第八章 冥龍吠ゆ 第四話
戦場の空気が大きく震えたのを、デオフィル・リシュルは肌で感じた。遠方から飛んでくる大砲の弾がどんどん大きくなって、視認できる大きさになる。両軍の間の沈黙を破った弾丸は、誰を傷つけることもなく落下した。威嚇射撃だ。
リシュルは鼻を鳴らして、陸軍大尉ユーミリア・ユグドラシルの顔を見る。
ユーミリアは駆け寄ってきた伝令兵に大砲を撃つよう、命令を下していた。確認するように自分に視線を向けるユーミリアに、リシュルはゆっくりとうなずく。思ったより手早い対応だ。
「異論はありません。この天気じゃ、いつ雨が降るかわからない。手っ取り早く火薬を使っておいた方がいいでしょう」
「きっと敵も同じことを考えているんでしょうね」
陸軍の兵士が連れてきた馬に飛び乗って、手綱をとる。馬を少しなだめてから、腹を軽く蹴った。
馬は本来空気に敏感な動物だが、戦闘用のものはある程度訓練されている。大砲の空気を揺るがす音にも、人の叫び声にもひるまずに脚を進める。草の枯れた大地を蹴って、リシュルとユーミリアの馬はそれぞれ前線へと向かった。
「中央で少し退いて、両脇からはさみましょう」
ユーミリアの案に、リシュルは思わず眉根を寄せる。
「それは士気があがっているときの戦い方です。今退けば、兵は途中で留まれない。中央から崩れます」
大きな声を出さなければ、馬のひづめの音に負けてかき消されてしまう。リシュルは「甘い」と付け加えたいのを飲みこみ、声を荒げた。
「騎馬を両翼に展開させて進めましょう。左翼と中央で第一波を囲み、第二波を、残った左翼と右翼ではさむんです。第三波は中央にいた兵が左翼に移動して、残った右翼の兵と敵をはさむ。波のようにかぶせていく、と言ったらわかりますか」
ロイが己に授けてくれた案だ。
「しかしそれでは!」
ユーミリアが反論の言葉を飲みこむ。リシュルはその先につづく言葉を察知していた。
──消耗戦になると言いたいのだろう?
リシュルは厳しい視線を向ける。ユーミリアは言葉にせずに黙りこんでいる。
被害を恐れていては戦はできない。時機を逃せば被害はもっと大きくなる。勝機を逸してまで被害を少なくしようとするのは愚かだ。戦いは、勝たなければ意味がない。
「……決めるのはあなただ。私ではない」
ユーミリアから視線をそらす。おそらく己の身体からは殺気が放たれているだろう。悠長な指揮官の元にいれば、兵の動きもそれだけ遅れる。戦場では判断力が問われるというのに、この大尉はまだ躊躇している。先ほど手早い対応に感心したのを、リシュルは胸中で撤回した。
いやな空気を押しきるように、味方後方から王国軍めがけて弾丸が飛んでいく。馬をできるだけ早く駆けさせ、最前線でするりと下馬した。
背後から聞こえる馬のひづめに帝国軍兵士たちは一瞬表情を明るくしたが、馬に乗っていたのが司令官、ロイス・ロッシュでないと知るや否や混乱に逆戻りする。
右往左往する者、土嚢や塹壕に隠れる者、今にも倒れそうなほど呼吸の荒い者──平常心を失っている者が多い。これをまとめあげるのは、帝国陸軍司令官、ロイス・ロッシュでも難しいだろう。
「少佐、さっきの案、お借りします」
俺が言ったっていうのは内緒だからな──。
ロイス・ロッシュの声が思い出されて、リシュルはわずかに笑った。どうして秘密にする必要があるのだか。作戦を誇る者はいくらでもいるが、逆に秘密にしてくれというのは珍しい。大方、ロイス・ロッシュ以外にも作戦立案ができるということを、味方の帝国兵に見せたいのだろう。ユーミリアの手柄にしたいのだ。
ロイス・ロッシュは、よほどこの大尉にご執心なのだろう。部下をえこひいきするなどもっての他だということくらい、中佐ならちゃんとわかっているだろうに。
──結局、そういうところが甘いんだ。
戦場を多く経験した叩き上げの海軍少佐は、ほんの少し意地悪をしてやりたくなった。
「あれは司令官殿の案ですよ。あとで後方に敬礼でもしてやりましょう」
おかしくて仕方がないが、当の大尉は何も気付かずに地面に図を書き、伝令兵たちに指示を出している。居並んだ兵たちは不安そうに聞いていたが、ユーミリアが言葉を終えると手短に敬礼して、各陣に散った。
空気がぴりぴりと肌を刺す。数刻もすれば舞い上がった土がほこりとなって、喉にひっかかるようになるだろう。
土嚢の向こうをながめて耳を澄ましていると、大砲の音に混じって叫び声が聞こえてきた。敵が徐々に近付いてきている。鞘から剣を抜き放って身をかがめる。冴えわたる銀の光がリシュルを落ちつかせた。
ユーミリアが剣を抜く。何度も最前線で使われてきたらしい剣は、刃こぼれをしていた。
「ずいぶん使いこんでますね」
「イスハルに来てから、しばらく前線にいましたから」
こともなげに答えるユーミリアの腰には、新しい剣がもう一本ある。リシュルは素朴な疑問を投げかける。
「そちらの剣は使わないんですか?」
「これは使いません。お守りだから」
ユーミリアの言葉に納得するふりをして唇を舐める。大方、親だか恋人だかにもらった剣だろう。
彼がどこまで甘い理想を貫けるのか、ふと賭けてやりたくなる。もちろんリシュルが賭けるのは、ユーミリアが現実に押しつぶされる方だ。
咳払いして、喉にひっかかったほこりを飲みこむ。土嚢の向こうから王国軍が大挙して押し寄せてくる気配がした。最前列の兵は、すでに剣を抜いて臨戦態勢にある。
戦場の見事な緊迫感に、リシュルは笑う。戦場はこうでなくてはいけない。
「銃兵、射撃用意」
ユーミリアが声をかけると同時に、周囲からいくつか情けない声が聞こえた。
「撃て!」
黒髪の大尉が射撃命令を下す。妙な間で銃声がつづいた。その音はてんでばらばらで、統制がとれていない。
腰抜けが! と吐き捨てたいのをこらえて、リシュルはあたりを見渡す。震え上がった銃兵たちはうまく弾を装填できずにいた。弾を落とした者、恐怖のあまり銃を撃つ手順を忘れた者、うっかり扱って銃の部品をなくした者がいるのが見てとれる。
前列にいる突撃兵の間に動揺が走る。当たり前だ。後方からの援護射撃がないのでは、突撃もうまく行くはずがない。帝国軍兵士の間に生まれた不信感は徐々に広がって、戦線をむしばんでいく。
「大尉、後列の立て直しを頼みます。私は前列に行く」
突撃兵を立て直すべく前列に向かう。敵は思ったより近くまで来ていた。
どん、と一際大きな大砲の音が鼓膜を揺るがす。王国軍の雄たけびと足音はまさに津波のようだった。
「ひっ……殺されるっ」
後列で情けない声がしたのに気付いてふりかえる。銃兵の一人が逃走しようとしているのが視界に入った。
「待て! 今ここで退いてはいけない!」
ユーミリアが制止するが効果はない。怒涛の勢いで攻めてくる王国軍を前に、誰もが思うことだ。一人が心情を吐露するだけで、あっという間に全体を侵食していく。一人が二人に、二人が三人に増え、気付けば兵士全体が揺れ動く。
「大尉、そいつを斬れっ」
リシュルは叫ぶが、ユーミリアは暗い瞳を返すだけで、剣をふるうことはしない。説得を試みている。
兵が兵なら将も将だ。胸中で毒づいて前列の兵をにらみつける。ぎらりと光ったリシュルの目は、怒気と殺気に満ちていた。リシュルの視線は前列の兵をことごとく縛った。今にも腰を抜かしそうにしている兵に向けて、リシュルは禍々しい笑みを向ける。
「ここで今すぐオレに斬られるか敵を斬るか、どちらがマシかよッく考えろ! 生き延びたけりゃ目の前の敵を倒せ!」
後方にも聞こえるように、声をはりあげる。後列の動揺が止まった。デオフィル・リシュルならやりかねない。そんな空気が一瞬で広がって、帝国軍兵士たちはごくりと唾を飲みこんだ。スォードビッツ上陸作戦に失敗した海軍のくせにと思う暇を与えないよう、リシュルはつづける。
「フェシス神は戦を否定しねぇ! 行け! 殺してこい! 命令があればお前らでも動けるだろう!」
これだけ怒鳴れば、多少は立て直せるだろうか。
リシュルは自嘲する。兵とは逆に、戦闘を前に高揚した気持ちを抑えきれなくなっている。戦闘中は自然に故郷のなまりが出ることがある。クロムフなまりの言葉は皇都出身の兵にはことさら厳しく聞こえるのだろう、後列が修復とまではいかないが形を保とうとしていた。
王国兵はすぐそばに近付いてきている。猶予はない。敵に銃兵がいないかリシュルが確認した瞬間、隣で大きく空気が動いた。ユーミリアが土嚢の前に飛び出している。
「少佐、指揮をお願いします」
「オレは海軍だ! 陸軍の指揮なんかとれるわきゃねえだろうがっ」
舌打ちして後を追おうとするが、ユーミリアは剣をふりかざして敵陣へと駆け出している。
「突撃!」
仕方なしにリシュルは叫んだ。命令を受けて突撃兵が前に進んでいく。
──早く来い、左翼の騎馬隊!
リシュルは歯ぎしりをして王国軍の中に突入する。最初の六人を左右から流すように斬り捨て、それ以降は突きに転じる。人の脂は思うよりもこってりと剣に乗るから、斬りにくくなってくる。照準が狂わぬよう、左手で鍔を固定して突きこんでいく。
何人斬っても騎馬隊は来ない。
──中央の軍が崩れたのを見て、怖気づいたか!
リシュルはユーミリアのすぐ後ろに追いつく。前に出すぎだと諌めようとするが、大尉の足は速い。相変わらずの早業で次から次へと敵を斬っている。
「フェシス神のご加護か」
最前列で剣をふるうのは平気なくせに、指揮をとるのが怖いとはお笑いぐさだ。フェシスの神官が聞いて呆れる。
向かってくる王国兵の喉を突きながら、視界の隅で左翼の騎馬隊がいるはずの地点を見る。隊列は崩れて動く気配がない。リシュルは相手の剣をひねってねじふせ、額を裂きながら、腕を後ろへ引く。突如として、前方でわぁっと声が上がった。ユーミリアがやられたのではないか。黒髪の大尉にべったりと飛んだ血を見てぎょっとする。返り血だ。ユーミリアは躊躇せず、前に駆け出していく。
では、あの歓声は……。
視界の隅に、右翼の部隊が下りてきている様子が映った。身体中の毛が逆立って血がざわめく。
「よし!」
最初に動くのが、左から右になっただけだ。日頃ならこの違いは大きいだろうが、今、この火急のときに些細なことを気にしてはいられない。柔軟な右翼部隊に感謝しながらリシュルはユーミリアを追う。ユーミリアが相当な数を斬っているのだろう、進むのにそれほど苦労しない。そのうち、王国兵の群れに味方の姿が混じりだす。右翼に待機させていた部隊が合流したのだろう。手近な兵に左翼部隊の建て直しを命じるついでにたずねてみる。
「ユグドラシル大尉は?」
「前へ行かれました!」
──やれやれ、困った鉄砲玉だ。左翼部隊の建て直しを待たずに決着をつける気じゃないだろうな。
そこまで思い至って嘲笑する。さすがにそんなことはできないだろう。敵の中に一人で突撃していけば囲まれるだけだ。いくらなんでもそこまでは……。
「リシュル!」
背後からかかった声を胡散臭く思いながら顔を向ける。馬で駆けてくる男がいた。
「ロッシュ中佐」
相変わらず顔色は悪いが、前線の異変を察知して出てきたのだろう。
「左翼部隊の立て直しには俺が行く。お前は中央、ユーミリアは右を」
それだけ言うと、ロイス・ロッシュは地面につばを吐く。リシュルはつばに浮いた濃い血を、目ざとく見つけた。
「中佐、具合は」
「そんなこと言ってられないだろ。他人の心配してる暇があったら、自分の心配でもしてろ」
銀髪の中佐は馬の腹を蹴った。涼しげな目元がときおり小さく歪むのを、リシュルは見逃さない。まったく、陸軍は困った連中だらけだ。小さくなる背中を見送りながら思わず笑った瞬間、砲弾が飛んできた。大きな爆発音と共に帝国兵が飛ばされていく。
「まだあったか」
ロイス・ロッシュが左翼部隊を立て直すまで、まだ時間がかかる。周りの兵に大砲に気をつけるよう注意をうながしてから前方へと走った。ユーミリアにロッシュの命令を伝えなくてはならない。
敵と味方がすっかり入り乱れている。前に進むほど帝国兵は少なくなるから、気を抜くことができない。
リシュルが敵兵の胸に剣を沈めた瞬間、ぼきりと嫌な音がした。剣が折れた。リシュルは舌打ちして、敵の剣を奪う。それを狙っていたように銃声が聞こえて、とっさに死体を盾にする。敵の銃兵だ。どうやら木の後ろから撃ってきているようだった。ユーミリアはこの先に行ったというのか、とリシュルは苦々しい顔をした。
「ユーミリア・ユグドラシル!」
名前を呼ぶが返事はない。もしかして、と一瞬背筋が冷たくなる。木々をわけて進む音がして、つづいていた小銃の音が前触れもなくやんだ。盾にしていた死体をどっと蹴る。
「大尉……」
砂煙の向こうにリシュルが見たのは、まさに鬼だった。
返り血で身体中が赤黒く染まっている。本来白いはずの肌が、こびりついた血で赤茶になっている。頬にはりついた髪の先から、ときおり赤い雫が跳んでいく。表情は無気力でまるで邪気がない。そのくせ、目だけは異様にぎらついている。
銃兵に一気に接近して斬り捨てたユーミリアを見て、リシュルは目を瞠った。敵兵を斬ると同時に、大尉の剣が折れて飛ぶ。ユーミリアの手は迷いなく、銀色の剣に伸びる。躊躇なく抜きはなって、敵兵にとどめを刺した。
これは使いません。お守りだから──。
そう言っていたユーミリアを思い出す。
「少佐、どうかしましたか」
吹っ切ったか、とリシュルは直感する。ユーミリアのしゃべり方や声はいつもと変わらない。赤く濡れた刀身が、ユーミリアの瞳と同じように妖しく光った。
「中佐が左翼を立て直しています。大尉には右翼を任せると……」
「では後方に戻って右翼部隊に合流します」
踵を返して、ユーミリアがリシュルの隣をすっと通りすぎる。恐ろしく濃い、血の臭いが鼻をついた。
「少佐?」
首をかしげる仕草も普段どおりだ。いつも見ている大尉と変わらないというのに、何かが違う。そう思う自分がおかしいのか。否、ユーミリアは変わった。その証拠にお守りだと言っていた剣を自ら抜いた。
リシュルがかすかに頭をふった瞬間、砲弾が飛んできた。先ほど銃兵が隠れていた付近に着弾する。
激しい衝撃と共に鋭いものが飛んでくる。
最初は、とうとう雨が降ってきたのかと疑った。
リシュルはその場に立ち尽くしたまま、てのひらを天に向けた。血が着いている。
「少佐」
背後からユーミリアの声がして、リシュルは振り向く。雨ではない。降ってきたのは釘だった。いくつも身体に食いこんでいる。大砲の弾に釘を仕込んでいたのだろう。着弾と同時に吹きとばされた木片も、いくつか混ざっている。
──どうも、やられたらしい。
リシュルが自嘲した瞬間、たん、たたん、と乾いた音が耳を刺した。銃弾が頬をかすめた跡が熱い。腹も何箇所か同じ熱を帯びているが、意識しようとすると身体が逆に冷えていくような気がした。
「リシュル少佐……」
ユーミリアと目があった。ひどく静かな顔をしている。
──ああ、やっぱりこいつは変わった。いつもなら、きっと大声で叫んだだろうに。
でもそれでいい。戦場では、それでいい。
「大尉……は、右翼部隊へ。それからちゅうお――」
銃声がさらに響いて、リシュルはユーミリアに押し伏せられた。
「早く後方へ。手当てさせます」
ユーミリアの声にリシュルは首を左右に振る。
「これは助からん。捨てていけ」
沈黙が返ってくる。リシュルはゆっくりと立ち上がった。敵を引きつけなくてはならない。
「……忘れません」
ユーミリアが低い姿勢のまま、後方へ向けて走り出す。
銃声が再び戦場に轟いた。倒れるわけにはいかない。倒れれば、次はユーミリアが狙われる。
リシュルは王国兵に近付いて剣をふるう。手ごたえはあるが、まるで力が入らない。大きく息を吸いこんで、腹に力をこめる。血が吹き出すのも構わずに斬りつける。振り下ろした剣を止めるために力をこめる。手が滑る。力が入らない。
「提督、こちら側にはしばらく来ないでくださいよ」
リシュルは鼻で笑う。死に際は皆こんなものだ。敵兵がおびえながら突撃してくるが、それを払いのける力も、リシュルにはすでに残されてはいなかった。
デオフィル・リシュルは己の腹にあいた穴から勢いよく血が飛び出しているのを見て、膝から崩れ落ち、そのまま絶命した。




