第八章 冥龍吠ゆ 第三話
階段をのぼる途中、シャンデリアが頭上で揺れるホールをあおぐ。ユーミリア・ユグドラシルは辺りの気配をうかがった。部屋の中には気配があるが、外には誰もいない。階段を上がりきって、ロイス・ロッシュが療養しているという部屋の前に立った。
帝国陸軍司令官ロイス・ロッシュが血を吐いたという噂は、瞬く間に広がっていた。その間も何度かロイは兵の前に姿を見せたが、病気のことを無視して明るくふるまう姿は、逆に帝国兵に痛々しさを感じさせた。後方で指揮をとっているとはいえ、司令官の様子は著しく士気を低下させる。帝国陸軍にとって、それほどロイス・ロッシュは大きな存在だった。
ユーミリアは扉をノックしようとして逡巡する。何度も手が迷う。
──もし、ロッシュの病状が悪かったら?
帝国兵たちの間でささやかれる噂は、ユーミリアの耳にも届いていた。もしも肺の病気だったら血を吐くなんて末期の症状だ、それほど長くは生きられないだろう、もし中佐が亡くなったら、スォードビッツで海軍が負けたんだ、もう帝国に後はない……。兵たちの間に走る動揺を、ユーミリアは肌で感じとっていた。
なによりロイが苦しんでいることがつらかった。倒れる直前、ロイといたのはユーミリアだ。
役に立つうちに、俺に死なれちゃ困りますもんね──。
ひどいことを言ってしまった。いつものロイならば、即座に馬鹿野郎と返したはずだ。つらいのは自分だけではなかったのに。
深い自責と後悔の念にとらわれて、ユーミリアはすぐに扉をノックすることができない。病状を聞くのが怖い。けれど聞かないのも怖い。
階段をのぼってくる足音が聞こえて、ユーミリアは思わず柱の影に姿を隠した。洗濯物を抱えた少年が姿を現す。幼年学校の制服を着ている。先ほどユーミリアがためらっていた扉をいともたやすくノックして、中に消えた。
──こんな子供まで、帝国軍にいるのか?
さすがに前線には出ないだろうが、まだ少年と言っても差し支えない年齢だ。少年は仕事を終え、すぐに階段を下りていく。
ロイとはじめて出会ったのは、あれくらいのときだったとユーミリアは思い出した。士官学校の塀を乗り越えたロイに驚いて、敬礼するのが遅れてしまった。彼は「悪い、急ぐんだ」と笑って、あっという間に走って行ってしまった。彼の銀髪が日差しを受けて踊るのを、呆然と見守るしかなかった。再会したのは、闇の神官としてロイの養母であるアルベルティーヌの葬儀を手伝ったときだ。それから親しくなって色んな場所に連れまわされた。ロイへの恋文を預かったり、試験のコツを伝授してもらったり、悪い遊びを教わったりした。
当時はこんな日が来るなんて考えてもみなかった。隣にアリアがいて、ロイがいるのが当然だった。実技や勉強の合間に街を歩いて、日の光の下で笑いあえることがどれだけ平和だったのか、今となってはよくわかる。
かつて自分の過ごした日々が足元から崩れ落ちていくようだ。戦争はすべてを変えてしまった。
今すぐ階段を駆け下りて、少年に家族の元へ帰るよう説得したい思いにユーミリアは駆られた。けれどもそれができない立場にいるのだということを、ユーミリアはよくわかっていた。
戦局はまちがいなく、悪化する。
兵は指揮官の小さな動きや言葉から戦況を感じ取って、反感や恐怖を胸に抱く。ロイはそれを感じさせなかった。他の人間なら反感を買うようなことでも、ロイがやると「馬鹿だなぁ」と笑って許せてしまうのだ。負けても次の策を提示して、帝国兵たちに夢を抱かせた。士気の低下を防いできたロイの功績は大きい。それは逆に、ロイが倒れればどこまでももろいということだ。
──今のロッシュに、これまでと同じことを求めるのは酷だ。
ユーミリアは黙って階段に向かう。逃げてばかりだという自覚はある。けれども恋人につづいて親しい友人まで亡くすかもしれないと思うと、聞きたくなかった。聞かずにいれば、ロイの病気がなくなるというわけでもないのに。
──今の自分にできることは、前線を守ることしかない。
「もう粥は食い飽きた!」
ユーミリアが階段に足をかけたところで、部屋の中から叫び声がした。ロイス・ロッシュだ。これまで沈みこんでいた気持ちが一気に晴れていく。妙におかしかった。
笑いながら、顔を部屋に向ける。デオフィル・リシュルが廊下に顔を出していた。目が合った瞬間、やっぱりいた、という顔をされた気がして、ユーミリアはばつが悪かった。リシュルは剣客としても優れている。気配を読まれていたのに違いない。
「このワガママな中佐は、残念ながら私の手に負えません。大尉、お願いできますか」
「なんだ、ユーミリアがいるのか。少佐の話は退屈だ。頼むから変わってくれ」
あなたに合わす顔がなくて迷っていたのにと、ユーミリアは戸惑う。今までのことも忘れて呆れてしまう。苦笑して素早く廊下を進み、部屋の中に入る。ベッドと衣装入れ、脇机と鏡がある。帝国軍が借りる前は寝室として使われていたらしい。入れ替わりにデオフィル・リシュル少佐が部屋から出て行った。
「具合はどうですか?」
迷っていたときと比べて、心が晴れやかになっていくのが感じられた。
「胃に穴が開いたらしい」
「は?」
ベッドに寝たままのロイはあっさりと、ユーミリアが一番聞きたかった病状について切り出した。
「医者によると気苦労がたたって胃に穴が開いたとか。ああ、天下のロイス・ロッシュともあろう者がみっともない」
ベッドの上で顔をおおって照れている。ユーミリアは呆れ果てた。
「胃に穴、ですか? 結核とかでなしに」
「お前、今バカにしたな! 胃潰瘍だって立派な病気だ! 死ぬときは死ぬぞ!」
「そりゃあ、そうですけど」
なんと返していいものかわからずに口ごもっていると、ロイが急に真剣な顔を見せた。
「……悪かった」
なにが? と問う暇もない。ロイはすぐに次の話題に行こうとしている。照れくさいのだ。わかっているから、ユーミリアもたずねない。長年の付き合いだ。
──悪いもなにも、あなたが言ったのは本当のことですよ。
そう言いたいのをユーミリアは飲みこんだ。いまだにロイの言葉を消化しきれてはいないから、言えるはずもない。消化するだけの時間も戦場にはないから、きっといつまでも言えないままだろう。
「ユーミリア、前線をお前とリシュルに任せたいんだ」
黒髪の副官は、黙って上官の言葉にうなずく。
「俺が倒れたって噂、味方はほとんど知ってるんだろう? いくら顔を出しても士気が上がらないのはそのせいだ」
「はい。肺結核だという噂が流れていますから」
脇机の一番上の引き出しから地図を出して広げ、かけ布団の上に広げる。イスハルの地図だった。
「だったら敵にも知れ渡ってると思っていいな。近いうちに、王国軍が攻めてくる。悪いがユーミリア、前線で食い止めてくれ。……本当は今のお前に前線を任せたくないんだが……イスハルが落ちればこの先、帝国はかなり危ない橋を渡ることになる」
「……はい」
内容が内容だけに、深刻にならざるおえない。ユーミリアはごくりとつばを飲みこんで、ロイが指差す地図をじっと見る。いくつかの地点をロイが指差していく。敵と味方の位置だ。
「一応戦場には出るし、胃潰瘍だって発表もするけど、悪い噂の方が人の心に影を落とすだろ。なかなか士気は上がらないと思うんだよなぁ。そこで凄腕の剣客、ユーミリアの出番だ」
「構いません」
「くれぐれも言っておくが」
ユーミリアは顔を上げる。ロイの顔色は普段より少し、青ざめているように見えた。
「お前が疎ましいから前線に出すんじゃない。できるだけ、死ぬな」
絶対にとは言わないのだなと、ユーミリアは唇を引き結ぶ。それほど今回の戦いが厳しいということだ。先ほど自分が考えていたことを思い出して苦笑する。
兵は指揮官の小さな動きや言葉から戦況を感じ取って、反感や恐怖を胸に抱く──己が上官をどれほど頼りにしているのか思い知った。きっと帝国兵たちもそうだろう。他の兵には決して見せない顔を、ロイが自分に見せてくれている。その信頼に応えなくてはならない。
「できるだけ死なないようにします」
口にした言葉とは裏腹に、ユーミリアの内で死への憧れが生まれている。思考を止めることで忘れているだけであって、アリアを失った現実が変わったわけでもない。死んだ人間のために敵を殺すのかというロイの言葉を忘れたわけでもない。
そこに戦場があるから戦うだけだ。戦う理由など、ユーミリアにはもうない。
死んだ人間のためにふるう剣が、憎悪と復讐を乗せて敵兵の命を絶つ。断末魔の悲鳴の向こうで誰かが涙し、悲しむさまを思い浮かべるのはつらい。いつだって、死体の向こうで泣いているのはアリアだからだ。
アリアを苦しめて、死んだ後も悲しませて……、一体彼女に何をしてやれるのだろう。
進むために剣をふるう。そのたびに死体は増える。次第に死体が己の姿に見えてくる。いっそ死んでしまえば楽なのかもしれないが、これ以上上官に心配をかけてはいけない。そう思うから、口にはできない。
「約束だからな。頼りにしてる副官に死なれたら、こっちが困るんだよ」
ロイに見透かされないことを祈って、ユーミリアは手短に敬礼をして部屋を出た。
準備を整えて、その日の夜には前線へ出たが、一度兵の間に広がった動揺はそう簡単に収められるものではなかった。ロイの本当の病状を伝えても、誰もが「もしかしたら」と思っている。
表向きは納得している兵に向けて何度も同じことを説明するのは気がひけるし、言い訳をしているようにしか見えないだろう。ユーミリアは仕方なく、兵営で耐えた。針のむしろに座るような気でいるうち、三日が過ぎた。
前線に近いテントから顔を出して、ユーミリアは空を見上げる。空がほの暗い。懐中時計を出して時刻を確認する。いつもなら日が昇るはずの時間をとうに過ぎていた。空を覆う雲は黒く、今にも雨が降りそうだ。見張りの者に敵軍の様子をたずねるが、あちらの動きはないらしい。
ユーミリアは深いため息をつく。それを聞いて、同じように前線に出てきていた海軍少佐デオフィル・リシュルは鼻を鳴らした。
「前線の指揮はあなたに任せられている。そんなことでは士気が下がる一方です」
「ため息くらい、見逃してくれませんか」
「兵は敏感です。あなたは剣客として一流でも、指揮官としては三流だということを見抜いています。だからせめて、胸をはっていただきたい」
リシュル少佐の言葉に耳を貸さずに、ユーミリアは火薬を点検する指示を出す。雨が降るなら火薬が湿らない場所に避難させなくてはならないし、大砲はそこから動かすことができない。天気が崩れないのを祈るばかりだ。
死への憧れは、三日経っても消えていない。泥沼に足をとられて、前に進めない状態でもがいているのと大差ない。足場が目の前にあれば少しは違うのかもしれないが、見渡す限り底なしの泥沼が広がっているようなものだ。その中でもがいていると、なぜそうまでして進もうとしているのかがわからなくなる。進むのも戦うのも、きっと生きたいと思っているからだろう。それなのに前線を任された自分は、どこかで死を望んでいる。
瞳に暗い光をたたえたユーミリアを一瞥して、海軍少佐はぽつりとつぶやいた。
「お疲れですか」
ユーミリアは薄く笑って返す。
「あの上官が倒れるほどですからね。疲れるのは、仕方のないことです」
「司令官殿は笑っていても腹の中で苦しんでいるような人ですからね。本当に苦しんでいることは話してくれないでしょう? 言ったとしても、わざとさらっと話す。だから我々は、大したことがないんだと思ってしまう。もっと信頼してくれれば、こちらも手間が省けるんですが」
「本当にその通りです。もっともロッシュ中佐の背負っているものは相当重いでしょうから、俺には支えられないでしょうけど」
「荷が重いのはわかりますがね、誰かが聞いていたらどうするつもりです」
リシュル少佐が憮然としても、ユーミリアは表情を変えない。
「誰もいませんよ。確認してから話してます」
「やれやれ。指揮官のくせに弱気ですね」
ロイがいかに優れた指揮官であったか、嫌というほど思い知らされている。その代わりを自分が務められるとは、ユーミリアには思えない。生まれつき人を惹きつける上官に敵うはずがない。
「いいんですよ。俺はどれだけがんばっても、我が上官殿にもあなたにも敵わないと思うから。まったく、あなたが陸軍だったらよかったのに」
思わずもれた本音に、リシュル少佐は煙草をくわえたまま唇の端で笑った。
「それは困る。ロイス・ロッシュの後任なんて荷が重い」
「本音が出ましたね」
精悍な顔がにやりと歪むのを、ユーミリアは静かにながめた。ユーミリアの苦しみなど、リシュルはすでに割り切っているだろう。うらやましい。
「おや、本音がご所望ならいつでも聞かせてあげますよ。もちろん、人のいない場所でね」
本当にリシュルが陸軍だったらよかったのにと思う。けれども、現実はそうではない。
──今ここにいる兵の命は、ロイス・ロッシュでもデオフィル・リシュルでもなく、自分が預かっている。
だったら精一杯、できるところまでやろう。死ぬのはそれからだ。
「遠慮しておきます。凹んでる時間なんてありませんから」
「はは、見事な状況判断です。たしかに今はそのときではない」
リシュル少佐は肩をすくめて大砲の台に軍靴を乗せる。靴の裏についた土の湿り気を確かめて、空を見た。ユーミリアもつられて空を見上げる。相変わらず空は暗く、光が差す気配はない。
「逃走兵がでたら、迷わず斬りなさい」
ふとつぶやかれた海軍少佐の声に、ユーミリアは表情をこわばらせる。
「何を……」
「今回の戦いでは逃走兵がでます。防衛線を維持するためにも、逃走兵は斬りなさい。撤退命令が出ない限り、一歩も退いてはいけない。一人逃がせばあっという間に味方は総崩れになる」
海軍少佐デオフィル・リシュルの眼光は鋭い。その声は地の底から響いているようだった。己の良心を捨てろという悪魔の声にも聞こえる。
「俺の役目はイスハルを守ることです。一兵たりとも無駄に死なせるわけにはいかない」
「戦場はそれほど甘くない。防衛線を破られたら一気に攻めこまれますよ」
できれば敵も斬らずに戦いを終わらせたいと思っているほどなのに、味方を斬るなどと──。
反論しようとして口をつぐむ。前線を任された人間が口にしていいことではない。
自分に任された仕事がどれほど大きなことか、今になって思い知った。味方であろうが切り捨てる箇所は切り捨て、助ける箇所は助け、ただ目的に向かって駒を進める。策を決めるとはそういうことだ。
アリアの顔がちらつく。誰かが死ねば、誰かが悲しむ。そんなことはわかっている。
何度も反論しようとして言葉を飲みこむ。そうこうしているうちに、遠くで地響きに似た音がした。
顔を上げる。薄暗い空を引き裂くように、黒い弾丸が迫ってくるのが見えた。
「来ましたね」
思わず浮かんだ弱音を頭の隅に押しやって、ユーミリアは戦闘前の、まだ比較的清浄な空気を大きく吸った。




