第八章 冥龍吠ゆ 第十話
月光を受けて銀色にきらめく道なき道が、ユーミリア・ユグドラシルの前に広がっていた。樹氷を花のように咲かせた木々が風に揺れて、枝に乗った雪の塊を落とす。ユーミリアは浅い呼吸をくりかえして、雪原を進んだ。木々は夜を吸いこんでますます黒く、月はときおり氷の粒を青く光らせた。
透き通るように全てを染める月光に、ユーミリアは深く安堵した。
──アリアが生きていた。
その事実は自然と重くなるユーミリアの足を、かろうじて前に進めさせていた。アリアが生きてくれていたことが、ただうれしい。それと同時に喪失感がある。
残党狩りにあって死んだと聞かされたとき、深い絶望で心が占められた。半狂乱で敵を斬った感触が、まだユーミリアの手の中には残っている。アリアを殺した王国軍兵士を残らず斬り捨てるつもりでいた。帝国のために、ロイス・ロッシュの副官という職務を全うするために戦っていたはずなのに、いつの間にかアリアの弔いのために戦っていた。
職務は自ら放棄した。愛する人は去っていった。気がつけば、己の手の内から全てが失われている。
「戦う意味なんて、そもそもなかったのかもしれない」
小さくつぶやいた言葉は積もった雪に染み込んで、ユーミリアの心をますます空虚にした。アリアという存在が隣にいなくなった今、どんな感情も静かに通り過ぎていくようだ。長く連れ添った恋人が生きていたという喜びと同時に、彼女を失ったという寂しさがあった。
──皇都を発つとき、他の男と幸せにと言ったのは自分だ。
この戦争に身を投じたとき、アリアにそう告げた。いつ帰れるかわからない、戻れるかもわからない、死んでしまうかもしれない。それでもアリアに待っていて欲しいというのは、あまりにも酷だ。だから他の男と幸せになれと言った。アリアはその言葉通りにしただけだ。寂しさや喪失感を自分がもつのは身勝手だと、ユーミリアは自嘲することさえできずに空を見上げた。
アリアが渡してくれた一対の剣のうちの一本は、まだユーミリアの元にある。もう一本はアリアが持っている。皇都を出立したとき、その一対の剣がまたいつかそろう日が来ればいいと思った。アリアが死んだと聞かされて、二度とそんな日が来ないと絶望した。アリアが生きていたことはうれしい。けれどもアリアの持っていた剣は、折れた。
アリアは待っていてくれると、心のどこかで思っていた。それはユーミリアの甘えなのだろう。彼女の幸せを思うなら、自分を待たない方がいいのはわかりきっている。
アリアは危険を承知で、ラグラスのためにユーミリアの剣を受けた。焦げ茶の長い髪がふわりと弧を描く。力一杯剣を握りしめて、凛と前を見据えた表情が思い出された。
長い間共に暮らしてきたけれど、はじめて見る顔だった。決意を秘めた表情は、幼い頃に経典で見たフェシス神を思い起こさせた。
ユーミリアの右手首が、じくじくと熱を放つ。無理に剣の軌道を止めたせいで、ひねったらしい。それでも手首の痛みなど、アリアを傷つけるよりはずっとましだ。
──幸せになってくれればいい。
アリアの持っていた銀色の剣が折れて飛んだ瞬間、ラグラス・マーブルは剣を捨ててアリアをかばった。
それを見たとき、ユーミリアは気付いてしまった。たとえ自分がラグラスに追い詰められ、アリアにかばわれるようなことがあったとしても、自分は剣を捨てないということに。
ユーミリアは自分のしたいことをしてきた。それは主に軍人としての仕事ではあったけれど、アリアはそれを黙って見守ってくれた。彼女は何も言わずに、ただ受け入れた。きっと本当は、望みがあったのに違いない。どうしてそれを察してやれなかったのだろう。故郷を出てから主従になってしまった関係を、ユーミリアは理解していなかった。
アリアはいつでもユーミリアのことを察してくれた。ロイと共に皇都を発つと決めたときも、理由を求められるようなことはなかった。アリアは主従関係を崩すことは決してなく、ユーミリアが口にしなくてもわかってくれた。失った今になってようやく、アリアの想いの深さをユーミリアは理解した。
ラグラス・マーブルならば、アリアを幸せにしてくれるだろう。剣を捨ててアリアをかばったラグラスを見て、ユーミリアはそう直感した。きっとアリアの気持ちを汲んで、大切にしてくれる。
アリアとの日々が、自分の中から消えることはないけれど──。
ユーミリアは顔を上げる。これは自分のことばかり優先してきた罰なのだろう。アリアを忘れることなどできはしない。彼女はただ一人の、大切な人だ。けれどもその隣にいるのは、自分ではない。
彼女が生きていて、どこかで幸せに暮らしてくれればいい。今の自分がそれ以上を望むことは許されない。アリアはラグラスを選んだのだから。
月のやさしい光の中で、雪が踊っている。
帝国はどうなるのだろう。戦況は芳しくなく、もはや敗戦が決まったも同然だ。今さら自分一人が戻ったところで選局が変わるとも思えない。
それでも心のどこかで、ロイなら今の事態をなんとかするかもしれないと思っている。
ロイのところへ戻らなければ。アルベルティーヌ・へーゼルと出会ってから、ロイは一時期より、厳しい顔をすることが少なくなった。胃潰瘍も小康状態にあるようだ。
前髪に絡んだ雪を払って、ユーミリアは歩を進めた。森に向かったときの足跡が、まだ残っている。ざく、と音をたてて、不格好に盛りあがった雪を踏みつけた。
「ユーミリア様!」
遠い場所から最愛の人の声が聞こえた気がして、ユーミリアは薄く笑う。未練がましい。雪原をゆく足取りは重い。護衛を待機させた場所までこれほど遠いとは、来たときには思いもしなかった。
「ユーミリア!」
今度は幾分かはっきり聞こえた。涙まじりの声だ。もしかしたら、という思いがユーミリアの内に生まれる。けれども振り返ることはできない。振り返ってしまったら、動けなくなる。アリアの想いに関係なく、ずっとそばにいて欲しいと告げてしまう。
「ユーミル!」
自分を呼ぶ懐かしい声がした次の瞬間、背中にぬくもりが伝わって、やさしい香りが漂う。ユーミリアは足を止める。目の前に、故郷の稲穂の群れが広がったかのような錯覚に陥った。それでも尚、ユーミリアは振り返らない。
「アリア……長い間、本当にありがとう」
ユーミリアのコートに包まれた背中におずおずと触れる指は、幻ではない。
「今まで君の人生を縛ってきたこと、謝らなきゃいけない。やっとわかったんだ。ごめん。主従になんか、ならなきゃよかった。主従なんだから、主人である俺の側からそれを崩さなきゃいけなかった」
アリアの指が強くコートをにぎりしめる様子が伝わってくる。
「皇都を出るときに別れは済ませたんだ。俺が、他の男と幸せになれと言った。だから気にしないでいい。アリアが幸せになってくれたら、それでいい」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、強く強く抱きしめられる。ユーミリアの胸元に伸びた指先が赤く凍えているのが見えた。
──この手を温めるのは、自分ではない。
思わずアリアの手を取りそうになるのを堪えて、ユーミリアは別れの言葉を告げた。
「……元気で」
「ばか……! 私のこと、何も知らないくせに! どれだけずるい女かなんて、ちっとも知らないくせに……」
涙にふるえるアリアの声をふりきって、ユーミリアはそっと前に進む。
アリアの腕の力がますます強くなる。腕が絡みついて、身動きがとれない。
「アリア、離して」
離してくれるように促すが、返ってきたのは肩口でふるえるアリアの呼気だけだった。
「……ラグラス・マーブルのところに戻れ。きっと俺より幸せにしてくれるから」
「私の幸せを、あなたが勝手に決めないで」
想いがあふれて止まらなくなる。ユーミリアは雪を踏みしめて踵を返した。アリアの泣き顔が一瞬だけ見えた。気付けばアリアを強く抱きしめていた。
たった今腕の中にあるぬくもりを、長い間探していたような気がする。寒さと涙のせいでアリアが小さくふるえた。
前に言ったのは何年前だか思い出せないけれど、好きだと言おう。
唇を開く。彼女の名前を呼ぶ。自分を見上げたアリアの瞳が、涙で濡れているのが見える。どれだけつらい思いをさせて、悲しませたかわからない。どれだけ泣かせたかわからない。でも、これからは──。
アリアのまつげに残る涙をぬぐい、はにかみながら言葉をつむぐ。
けれどもその言葉は、一言も発せられることなく銃声にかき消された。
アリアを突き飛ばして、銃声の聞こえた方へ身体を向ける。左足に激痛が走って、血が噴きだした。熱い。
「ユーミリア!」
「こんな場所に護衛もつけずにいるとは」
「アリアは森に。できるだけ伏せて。すぐ片付ける」
悲痛なアリアの声に背を向けたまま、ユーミリアは数々の血を吸った銀色の剣を抜いた。流れ弾がアリアに当たらないように距離をとりながら、状況を判断する。王国兵が五人……血に濡れている奴がいるから戦闘後だろう。分隊だ。小隊でないのが救いだった。距離はそれほど離れていない。銃の残り弾数が少ないのか、接近戦を狙っている。敵が剣を抜いた。
「剣鬼と名高いユグドラシル大尉だ。手負いでも油断するなよ」
ユーミリアが動くたびに、大腿に激痛が走る。アリアが森に転がりこんだのを確かめながら、ユーミリアはこれ以上出血がひどくならないよう、ベルトを右足にきつく巻きつけた。おそらく護衛が銃声を聞いて駆けつけるだろう。王国兵を全て斬るか、護衛が到着するか……それまで倒れるわけにはいかない。敵の銃が構えられると同時に雪の中に伏せた。
「いくら相手が凄腕でも、この雪とあの怪我じゃ、まともに動けやしませんよ」
敵の位置を確かめようと顔を上げると、銃弾がユーミリアの頭上をかすめた。伏せて、声であたりをつける。
「とっとと大尉の首をとって、そこの女、もらっちまいましょうよ」
「おいおい、民間人に手を出すとデューン将軍にお叱りをうけるぞ」
「用が済んだら殺して埋めればいいんですよ。この雪だ。深く埋めときゃ誰も気付かない」
王国兵の下品な笑い声に、ユーミリアの身体中の血が一気に沸きたつ。血のたぎりに逆らえず、跳ね起きて前進する。月は雲に隠れ、世界が闇に侵される。小降りの雪がちらつくが、ユーミリアの視界には入らない。ただ敵しか見えていない。
味方を斬る心配もないと、暗闇の中で力一杯ふりおろした銀色の剣が、王国兵の顔面にめりこんだ。同時に至近距離から銃声が聞こえて、身をよじる。熱い鉄の塊が、左腕を貫通していく。
ユーミリアは視界の端で先ほど斬った男が事切れているのを確認すると、銃兵めがけて走った。雪に足をとられる。右足の傷が痛むのを奥歯を噛みしめて堪え、王国兵に飛びかかる。銃兵をやられてはたまらぬと焦ったのか、後ろから剣を構えた兵が突撃してくる。
雪で速度が削がれたユーミリアに、銃兵は容赦なく鉛の弾を叩きこんだ。左足を焼く熱に気付きながら、銃兵を叩き斬る。即座に身体をひねって、突撃してきた男の胴を薙ぎ払った。
三人斬ったところで、ユーミリアは雪の上に膝をついた。両足と左腕を撃ち抜かれては、さすがのユーミリアでも、まともに動くことはできなかった。
あと二人。
ユーミリアは動く右手で剣を握りしめたまま、いつでも前方に跳べるように身構えた。視界がぼんやりとして、ぐらりと身体が傾いだ。姿勢を保てない。
「ずいぶん斬ってくれたな、楽には死なせてやるものか」
ユーミリアは自分の周りの雪が赤いことに気付いた。血だ。自分のものだろう。
「おい、見つけたぞ!」
「来ないで!」
アリアの声だ。回り込んだ王国兵に追い詰められて、森から出てこざるを得なかったようだ。荒くなる呼吸の中で、ユーミリアはまばたきをくりかえす。目の前のアリアが自分をかばっていることを知って、目を凝らす。
「いやだ……死なないで」
懐かしい穏やかな香りは、血の臭いにまぎれてわからない。けれどもその涙声は、ユーミリアを突き動かした。敵を探す。怯えるアリアの背に、今にも王国兵が覆いかぶさろうとしている。ユーミリアは右手の剣を握り直して、突き込んだ。指の先まで血がまわっていないのか、感覚が麻痺しかかっている。悲鳴をあげて王国兵が倒れる。あと一人。
「ふざけるなよ!」
王国兵がアリアを突き飛ばすと、毛皮のコートのポケットから金色のエンブレムが転がり落ちた。
「このエンブレム、マーブル家の……? お前、マーブル家に所縁のある者か。大人しそうな面してる癖に、大したタマじゃないか! 王国軍と帝国軍、どちらの将校も誑かしたのか!」
ユーミリアの意識が遠のいていく。王国兵の言葉は、すでにユーミリアには届いていない。普段のユーミリアなら怒っていただろう。剣を握りしめた指がこわばっている。その手が、そっとやわらかい手に包まれた。目を凝らす。アリアと目が合う。うなずいた彼女の言わんとすることを察して、ユーミリアは剣から手を離した。
「スパイ行為でもしてたんじゃないだろうな!」
ユーミリアの剣を手に取って、振り向きざまにアリアが斬りつける。反撃はないと油断していた王国兵の叫びが、雪原にこだました。まだ敵の傷は浅い。剣を持つ手が震えて、かたかたと小さく鳴っている。アリアは一つ息をつくと、腰を抜かしている王国兵に追撃をしかけた。返り血がアリアに飛んだ。
最後の一人が事切れたのを確認したアリアが、ユーミリアの元に戻ってくる。ユーミリアのまぶたが自然と沈んでいく。抗うことのできない眠りに身を任せて、ユーミリアは瞳を閉じた。アリアが自分を呼ぶ声がする。
どれほど眠ったのかわからない。名前を呼ばれている。わかっているのに、まぶたが開かない。
これで自分の命は終わるのかもしれない、とユーミリアは思う。戦場を駆け抜け、各地で転戦し、何十人と斬ってきたというのに、たった五人を相手に相打ちにもちこむのが精々だった。最後の一人はアリアがいなければ倒せなかった。どれほど鍛錬を積んで剣の腕を磨いても、銃には勝てないということか。荒い呼吸の中で、無様だな、とため息をつく。
唯一誇れることといえば、アリアを守れたことだ。
身体が浮遊するような心地がする。冷たかったはずの雪を、なんとも思わなくなってきている。
くりかえし、名前を呼ばれている。嗚咽のまじったアリアの声に、また泣かせてしまったとユーミリアは胸の内で後悔する。身体が大きく左右に揺らぐのは、貧血のせいだろうか。
──違う。
つま先が地面に触れているのに気付いた。背負われている。薄く目を開けると、雪原を進んでいた。先ほどの銃声で異変に気付いた護衛が助けに来たのだろうか。目を凝らす。アリアだった。護衛は先ほどの分隊に倒されてしまったのだろう。
帝国軍の本営はそう遠くない。場所を知らせようと指を動かすとアリアはゆっくりとうなずき、ユーミリアの指し示す方角を目指した。
白い雪の上に、小さな赤い花が咲いている。血だ。アリアの止血のおかげで、出血は減っているようだった。
「ユグドラシルへ帰ろう」
アリアの唐突な言葉に、ユーミリアは面食らった。
故郷のユグドラシルに帰れるわけがない。帝国軍は負けるだろう。ユーミリアが故郷に帰ってしまったら、なんのために兄が王国の味方をしたのか、わからなくなってしまう。一族の血を絶やさぬため、敵味方に分かれて兄弟でさえ戦ってきたユグドラシル一族の掟に反する行為だ。
「私と一緒に、帰ろう」
敵味方に分かれて時の権力者に取り入り、一族の血を細くても絶やさぬようにしなければならない。光というのは、ときに傍若無人だ。だから闇の神フェシスに仕える神官はどんな手を使っても生きながらえて、光の神メイジスを牽制する存在でなくてはならない。それがユグドラシルに伝わる、古くからの決まりごとだ。
兄、ユージスは王国につき、弟であるユーミリアは帝国についた。勝った方が故郷に戻る。負ければ二度と、故郷の土を踏むことは許されない。
それでもユーミリアの脳裏に蘇るのは、金色の稲穂が頭を垂れる、故郷の景色だった。
「ね、ユーミル……」
──これは、夢だろうか。
アリアにユーミルと呼ばれていることに、ユーミリアは驚いた。もう十年もそう呼んではくれなかったというのに。
頬をかすめていく雪まじりの風が冷たい。
そう感じることができるのは、アリアがユーミリアを背負ってくれているからだ。両腕をつかむアリアの指先から、背中から、触れた場所のすべてから伝わる温もりが、伝わってくるような気がする。
──夢じゃない。
ユーミリアは朦朧とした意識の中でそう確信した。
そうして同時に、死へと向かいつつある自分を意識した。
最期にせめて、アリアに好きだと伝えなくてはならない、とユーミリアは呼吸を整える。
「ア……リア……言わなきゃ、いけな……こと……が」
かすれたうめき声がユーミリアの口からもれる。アリアは首を横にふると、「いいの」と返した。
「何年一緒にいると思ってるの? 言わなくても、あなたの気持ちはわかるから」
その口ぶりは、皇都に住むユーミリアのメイドではなく、ユグドラシルにいた幼馴染のものだった。
「最期の言葉なんて、考えないで。無理してしゃべらなくていい」
アリアが鼻をすすりあげる様子が肩ごしに伝わってくる。涙声のまま、アリアは無理に明るい声を作って告げた。
「元気になってから、聞かせて」
まつげに乗った雪か涙か、はたまた朦朧とした意識のせいか……ユーミリアの目に、遠くにかすむ帝国軍の本営が見えた。
第八章 冥龍吠ゆ・了
第九章 月龍哭す へつづく




