知れぬ長い一瞬に、彼女に何度も悪態をついたような気がする。

 アルフォンスは笑った。半分雪に埋もれながら、右の拳を天に向けて突き出す。血に濡れた己の拳は、ずいぶん遠い空にまで届くように思えた。


 ──シエラ。後悔は、ねぇよ。


 力を失った右腕が雪の中に落ちた。全身赤に染まった男の顔は、笑っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。

 アルフォンスの最期を看取った兵士たちが次々と立ち上がり、片時も離さなかった銃を構えて雪原を走り出す。砲弾が頭上を飛びかう。砲弾に直撃した兵士たちが宙を舞った。戦場にいくつも、銃声と怒声と悲鳴がわきあがった。

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