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エンドロール・サガ  作者: 網笠せい
第九章 月龍哭す
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第九章 月龍哭す 第二話

 若草色のショールの似合う女は、目を覚まさぬ男の頬をそっとなでた。

 ヨシュア、ライナー、クラウス……傍らに眠る男はそのうちの誰だろう。男の寝顔をながめるうち、そんなことが気になって、エルザ・ライズランドは雨粒が雫となって葉からこぼれ落ちるように、自然とため息をついた。


 ──ヨシュアだったなら、いいのだけれど。


 エルザにとって大切なのはヨシュアである。ライナーやクラウスは、ヨシュアを塗りつぶした存在でしかない。

 クラウスの容態は思わしくない。

 暗殺未遂事件で傷ついたクラウスを、皇都ではなく学問都市イスハルへ連れてきたのはエルザだ。イスハルは学問を奨励してきた街だから、優れた学者や医者が集まっている。港町クロムフが隣にあり、珍しい薬も手に入りやすい。なにより気候が穏やかで、療養には最適だった。

 エルザはクラウスの鳶色の髪をながめながら、閉じられた彼の瞳に思いを馳せる。彼が眠りにつくたび、どうか翌朝も目を覚ましますようにと祈った。己がクラウスを撃ったにも関わらずである。水や食事を摂らせ、額に汗が浮けば拭き、消毒し、包帯を変え、うなされているようなら手を握る。そうしてエルザは、今自分にできる精一杯を毎日くりかえした。つらいと思ったことはない。クラウスを傷つけたのが己である以上、当然のことだ。

 エルザの放った銃弾はクラウスの身体をえぐった。幸いにも銃弾は急所からはずれたが、感染症を引き起こした。今も後遺症に苦しんでいるというのに、クラウスは恨み言をまったく口にせず、それどころか暗殺未遂事件自体をなかったことにした。

 もちろんエルザにも罪悪感はある。けれども同時に、二人だけの秘密となった事件が大きな枷になりうることを、エルザは懸念した。暗殺者たちは皆、亡くなった。エルザが首を傾げると、白いうなじに金色の髪が一筋落ちた。エルザはあらゆる束縛を嫌ってきたが、クラウスについては、不思議と嫌悪感はなかった。彼は自分を束縛することはないだろうという信頼があった。

 きっと、ヨシュアに逢える日が近いからだろう。

 クラウスを撃ったあのとき、エルザは大きな混乱の只中にあった。クラウスの中にヨシュア・フォルテスが存在しないかもしれないという絶望は、沼からつき出た無数の腕のようにエルザの魂をわしづかみにした。誰よりヨシュアを望んだから、エルザはスォードビッツの乱で彼を助けた。それなのに兄、ライナーの名を使ったその日から、ヨシュアは段々と塗りつぶされていってしまった。兄の癖を身につけ、兄のような言葉をしゃべり、兄の筆跡を真似る。クラウス・オッペンハイマーという名を与えられて、ヨシュアは二重に塗りつぶされた。

 そうしてエルザは、完全にヨシュアを見失ってしまった。後宮から出さえすればもう一度ヨシュアに逢えるかもしれないと耐えてきた心が、泡のようにはじけて壊れた。

 クラウスといる時間が長くなるほど、エルザはヨシュアがいないことを痛感した。鳶色の瞳の奥に隠されたヨシュアという星が燃え尽きていくような錯覚にとらわれた。

 引き金をひいたのは、クラウスが憎かったからだ。エルザの愛しいヨシュアを塗りつぶしたクラウス・オッペンハイマーが憎かった。ヨシュアとしての自分を忘れよう、消そうとしているクラウスが憎かった。

 腹を撃たれたクラウスが自嘲したとき、エルザはそこにヨシュアを見た。クラウスの内にヨシュアが残っているのであれば、不安になることはない。

 今では見つめているだけで満足だった。クラウスの内にヨシュアが存在する。小鳥に小石をぶつけて殺したヨシュアの行動をエルザは嫌うが、その一点をもってヨシュアのすべてを蛇蝎(だかつ)のごとく嫌う気にはなれなかった。

 ヨシュアの存在を手折る者がいるならば、エルザは容赦しないだろう。ヨシュアはエルザ以外の者には、決して屈してはならない。

 かすかに呼吸の音が変わったのに気付いて、エルザは男に頬を寄せた。静けさと激しさを伴う思慕は、すでに恋情とは言いがたい。傲慢で破滅的でさえあるその想いを、何と呼ぶのかエルザは知らない。

 まぶたが震え、薄く目を開けたクラウスの微笑む気配が伝わった。


「おはよう。何か飲む?」


 エルザの声に、クラウスがかすかに首を横にふる。まだ熱があるのだろう。乾いた唇のすき間から、熱い吐息がもれた。クラウスのトレードマークともいうべき銀縁眼鏡をはずした表情は最初こそ見慣れなかったが、今となってはごく自然に感じられた。


「ありがと……う」

「まだもう少し、おやすみなさい」


 かすれた声がそう告げる。エルザは桃色珊瑚のような優しい色の唇を、クラウスの額に寄せた。うっすらと汗ばんだ肌が唇に吸いつく。

 まだ、熱は下がらない。小さな弾丸は体内から摘出されても尚、クラウスの身体をむしばんでいる。

 医者によれば、助かる見込みは五分だという。彼らはもしものときに備えて悲観的なものの見方をするから、五分と言っても助かる確率の方が高いに違いない──そんなふうに感情を優先する自分に、エルザは弱々しく笑った。愚かだとわかっていても、すがらずにはいられない。それはきっと人の弱さであり、図太さだろう。


「安心して。帝国は戦況を覆せはしない。あなたは何も気にせずに、ゆっくりおやすみなさい」

「ロッ……シュ」

「あなたはずいぶんロイス・ロッシュのことを評価しているのね。彼は自分がモテると勘違いしているだけの男でしょう。自分が遊んでいるつもりで、女たちに遊ばれているだけよ。彼の相手をする女は、みんなあの顔を近くで拝みたいだけだわ。それすら見抜けない男が、一体どれほどの策士だというの」


 太陽が雲の向こうから遠慮がちに光を投げかけている。クラウスの鳶色の瞳は、それと同じく弱々しい。

 クラウスに認められたロイス・ロッシュに嫉妬している自分を、エルザは自覚している。ヨシュアと肩を並べていいのは自分だけだ。だからロッシュという存在が腹立たしい。


「あなたらしく……ない。油断しては……いけない」

「大丈夫。あなたにそこまで認められたロイス・ロッシュに妬いているだけ。先生の精神は継いでいなくとも、教えは守ります。『獣は決して手を抜かない』でしょう?」


 まだクラウスがヨシュア・フォルテスだった頃、共に学んだことをエルザは思い出す。軍人になるにしても商人になるにしても、他人の思惑を知り、策をめぐらすことは必要になる。エルザとヨシュアはそんな技術を幼い頃から叩き込まれてきた。

 幼い頃のエルザは、権謀術数を嫌った。生も死も等しく訪れるものであるのに、何故人は人を陥れてまで、あさましく生にしがみつこうとするのだろう。幼いエルザの胸の内には虚無があった。机の上でどれほど優秀な成績を出しても実践となると途端にふるわなくなるのは、そのせいだった。幼いエルザは自分に、他人を蹴落としてまで生き残るほどの価値があるようには思えなかったのである。

 捕らえた野鳥を懐かせろという課題が出たことがある。餌を与える者が多い中で、エルザは野鳥を空へと放った。人の手から餌を与えることは、野に生きる者の誇りを傷つけることだ。空を強く羽ばたく生き物を、人間の都合でどうにかするわけにはいかない。餌を与えられることに慣れた野鳥は、野に帰ることができなくなってしまう。

 師は誇りで飯が食えるものかと幼いエルザを責めた。師に学ぶ者たちは、たとえ野鳥を何羽殺しても課題を成功させろとエルザを蔑んだ。けれどもヨシュアはそれを聞いて、エルザと同じように野鳥を空に放った。


 ──エルザ、あなたは多分、僕と同じものが欠けている。僕があなたを守るから、あなたは僕を守ってください。互いのためなら、きっと僕らはなんでもできる。


 商業都市スォードビッツで神童と噂されるヨシュアが自分を選んだことに、エルザは不思議な思いがした。そうして空虚であろうとしていたのも忘れて、ただ満たされたいと願った。ヨシュアが美しい小鳥に石を投げて殺すまでは。

 十年ほど前、スォードビッツの乱で敗戦が決まる直前、ヨシュアは父を亡くした。それまで父の命令に従いつづけた少年は、迷わずエルザの元をたずねて来た。そうして手のひらに、冷たい唇を押し当てた。


 ──あなたの望むように、この反乱を終わらせます。


 帝国軍の砲撃によって崩れ落ちた街で、ヨシュアはそう笑った。

 本当にそんなことができるのだろうか。疑念を抱きながらも、エルザは信じていた。ヨシュア・フォルテスという男は、きっとエルザの言う通りの結末を用意するだろう。

 くちづけ一つで拒めなくなるなんて、自分はどれほど愚かな人間なのだろうと、エルザは初心(うぶ)だった頃の自分を思う。その瞬間から、エルザはヨシュアへの執着を深くした。まだ自覚のないまま、幼いエルザは問うた。「もしもあなたが命を落とすことを私が望んだらどうするのか」と。少年は尚も笑って答えた。


 ──あなたのために死ねるのならば、喜んで。


 同じものが欠けているというヨシュアの言葉を、幼いエルザはようやく理解した。捕虜となった彼を兄であると偽ったのは、ヨシュアを助けるためだ。

 熱にうなされた男に、エルザはゆるやかなカーブを描くスカートをふわりと揺らして、艶然と微笑んだ。


「先生の精神を受け継いでしまったら、ヨシュアにあわせる顔がないわ。ヨシュアの選んだくれた私とは別人になってしまうもの」

「あなたは……昔のままですよ。城での暗殺事件でも……あなたは僕を、助けてくれた」


 ラズラス・マーブル大佐暗殺事件の捜査で、エルザはクラウスとの密通が明るみに出ることを……ヨシュアを失うことを恐れた。己の身を投げ出して、デューン大佐に捜査の目を向けさせたのはそのためだ。自分のことは、ヨシュアがなんとかしてくれる。


「ありがとう。あなたももう休んで。帝国には書状を送ったから、心配しないでいいわ。もしかしたら、私たちが焦っていることに気付く者がいるかもしれないけれど……手は打ってある。あなたがすべて、私に任せてくれたから」

「あなたは……人として壊れていても、いつも、誰より強い」


 クラウスは切れ切れにそう告げて、ゆっくりとまばたきをする。エルザは瞳に(かげ)を作った。クラウスは買いかぶっている。エルザは決して強くなどない。弱いからこそ策をめぐらすのだ。


「駄目。私たちは、二人で一人だから」


 クラウスが目で笑ってうなずいたのを確認して、エルザは瞳の(かげ)りを消した。


「アスハトを呼んでおいたの。じきに来るはずだわ」


 クラウスの表情がわずかに神妙なものになった。鳶色の瞳に魅入られたように、エルザはそっと男の手を握る。


「帝国が今から形勢を逆転するには、あなたが邪魔でしょう? あなたは必ず狙われる」

「同じ手を……?」

「さあ、どうかしら」


 帝国がどんな手を使ってくるか、はっきりと予測することはできないけれど、ヨシュアならきっとこう言うだろう。


「でも、あらゆる手段を一考しておくものでしょう?」


 まるでヨシュアの欠片が自分の中にあるような気がして、エルザはこれまでにない安らかな気持ちになった。

 アスハト教徒は王国軍の半数を占めている。彼らは国王の兵ではなく、現人神アスハトの兵だ。敵にそそのかされて寝返ることも十分に考えられる。もしもそんなことがあれば、王国は一気に形勢を逆転されてしまうだろう。

 早いわけでも遅いわけでもない、一定のリズムを刻まない足音がホールに響いているのに気付いて、エルザは顔を上げる。


「来たようね」


 エルザは額にかかった蜂蜜色の髪を退ける。空色の瞳が悲しげに細められると、途端に頼りない印象が加わった。次第に涙がにじむ。侍従が来客を伴って扉を開けたとき、エルザに今までの様子は欠片もなかった。


「エルザ様、お呼びですか」


 現れたアスハトに、エルザはいきなりすがりついた。下手な嘘でも、アスハトは見抜くことができない。ペテン師は自分が騙されるとは思っていないものだ。エルザは声をふるわせ、目に涙をためて訴える。


「あなたにお願いがあるのです。あなたの祈りでクラウスを救ってください」


 エルザが両手で口元を抑えると、自然に胸の谷間が強調された。かつて皇帝の寵愛を受けた女性にこうまでされては、アスハトも断れるはずがない。簡単にうなずいて、クラウスのベッドへと近付いた。


「ご病気ですかな」


 以前と比べるとかなりふっくらした教祖は、身体を大きく左右にゆすって、ベッドの傍に備え付けられている椅子に落ち着いた。

 エルザは内心で「とんだ茶番ね。化かし合いだわ」と呆れた。己の信徒がクラウスを襲撃したことを、知らぬはずなどないだろうに。

 これが先代皇帝第一夫人、マリー・ライズランドであったなら、爪でも噛んだに違いない。けれどもエルザは、作り上げた表情を少しも崩さなかった。


「いいえ。先だって、暗殺未遂事件があったのです。本人が公表するなと言うものですから、他の方に相談するわけにもいかず……」


 言葉をにごらせて、声を震わせる。空色の瞳からあふれんばかりの涙は、誰が見ても本物に見えるだろう。


「あなただけが、頼りなのです」


 とどめの一言だった。

 エルザは帝国にとっては先代皇帝第二夫人であり、王国にとっては宰相クラウスと縁の深い女性である。アスハトが帝国に加担するとしても、王国に留まりつづけるにしても、悪い顔はするまい。

 ましてやクラウスはメイジス神の神官である。それを救って恩に着せる機会を、アスハトは見逃さないだろう。

 アスハトは一瞬動きを止めて目をみはると、我に返ったように首を左右にふった。


「微力ではありますが、私にできることならば協力いたしましょう」


 その言葉を受けて、か弱いはずの女はあくまで安心したというように、涙をぬぐう。美しい花に棘があるように、あでやかな模様の蛇に毒があるように、エルザの内には狂気がある。それを知る者は決して多くない。毒が効きはじめるのはここからだ。


「よかった……安心しました。それではユグドラシル地方に行ってはいただけませんか」

「ユグドラシルに? なぜ?」

「ユグドラシルには古代遺跡があると聞きます。あの街ならば、あなたの祈りの力も強くなるに違いありません」


 エルザ本人は、決してそのような戯言を信じてはいない。しかし巷で行われている神学者の主張は、後宮で飽きるほど聞かされた。

 闇の神の都市、ユグドラシル。穀倉地帯のこの街にはあちこちに古代遺跡が存在しており、神学や考古学も盛んである。


「なるほど……」

「外に案内の者を待たせております。どうか、クラウスを救ってやってください」

「かしこまりました。エルザ様のご依頼とあらば」


 館の外には、ユージス・ユグドラシルを待たせてある。ユグドラシル地方にいるフェシスの神官、ユーミリア・ユグドラシルの兄、そして弟には及ばないまでも凄腕の剣の使い手。彼が王国派につきたいと申し出てきたのは、皇都を接収したときのことだった。クラウスは判断を保留して、ユーミリアの兄に後方支援を担当させていたが、今が使いどきだとエルザは判断した。


 ──王国につくのであれば、政敵の暗殺を。


 アスハトがあごに手を当てながら、思案する様子でクラウスを見た。クラウスの鳶色の瞳は閉じられたままで、ときおり苦しそうに息がもれるだけだ。


「クラウスにもしものことがあれば王国は瓦解し、今より大きな混乱がこの国に訪れるでしょう。どうか、よろしくお願いいたします」


 エルザは不安げに眉を寄せ、アスハトから視線を逸らして再び目に涙をためた。先代皇帝の寵愛を受けたほどの美女の涙に、アスハトはうろたえる。

 素人のアスハトに、クラウスの容態などわかるはずもない。医者ではないのだから、治せるはずもない。

 エルザは己の立てた計画通りにアスハトを誘導する。先代皇帝第二夫人を労わることで優越感に浸っているアスハトに、エルザは何度も頭を下げた。商家の出身だけあって、頭を下げることは苦ではない。頭を下げたまま唇をなめることにも抵抗はない。

 アスハトが現人神であると言うのであれば、その存在は国王よりも上ということになってしまう。アスハト教を王国の国教にするわけにはいかない。後の世の争いの種になるのは明白だ。王国の維持に腐心するクラウスならば、見逃すはずがないとエルザは考える。


 ──本物の神様にしてあげる。


「信徒の方々には今回のこと、どうかご内密に。クラウスが公表しないことを望んだのです。私が勝手なことをするわけには参りません」


 戦場に出ないアスハトを戦死させることは難しいが、それならば暗殺させればいい。最初にクラウスを暗殺しようとしたのはアスハトだ。

 王国派についたユグドラシル一族に信用が置けるかを試す絶好の機会でもある。闇の神フェシスの神官である彼らが、アスハト教を苦々しく思っていないわけがない。

 もし暗殺が露見したとしても、罪はユグドラシル一族が背負うことになるし、ユグドラシル一族は王国派にも帝国派にもいるから、どちらの差金であるかわかりづらい。

 教祖であるアスハトが死んでしまえば、アスハト教徒たちは烏合の衆と化すだろう。熱心な信者は残るだろうが、死者となったアスハトを国葬で丁重に弔えばある程度は納得するだろうとエルザは考える。

 エルザはクラウスに視線を送る。男は鳶色の瞳を開かぬまま、唇だけでわずかに微笑んでいた。


「わかっています。この戦いの勝利と、王国の平和な未来のために祈りを捧げるとでも、言っておきましょう」

「あなたがお話をわかってくださる方でよかった」


 愚かなペテン師が胸をはるのを、エルザは涙をぬぐいながらながめた。

 毒婦は愛する男が鳶色の瞳を開けるのを、ただ静かに望んでいる。これまでも、そしてこれからも、ただ失ったヨシュアと再びあることだけを。

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