第八章 冥龍吠ゆ 第九話
冬の北方都市ハルシアナに逃げこんだ帝国軍だが、王国は追撃の手を休めなかった。積もった雪を踏みしめて進む馬上で、アリア・ブランフォードは自分のすぐそばにあるぬくもりを見上げた。毛皮のフードが頬に触れてくすぐったい。
ラグラス・マーブルは背筋を伸ばして馬の手綱をとっている。自分に触れないよう、必要以上に緊張している様子が伝わってくる。アリアがくすりと笑った瞬間、ラグラスの眉間に三本じわが寄った。
「ラグラス、私が無理を言って連れてきてもらったのだから、気を使わないで」
アリアの直したコートを着たラグラスは、吹雪というには穏やかな雪を払って、仏頂面のまま、低くつぶやいた。
「別に気を使ってるわけじゃあない」
「いいご身分だな、マーブル大佐」
背後から飛んだ女将軍の冷やかしの声に、ラグラスは余計に眉間のしわを深くした。
「女連れだと笑うか? お前が言えることではないだろう」
ハレイシア・デューンの肩で、淡い金色の髪が揺れた。故郷へ戻ってきたためか、慕う男のいる場所へやってきたからなのかはわからないが、表情が活き活きしている。
「私は女性である前に軍人だ。戦場に恋人を連れてくるのとは訳が違う」
ハレイシアは槍を誇らしげに見せる。彼女が帝国にいた頃、辺境警備から戦功によって出世したというのも、あながち嘘ではないらしい。ここ数日、雪原での戦闘で見事な戦いぶりを見せていた。
「彼女が恋人に見えるのか」
不機嫌の極みといった様子のラグラスに、ハレイシアは薄く笑う。
「お前が違うと言うなら、そうなんだろう。だが口さがない兵は宰相殿につづいて大佐まで、と噂している」
アリアは小さくうつむいて、銀色の剣をにぎりしめた。ユーミリアに渡したものと対で作られたお守りの剣。王国兵に襲われて以来──ラグラスに会って以来、アリアは剣を抜いていない。
戦えないわけではない。けれども自分では足手まといにしかならないということを、アリアはよく知っていた。せめて何か役に立ちたくて傷病兵の手当てを手伝ってはいるが、一般兵よりもずっと優遇されているのだ。納得する兵などいない。
──ラグラスに肩身のせまい思いをさせたくないのに。
「ごめんなさい……」
「お前が謝ることはない」
ラグラスはあっさりとそう言うと、ハレイシア・デューンに向けて意地の悪い笑みを浮かべた。
「軍人はいいな。戦場で敵の指揮官と逢引きしても、文句が出ない」
ラグラスの辛辣な言葉には慣れたとばかりに、ハレイシアは目を細くした。
「ああ。かわりと言ってはなんだが、この手で仕留めてみせる」
薄い青の瞳が冷たく冴えわたる。武人というものはこういうものかとアリアは小さく目を伏せる。ユーミリアやラグラスも、戦場では変わるのだろうか。待つ身であるアリアには想像もつかない。
「終わった後で苦しむのはお前だ。デューン少将を演じるのは、ほどほどにしておけ」
ラグラスの言葉を受けて、アリアはハレイシアの青い瞳の奥に、巧妙に隠された悲しみがあるのを見つけた。ラグラスが言わなければ、見つけることさえできなかっただろう。
自分を軍人という型にはめ、揺るがぬように固定する。その裏側で、心はきしみを上げるのに違いない。
「ほどほどね。冬にハルシアナを攻める宰相殿に、ぜひとも聞かせたい言葉だな」
視界を舞う雪をものともせず、ハレイシアは槍を構えた。
雪化粧をした山の端から煙が上がって、白く曇った空に溶けていた。戦いはずっとつづいている。大砲が次々と火を吹いて、戦場の空気を大きく揺らした。
「同感だ。宰相殿は現場の苦労をわかってくれん。敵もまさか攻めてくるとは思っていないだろうから、そこが狙い目なんだろうが」
遠くで人間が宙に舞っているのが見えた。王国兵なのか、帝国兵なのかはわからない。アリアは自分のコートの端をつかんで、小さく身体を震わせる。ラグラスは戦況に集中していて気づかない。
──もしあれがユーミリアだったら。
悲しみが身体の隅々まで広がって、瞳が潤んだ。とても見ていられない。大砲の弾が発射されるたび、遠くから叫びが聞こえるたび、胸に針が刺さるようだ。不安で不安でたまらない。すぐそばにあったはずの日常が壊れていくのを感じて、アリアは唇をかんだ。
「ラグラス、その人に戦場は酷だ」
ハレイシアの声でようやく気づいたラグラスが、アリアに気遣わしげな視線を送る。アリアは首を左右にふった。ユーミリアがこの戦場のどこかにいる。帰るわけにはいかない。
「……だそうだ」
「言うまでもないことだが……軍の中に一人で放り出すような真似はするなよ」
「ほう、デューン閣下はご自分の兵を信用されていないと」
こんなやりとりをしている間にも、前線では人が吹きとばされている。砲弾が雪をえぐり、人と共に白い欠片が宙に舞う。アリアは前線で吹きとばされた雪が、自分のところにまで飛んでくるように感じられた。頭から冷や水を浴びせられるようだ。
「ああ、素行の悪いのがちらほらいる。酷い目に遭わないよう、お前が目を光らせておかないと……」
「大丈夫だ。常に目の届く場所に置いている」
「やはり、惚れているんじゃないか」
ラグラスの頬がわずかに引きつった。平静を装おうとしているが、内心の動揺が見てとれる。アリアは気恥ずかしくなって、今すぐ馬から下りたくなった。馬が前へと進んでいなければ、きっとすぐにでも下りただろう。
「戦乙女のデューン少将に、少しの間、指揮をお願いしたい」
「昨日の手紙のことか?」
「ああ」
アリアは初めて聞いた言葉に顔を上げたが、問いに答えたのはラグラスではなくハレイシアだった。
「『ユグドラシル大尉に託したき宝あり。貴君の命を懸けるに足る宝であると存ずる。日暮れに東、針葉樹の森の入り口にて待つ』だったか」
ラグラスは馬の腹を蹴って、わずかに速度を上げた。仏頂面にはますます磨きがかかっている。
託したき宝──命を懸けるに足る宝。
それが自分のことだと知って、アリアは暗澹たる思いに駆られた。自分が宝であるはずがない。ラグラスに身の安全を保証してもらい、住む場所や食事や、心安らぐ時間まで与えられて──それでも自分はユーミリアに会おうとしている。その事実は、どれだけラグラスを傷つけていることだろう。
『マーブル大佐を利用するということかしら』
かつてエルザにささやかれた言葉がアリアの脳裏に蘇った。その通りだ。
アリアは小さく神に祈る。故郷の民が崇める、フェシス神に許しを乞う。こうして戦場に出るだけでも相当な負担があるにちがいないのに、自分は何一つラグラスの助けになることができない。ラグラスに無理をさせてばかりだ。どうあがいても止まらない自分の心が呪わしかった。
「内容まで話すことはないだろう」
ラグラスのつぶやきを聞き逃さずに、ハレイシアが笑った。
「任されてやる。行ってこい」
槍の穂先を覆っていた布をはぎとりながらそう言ったハレイシアに「頼む」と言い残して、ラグラスは馬の速度をあげた。
分厚い雲に覆われた空は、太陽の光を届けない。薄暗さが日暮れの近いことを知らせている。馬が進むたびに足元の雪が小さく舞いあがった。
「アリア。お前にこれをやる」
ラグラスに金色のエンブレムを手渡された。鷹が彫りこんである。前を見据える鋭い目をした鷹は、何かを守るように大きく両翼を広げている。
「ラグラス……」
マーブル家の紋章の刻まれたものなど、受け取ることはできない。アリアは言葉を詰まらせる。ラグラスをこれ以上悲しませるような真似は、したくなかった。
「勘違いするな。これを持っていれば、少なくとも王国軍は敵にまわさずに済む。捕まったときに見せろ」
ためらうアリアのてのひらに、ラグラスは無理にエンブレムを押しつける。
「お前が死ぬところなんて、見たくない」
残されたぬくもりは、手のひらに乗った雪のようにすぐに消えてしまう。アリアはそのぬくもりが逃げぬよう、エンブレムをにぎりしめた。左手に銀色の剣が、右手には金の紋章がそれぞれある。
──引き裂かれる。
ぎゅっと目を閉じた。剣と紋章、帝国と王国、ユーミリアとラグラス……選べるはずがない。天秤にかけて選ぶことなど、できるはずがない。
アリアは今まで、自分が何一つ選ばずに来たことを悟った。故郷を出るとき、ユーミリアに一緒についてきて欲しいと乞われて従った。ユーミリアに別れを告げられたときもそうだ。彼が戻ってきたらいつでも元の生活に戻れるようにと、家に残ることを望んだ。そのくせ、王国兵に襲われたことを思い出すのが嫌で、ラグラスの言うままに、マーブル家で世話になった。
ラグラスを拒んだのだって、はっきりどちらかを選びたくなかったからだ──。
大砲の音がこだまして、鼓膜を揺るがした。
このまま選ばずにいれば、帝国が滅びて二度とユーミリアに会えなくなるかもしれない。ラグラスにしても、戦死しないとは限らない。いくら王国軍が優勢であっても、ここは戦場だ。絶対などない。
アリアが唇を噛んだ瞬間、馬が止まった。反射的に顔を上げる。雪原に垂直に立つ木々の群れがあった。針のように尖った細い葉は雪粒にびっしりと覆われ、ときおり風に揺られてしなる。そのたびに、雪原にできた影も揺れた。
その中に一つ、動かない影がある。森の暗さに飲みこまれそうな黒髪の男──。その姿を認めた瞬間、アリアは全てを忘れて息を飲んだ。
帝国陸軍大尉、ユーミリア・ユグドラシル。まぎれもない、その人だった。
「一人で来たのか」
「いえ、奥に兵を待機させています。俺に妙な真似をすれば帝国軍が駆けつける。もちろん味方が来るまでに、俺も貴方の首を狙います」
「大した自信だ。剣鬼と悪名高いだけあるな」
久々に見るユーミリアは、アリアの記憶にある彼とは大きく違っていた。紛れもない殺気、暗い瞳、コートにこびりついた血の跡、白い肌に残る煤と返り血……。そのどれもが、アリアの知らないものだった。
「……ユーミリア様」
悲痛な声が、自然と口から出た。ユーミルと呼びたいのを堪えて、何度その名で彼を呼んだだろう。けれども目の前の男を、その名で呼ぶことはできない。アリアの知るユーミリアとは、あまりに違いすぎる。
「アリア……?」
黒髪の大尉がわずかに目を瞠った。アリアはフードを外して、外界に姿を晒す。
「どうだ、命を懸けるに足る宝だっただろう」
ユーミリアが木々の影から出て、ゆっくりと近付いてくる。
「アリアなのか? 本当に?」
ただ名前を呼ばれただけなのに、まるで身体が動かない。別人に思えるほど、ユーミリアは様変わりをしているのに、心が震えてしまう。涙が頬にこぼれ落ちそうになるのを、ハルシアナの冬の冷たさがかろうじて留めた。
あと、少し──。
アリアが馬から下りて前に進もうとした瞬間、後ろで鋭い金属音がした。瞬時にユーミリアの表情が険しくなる。ふりむくと、ラグラスが剣を抜いていた。
「アリア、危ないっ」
ユーミリアに押しのけられるが、アリアの内にラグラスを疑う気持ちは欠片もなかった。雪に足をとられながら見たラグラスの瞳は、まっすぐにユーミリアだけを見ている。空気に殺気が満ちていくのがわかった。
「ユーミリア・ユグドラシル。お前が彼女を託すに足る人間か、試させてもらう」
「アリアを助けてくれたことについては礼を言います。でも……」
ユーミリアが黙って剣を抜く。
「やめて……!」
声をあげても、二人はにらみ合いをやめない。鋭い殺気をぶつけあっている。己の無力さを痛感するアリアをよそに、二人は剣を構えた。ラグラスが頭上に構えた剣をふりおろす。
「でも、アリアは物じゃない!」
ユーミリアはラグラスの剣をかわして、脇から斬りつける。突き上げたラグラスの剣が、ユーミリアの銀色の剣をはばんだ。最大の武器である速さを足元の雪で削がれたユーミリアは、ラグラスと互角に見えた。
コートの裾が二人の動きについていけずに乱れている。ユーミリアの言葉に、ラグラスが不敵に笑ってみせた。
「当然だ。しかしすんなり渡したのでは、俺の気が済まない」
ずきんとアリアの胸が痛くなる。アリアはラグラスの横顔を見た。青灰色の瞳はどこまでも涼やかだ。
自分の心を押し殺して、私をユーミリアに会わせてくれた──なんて不器用な人なのだろう。
右手に残る紋章を見ていられなくなって、コートのポケットにしまった。ポケットに手をいれたまま、にぎりしめる。すっかり冷たくなった紋章を指でなぞると、表面の凹凸が指先に伝わった。ラグラスの語らなかった想いが、そこに刻まれているようだった。
歯ぎしりが聞こえて、はっと顔を上げる。拮抗が破れる瞬間だった。
ユーミリアの剣が下がる。罠だ。わざと隙を作って、ラグラスを誘おうとしている。
だめ──。
考えるよりも先に身体が動いた。深追いしたラグラスの剣を紙一重でかわして、ユーミリアの剣がラグラスに迫る。アリアは自分の持っていた銀色の剣を抜き放った。襲われた日の血の臭いがして、一瞬めまいがする。
そんな暇はないと半ば無意識で押しきって、アリアは銀の剣をふるう。
「アリア……!」
それがどちらの声だったか、アリアにはよくわからなかった。
ラグラスに背を向けたアリアは、ユーミリアに対峙していた。ユーミリアが横一文字に薙いだ剣を止めようとしているのがわかった。
アリアは銀色の剣をもつ両手に力をこめる。次の瞬間、一対として作られた剣と剣のぶつかる衝撃が両手に伝わった。
「う……」
手がしびれる。受け切れない。アリアの剣が折れて飛んだのが、せまくなった視界の端に見えた。衝撃をそのまま受けて、アリアはぐらりとバランスを崩す。
「アリアっ」
今度の声はラグラスのものだとはっきりわかった。アリアの背中に衝撃が走り、雪の冷たさが頬に触れた。すぐ近くにラグラスの顔がある。どうやら、かばわれたらしかった。
雪が降っていた。先ほど場に殺気があふれていたのが嘘のように、静かな時間が流れている。無事か、とラグラスに視線でたずねられてうなずく。同じように視線を返すと、ラグラスもうなずいた。アリアが短く息を吐くと、ラグラスの青灰色の瞳が笑った。
アリアはラグラスの肩越しに、世界を見た。
黒髪の大尉はその場にたたずんでいた。その顔はアリアのよく知る、悲しげな微笑だった。
──ユーミリア様。
はじめてそう呼んだとき、彼が今と同じような顔をしたのを、よく覚えている。
「……そういうことか」
ユーミリアは銀色の剣を鞘におさめた。あたりの闇に、すべての影が溶けこんでいくのが見えた。
「マーブル将軍……そいつを幸せにしてやってください」
黒髪の大尉はそう言うと、二人に背を向けた。
「待て、お前はそれでいいのか!」
起き上がったラグラスが声を荒げる。ユーミリアは振り返らずに、いたって冷静に答えた。
「アリアはあなたに無防備な背を向けた。俺よりも、あなたを信用したということです」
「とっさのことだ、そんなことは……!」
ラグラスがなおもユーミリアを引きとめようとするのを、アリアはそっと制した。ユーミリアの言うことは正しい。同じように剣を構えた二人の間に割り込んで、自分はラグラスに背を向けた。
ユーミリアの後ろ姿が闇の中に溶けていくのを、アリアは黙って見守った。寒さのせいか、肩が震える。遠ざかる背中はアリアの内に、さまざまなことを思い出させた。
皇都の士官学校に受かったユーミリアを送り出そうと決めたこと、故郷で待っているという思いをこめてはじめて口づけしたこと、それなのに皇都について来て欲しいと言われて心底うれしかったこと、主従ではあったけれど皇都で共に暮らした日々のこと──。
針葉樹の森が、風に揺れた。
「泣くな」
涙で歪むアリアの視界で、ラグラスの表情が渋くなった。
「泣いている暇があったら、後を追え」
「だめ。私にユーミリアを追う資格はない」
アリアの頬を、涙が伝っていた。涙の通った後が熱い。
ユーミリアを追うことなどできない。ラグラスを守ろうとユーミリアに対峙したあの瞬間、アリアは過去を自らの手で壊した。
「あなたと一緒にいる。一緒にいさせて、お願い」
ラグラスの胸に飛びこんで、しがみつく。涙はとめどなく流れ落ちて、とどまることを知らなかった。
アリアの頭上でオリーブ色の髪が揺れる。腕をまわすこともなく、されるがままになっていたラグラスは低くつぶやいた。剣を捨てた手が、雪をつかんでいるのが見えた。
「一時の気の迷いで、ユーミリアとの時間を失ってもいいのか」
「あなたを助けたのは、気の迷いなんかじゃない! 私は、私は……」
反射的に顔を上げた。嗚咽が混じって、うまくしゃべることができない。涙を流すたびに身体が熱を帯びる。激しく降りだした雪も、気休めにすらならなかった。
「そうじゃない。お前がユーミリアを追わないことだ。俺とはじめて出会ったとき、お前はユーミリアの妻だと名乗った」
「でも、あれは」
「気持ちまで偽りか? 戦場では一瞬の判断が全てを分かつ。少しでも追おうと思うのなら、行け」
ラグラスの声は、アリアの耳に心地よく馴染んだ。この数ヶ月で聞き慣れた、あまり抑揚のない声。けれどもそれは、ユーミリアの声ではない。アリアは自分の腕から、自然に力が抜けていくのに気付いた。
針葉樹の森が吹雪に煽られてざわめく。夜の濃さに慣れたのか、アリアは月が明るいことに気づいた。吹雪でかすんだ月の光が、雪で反射している。明るい。ユーミリアの足跡もはっきり残っているだろう。
「ラグラス……」
「さっきの言葉は、聞かなかったことにしてやる」
肩をつかまれ、引き離された。青灰色の瞳が正面から力強くアリアを見た。
「行け!」
叱咤する声に立ち上がる。ラグラスの表情はうまく読み取れなかった。
「……さよなら、ラグラス」
オリーブ色の髪の男にいつもの不敵な笑みが戻ってきたのを見て、アリアは涙に濡れたまま微笑むと、雪原に残った足跡を追った。




