第八章 冥龍吠ゆ 第六話
吹きすさぶ風の中、ロイス・ロッシュはコートの前をかきあわせた。幸い雪は降っていないが、風が強い。雪の積もった上を歩く音がつづく。ざく、ざく、と不規則に聞こえる音は鬱々としており、銀髪の指揮官は兵たちが雪国に慣れていないことを思い知った。
学問都市イスハルが王国軍に落とされてからというもの、戦況は散々だった。クラウス・オッペンハイマーはあっという間に抗戦派のいなくなったクロムフを取り囲み、陥落させたのである。
皇都、学問都市イスハル、港町クロムフを落とされた帝国陸軍は、王国軍に囲まれることを危惧した。そんなとき、折りよく皇都で暴動があった。トゥール・シルバリエの工作によるものだ。ロイは南国の魔法使いに感謝して、一気にハルシアナへと向かった。先の海戦の後、ハルシアナに駐留している帝国海軍と合流するためだ。
今となっては、王国軍を倒すことは難しい。だが一つの島の中で、王国軍と帝国軍が共存することは可能なのではないかと、ロイは考える。生き残る選択肢はいくつかある。その中で王国が要求してくる可能性の高いものは、と手を止める。頭をよぎるのは嫌な考えだった。
新皇帝オフィリア・ライズランドの引き渡し──。
先代皇后マリー・ライズランドと、幼い新皇帝であるオフィリア・ライズランドを引き渡せと、王国は要求してくるだろう。首をはねるか幽閉か。どちらにしても、帝国再興の芽をあのクラウスが残しておくはずがない。現在皇位にあるオフィリアを突き出すということは、帝国が滅ぶということと同義である。ロイは自分の立場を肝に銘じた。帝国軍人である以上、幼い新皇帝を引き渡すことはできない。ましてや自分は、皇帝を守る近衛部隊なのだから。
──もう一暴れしてやろう。
勢いのある王国軍に講和を持ちこんでも、不利な条件を突きつけられるだけだ。一戦して互角であることを証明しなければ、王国にひざまずくことになる。
ロイス・ロッシュの頭の中では何通りか、ユーミリアの言う汚い手が思い浮かんでいた。実際、その汚い手を試してもみた。
王国を動かしているのがクラウス・オッペンハイマーなら、その急所はエルザ・ライズランドであろう。王国軍がカーミラ城に入城した後、クラウスが後宮に入り浸って出てこなくなったという噂は帝国軍にも届いていた。
メイジス神の神官であるクラウス・オッペンハイマーがいる以上、アスハト教は国教にならない。王国軍の半分を占めるアスハト教徒に、そんな言葉を吹きこんだ。
同時に、エルザ・ライズランドが傾国の美女であるという噂を流し、クラウスが後宮に入り浸ることを憂う、王国軍の連中を揺さぶった。
結果、ロイの思惑通り、エルザ暗殺未遂事件が起きた。実行犯はアスハト教徒、武器を調達して情報を流したのは軍の連中らしい。これを聞いたとき、ロイは自分のしたことを忘れて「狸め」と舌打ちした。腹の黒い人間の下には、それ相応の人間が集まるらしい。自分が火の粉をかぶらないよう、王国軍の連中は実行犯に混ざらなかったのだ。
暗殺事件の場にクラウスもいたと聞いて「ひょっとしたら」と期待もしたのだが、作戦は失敗。逆にクラウスに火をつける結果になった。
──賭けに負けたというわけだ。
思わず苦笑いがもれた。クラウスが自分と同類の人間だろうということには、うすうす気付いていた。だからこそ、王国は暗殺事件の黒幕にロイがいることに気付いて、イスハルを攻めたのだろう。迂闊だったか、と思わないこともないが、今となっては詮ないことだ。
王国軍を分裂させて戦闘で勝利する。そうすれば対等な条件での講和も夢ではないはず──。
元は烏合の衆である王国軍に、分裂要素は確かにある。だが、その引き金を引くのが難しい。
敵将の顔を一人一人思い出しながら、ロイは雪原を進む。ハレイシアとカイルロッドの二人が積極的に戦うとは思えない。講和には反対しないはずだ。
ラグラス・マーブルの弱みを、今のうちに握っておかなくてはならない。さて、どうしたものだろう。
思考に沈むロイを現実に引き戻したのは、いらだった兵の叫び声だった。
「お前らが、イスハルで情けない戦いをしたからだ!」
後方で声が上がったのを機に罵声が飛び交った。隣を歩いていた黒髪の副官を見る。ユーミリアは小さく首をかしげた。興味がない、という顔をしている。
「近衛が最初に暗殺事件の犯人を摘発しておれば、この戦いは起こらなかった!」
負け戦がつづけば兵の不満もたまってくる。最初は小さないさかいだったものが、段々と大きなものになるのをロイは予見した。じきに殴り合いがはじまるだろう。大きな争いに発展する前に片をつけなくてはならない。
──王国軍より、こっちの方が簡単に崩れるんじゃないか?
自嘲を引っこめて、ロイは副官に声をかける。すぐに副官は理解し、今にも殴り合いをしようとしている連中のところへ駆け寄った。殴り合いがはじまって、元近衛兵が雪の中へと倒れこむ。馬乗りになった兵をユーミリアが止める。今度はユーミリアと兵の間で口論がはじまった。副官の表情が冷えていくのに、ロイは気付いた。
ああ、これはダメだ。
瞬時に理解したロイは行軍を止めさせ、争いの元へ向かう。見れば、ユーミリアは剣に手を伸ばそうとしている。今までのユーミリアならきっとそんなことはなかっただろう。おそらく彼も殺気だっている。純朴だったユーミリアをこの戦いで穢れさせてしまったようで、ロイは深くため息をついた。後ろからユーミリアを蹴る。
「ばか」
思わぬ伏兵に倒れたユーミリアは、すぐに我に返った。
「中佐……」
「お前らも、済んだことを言ったってはじまらないだろう。もしあのとき、なんて考える余裕があるなら、これからのことを考えてくれ。いい策があるなら、ぜひとも拝聴したいもんだ」
ケンカをしていた者たちが、見る間にしゅんとしていく。ばつが悪そうに、軍支給のコートについた雪を払っている。
「お前らがケンカなんてしてるとなぁ、また血ィ吐くぞ」
ロイの言葉に対する反応は様々だった。子供じみた物言いに吹き出す者、心配しておろおろする者、ユーミリアのように苦笑する者……。
「もうすぐ村があるはずだから、そこで今日は酒盛りでもしよう。憂さがたまってるなら、それで晴らせよ」
最初にケンカをしはじめた二人の兵は、すっかり萎縮していた。その肩を叩いて、ロイは自分の持ち場に戻る。強い風が足元の雪を流して模様を作っていた。その上に行軍の跡が延々とつづく。ロイス・ロッシュは先をたどるようにして、遠くを見た。
冬のハルシアナに入るのだからと、物資は多めに持ってきた。けれどもこの雪では、地元からの補給を期待できない。酒盛りも一杯ずつがせいぜいだろう。それで憂さが晴らせるとは思えない。
やはり、勝つしかないか──。
雲に覆われた空を見上げて、ロッシュは行軍を再開させた。
その日の夕方、トゥール・シルバリエの送った物資が村に届けられた。これで物資の心配はしなくて済む。ロイは南国の魔法使いに敬意をはらい、皇都に向かって敬礼した。かゆいところに手が届くとはまさにこのこと、さすが後方支援のプロだ。大きな倉庫を借りてチェックを済ませた後、ロイは宴会開始の号令をかけた。
「物資も受け取ったことだし、酒盛りだ!」
先ほどまで沈みこんでいた兵の顔がぱっと明るくなった。帝国兵たちはすぐに茶碗を手にして物資の前に列を作る。物資担当の兵が、樽に入ったワインを少しずつ分けていく。
「おかわり自由! ただし、今飲むと後で飲めなくなるから、考えて飲めよ」
腰に両手をあててふんぞり返った上官に、皆の笑い声がもれる。食堂の女将か寮母のように、ロイは細々と指令を出していく。酒とつまみがあらかた行き渡った頃、皇都でロイの直属の部下だった近衛隊の者たちに声をかけられた。
「ロッシュ中佐もどうぞ」
「医者から止められてるんだよ」
銀髪の中佐は酒宴から抜け出そうとしたが、今から酔っぱらおうとする連中には通じない。肩に腕をまわされ、男臭い腕でがっしりと固定されては逃れようがない。
「中佐、まあそう言わずにぐぐっと」
「胃に穴が開いてるんだから、酒なんて飲めるわけないだろ!」
お構いなしに部屋の中心に連れて行かれた。あちこちから大きな笑い声が聞こえる。先ほどまでギスギスしていたのが嘘のようだ。安堵した。
「ケチ臭いこと言わないでくださいよ!」
「お前らなぁ! 俺は酔うと脱ぐぞ! 見たいのか!」
「どうせ見るならオネエチャンの方がいいです!」
「そうだろう! 俺だって巨乳美人の方がいい!」
だっはっは、という笑いの渦が通り過ぎて、ロイはようやく解放された。ため息をつきながら部屋を出ようとすると、隅でユーミリアが飲んでいるのに気付いた。
先ほど剣に手をかけた姿を思い出した。ユーミリアは変わってしまった。それが本人の資質によるものかどうかはわからない。けれどもこの戦いに加わらなければ、ユーミリアは変わらずにいられたはずだ。
──もしあのとき、なんて考える余裕があるなら、これから先のことを考えろ。
自分の言葉を思い出した。人は後悔する生き物だ。思い出さずに済むなら苦労はしない。
「一人で静かに飲みたい気分?」
「……喪中ですから」
静かな声だが、落ち込んでいるわけではない。王国兵の残党狩りに巻き込まれて亡くなったという、アリアのことを考えているのだろうか。それとも、先のイスハル戦で亡くなった、デオフィル・リシュル少佐のことだろうか。
「お前はフェシスの神官だもんな。でもさっき、兵のいさかいを止めに入ったお前が剣に手をかけたのは、やりすぎだ」
「そうですね。でもリシュル少佐のことを貶めるような真似を、許すことはできません。俺はあの人が苦手だったけれど、情けない戦いをしただなんて言われる筋合いはない」
「リシュルのことは残念だった」
残念だったが、仕方ない。そう言葉をつづけようとしてやめた。仕方ないと言えば食ってかかってくるのが、ロイの知っている、かつてのユーミリア・ユグドラシルだ。ロイはわずかに肩をすくめ、少し離れた場所から酒宴を見守った。
ユーミリアに変わらずにいてほしいと願うのは自分自身のためだろう。戦場という神経を使う非日常の中に、日常を置いておきたい……そんな身勝手な理由だ。
ロイス・ロッシュは薄く自嘲した。ユーミリアの幼さは、遠い昔にロッシュがなくしたものだ。現実に触れることで磨り減っていく純粋さを、ユーミリアは未だに持ちつづけている。
「それで剣を抜こうとしたのか?」
「はい。海軍少佐だから使えないだなんて、今思い出しても腹が立つ。少佐は立派な軍人だった。逃げた奴に貶められるようないわれはありません」
「お前のことだ。帝国陸軍の法ぐらい知ってるだろう? 私闘は厳禁だ」
「……はい」
ユーミリアの横顔から、ふと力が抜けて和らいだ。
「止めてくれたこと、感謝してます。もしあのとき剣を抜いていたら、俺は処刑されても文句を言えなかった」
「そうだな。副官だろうが、規則は規則だ」
ロイは固い干し肉を口に放りこんで、奥歯でがしがしと噛んだ。噛むほどに味が出てくるが、そう美味いものでもない。それでも兵たちは肩を組んで歌って踊って、笑い合っている。千鳥足で奇妙なステップを踏んで気ままに過ごす様子に、ユーミリアは顔をしかめた。
「……皆、騒ぎすぎです」
明らかに嫌悪した様子でそう言ったユーミリアに、ロイは頭をかいた。
「わざとだよ」
「え?」
「わざと騒いでるんだ。味方が大勢亡くなったから」
ユーミリアが不満気な顔をやめて目を伏せたのを確認してから、ロイはそっと立ち上がった。少し話しただけだが、互いに言いたいことは言えたような気がする。長年の付き合いは伊達ではない。
「病人は大人しく寝るよ。おやすみ」
「……お大事に」
倉庫から出て、風の中に身を置く。強風が新雪をまきあげる。身体の芯から凍えそうだった。連なる淡い光が、人家のあることを示していた。村長と話し合って決めた宿舎に向かう。雪で足取りが重くなる。
「あの……ロッシュさま、ですか?」
宿舎の前に狩猟用の毛皮を着た少女がいた。
「そうだけど、どうしたの? 寒いだろう。中に入りなさい」
ハルシアナの多くの建物がそうであるように、宿舎には大きな暖炉がある。毛布も何枚か置いてあるはずだから、それをかぶって火にあたっていれば身体も暖まるはずだ。
部屋に入って、ロイは踏み固められた雪がこびりついたブーツを脱いだ。足の指が冷たい。少女もそれにならう。まだ十二、三歳だろうか。善良そうな栗色の小さな目をしている。瞳と同じ色の長い髪は、背中の中ほどまであった。コートを脱いで、上着を脱いで、少女がブラウスのボタンに手をかけたところで、ロイはその手をつかんだ。
「あのね。積極的な子は、嫌いじゃないけどさ。君、子供だろう」
指先がひどく冷たい。見れば頬も鼻も、寒さのあまり赤くなっている。どれくらい自分を待っていたのか、それで知れるというものだ。少女は一度身体を小さくこわばらせて、口を開いた。
「私ではダメですか?」
──子供のくせに、無理をして。今一瞬身体を縮めたのは、おびえているからだろう?
「いたいけな少女にいかがわしい真似ができるほど、俺の神経は図太くないなぁ」
少女が黙ってうつむくのを、ロイはのぞきこんだ。瞳が潤んでまばたきが激しくなる。困っている。ロイはすぐに少女がここに来た目的を察知した。懐柔しに来たか、殺しにきたか……まさかこんな少女に暗殺はできまい。ならば懐柔か──ハルシアナの現状を見るに、おそらく物資を置いていけとでも言うのだろう。
「ロッシュさまにはわからないかもしれません。でもハルシアナの女は、娼館に売られる覚悟をしています。それで家族が二年は暮らせるから……」
ロイは渋い表情のまま、少女の次の言葉を待った。たかだか二年だと? と怒りがこみあげる。
「私も、来年の冬にはクロムフに売られるかもしれません。だからどうか、気にしないでください」
どうしたら納得してもらえるのだろう。ロイは頭をかきむしって、ユーミリアの言葉を思い出す。少女の肩にそっと手を置いた。
「喪中なんだよ」
少女が首を傾げたところで、問いを悟ったロイは微笑んだ。
「海軍本部付き少佐デオフィル・リシュル、陸軍近衛部隊伍長リュート・セル、第三師団兵長サイファ・エリオット、第六師団団長アネス・フェルナンド、第八師団曹長クライブ・ザクセン……まだいるぞ。全員の名前を言おうか?」
名前を言うたびに、少女の顔は曇った。首を横にふっている。はじめは弱々しかった首の動きが激しくなる。
「だから君の期待には沿えない」
頭に手を乗せてなでてやると、少女は首をふるのをやめた。嗚咽をもらしながら、少女は大粒の涙をこぼしている。
「泣かせちゃってごめんね。でもダメなものはダメ」
「ちが……ちがうんです……」
なにが? と口を開く前に、少女はしゃくりあげながらつづけた。
「おつらくありませんか」
少女の言葉に、ロイは我が耳を疑った。
「え……?」
しがみついてきた小さな手をふりほどくこともできず、小さな肩に弱く触れる。
「ロッシュさまがおつらそうに見える理由……今、わかりました。一人で、何人もの兵隊さんの死を背負いこんでいるからじゃありませんか?」
まだ幼いからと、腕の中にいる少女を侮っていた。ロイは思わず舌を巻く。
「君に見透かされるとは、俺も焼きが回ったな」
「ハルシアナにはつらい思いをしている人がいっぱいいます。助け合わなければ生きていけません。だから、手助けを必要としている人がいたら、手を差し伸べるんです」
「そうか。君は気のきいた、いいお嫁さんになりそうだな」
ロイは滑らかな少女の髪に触れ、なだめるようになでてから暖炉に薪を放りこんだ。いたいけな少女を今すぐ外に放り出すのは酷だ。
「君が落ち着くまで、少し昔話をしようか」
少女がまだ涙の気配の残る顔でうなずいたので、ロイはゆっくりと口を開いた。
「ハルシアナと比べちゃいけないかもしれないけど、都市にも貧しい場所ってのがある。一部の人間が裕福な暮らしをする裏で、住む場所もない、その日の飯も食えない人たちがいる。アスハト教を知ってる? あれにはそういう人が多いそうだ。なんの救済もしなかった帝国を恨む気持ちは、わからないでもない。俺もそういう場所……スラムにいたことがあるから」
腕の中の少女が目を丸くする。ロイは優しく微笑んで、そっと毛布を引き寄せた。




