第一章 火龍の息吹 第五話
光を失った星々は、夜空の舞台から降りる。小雨は未だ降りつづけていた。雨雲のすきまから一際赤く輝く星が現れる。薄い雲の向こうから、月が世界を照らし出している。雲に隠れてもなお、月のありかははっきりと判別できた。おぼろげな月の光に照らされて、銀髪の男は歩みを止めた。
先ほどから酔ったロッシュ中佐を支えている黒髪の副官がとまどう。
「どうしたんです」
「嫌な雨だな」
傘などない。酔いを冷ますために歩こうと言ったのは中佐だ。空に向かって手をかざす。雨はやまない。
「異国じゃ、酸の雨が降るそうですね。色んなものを溶かしてしまうんだそうです。これも、本当はそんな雨なのかもしれません」
そういう不安じゃない、と中佐は心中で返す。
深夜だというのに裏通りには人通りが絶えない。メインストリートが近いのもあるだろうが、俗な店が多いというのが大きいだろう。酒場や娼館のならぶ通りは男たちの熱気と、女たちのためいきに満ちていた。
「有能な副官をもって俺は幸せだなあ。……でもな」
とても静かな声を発して、中佐は大尉に支えられていた腕をそっとふりほどいた。
「俺のことを呼ぶときはロイでいい。俺はお前をユーミリアと呼ぶのに、お前だけ家名で呼ぶのは変だからな」
銀髪の中佐は目を細めて、わずかにすごみを増した表情で訴える。
「先輩を呼び捨てになんか出来ませんよ。せめて名前を略さずに呼ばないと」
「ローデリヒ・イジドール・ステファンって全部呼ぶのはさすがに無理があるぞ。それならロッシュって呼ばれた方がまだマシだ」
ロッシュ中佐が自分の名を呼んでいいと許すのは女性だけだと、ユーミリアは当然知っている。ユーミリアは特別にそう呼ぶのを許すと言っているのだ。苦笑いするユーミリアを見て、ロッシュ中佐はむくれた。すでにアルコールは飛んだはずなのに、行動が幼い。
「はいはい。わかりました。じゃあロッシュと呼ばせていただきます」
「はいは一度だ」
すれちがう人々が彼らを一瞥して去っていく。夜の街を徘徊する連中は、それなりに後ろめたい部分を持っている連中が多い。帝国陸軍の士官服を着た彼らを警戒するのは当然かもしれない。士官服のまま飲みに出たのはよくなかったかもしれない。
「了解しました、ロッシュ。これで良いですか?」
「ほんとは敬語も却下したいんだけどな。仕方ない」
他愛ない会話の内容を聞けば、道行く人々も警戒せずにすんだろう。通り過ぎる人々が聞くのは会話の一部であり、内容を推し量ることはできない。身体をこわばらせる者、足早に通り過ぎる者、こちらを伺う者、うつむく者。通り過ぎる人々はそれぞれの行動をとる。そんななか、黒いフードをかぶった男が銀髪の男の側を少し足早に通り過ぎた。人の波が一通り切れるまで歩くと、その男は銀髪の男をふりかえる。
光を失った星々は夜空の舞台から降りる。小雨は未だ降りつづけていた。雨雲のすきまから一際赤く輝く星が現れる。薄い雲の向こうから、月が世界を照らし出している。雲に隠れてもなお、月のありかははっきりと判別できた。おぼろげな月の光に照らされて、黒衣をまとった赤色の髪の男は歩みを止めた。
第一章 火龍の息吹・了
第二章 金龍の血痕へつづく