第八章 冥龍吠ゆ 第一話
商業都市スォードビッツから出た戦艦セラフィナイト号は、風を受けて大海原を進んでいた。潮の混じった風に赤い髪が揺れる。カイルロッド・フレアリングは戦艦セラフィナイト号の甲板から、艦橋を振り返った。帝国海軍の粋を集めて建造されたセラフィナイト号は、今や王国海軍の旗艦となっている。
──強奪しておいてよかった。
カイルロッドはクラウスの慧眼に舌を巻いた。冷徹で頭も切れる。敵にはしたくない相手だ。
数日前、帝国海軍旗艦プレナイト号の率いる船団がスォードビッツ近海に現れた。カイルロッドは今朝着いたばかりだから実際に見たわけではないが、激戦だったというのは容易に想像できる。王国海軍の船は三隻も沈んでいたのである。暗くなりがちな王国軍兵士たちを、カイルロッドは明るい声で励ました。
「王国軍の船は元々商船だろう? まともな軍艦じゃないんだから、苦戦するのは当然だよ」
軍艦は建造に長い時間がかかる。王国軍の軍艦を建造している間に、帝国への反乱計画が露見しかねない。そういった事情もあって、王国海軍は装甲を厚くした改造商船を軍艦代わりに使っている。
カイルロッドは士官から海戦の様子を聞く。商業都市スォードビッツ近海に現れた帝国海軍は二隻だったそうだ。王国海軍の戦闘準備が整った頃、帝国海軍の左翼をになっていたロードナイト号がプレナイト号から少し距離を置いた。王国海軍はこれを敵を分断する好機と見て前進。帝国海軍少将、アルフォンス・クーベリックの計略に見事かかることとなった。
王国海軍はロードナイト号とプレナイト号のすき間に入りこもうとしたが、プレナイト号にかく乱されて失敗。後方にいたロードナイト号から集中砲火を浴びて沈没した。味方の救出に向かうべく前進した一隻も、装甲を厚くしたとはいえ元は商船、救出はかなわず、これも沈んだ。帝国海軍が太陽を背にしていたせいもあり、王国側の大砲はなかなか当たらなかった。味方の船の上に白旗が掲げられたのを見て、王国海軍はすれ違いざまに攻撃をしかける作戦へと変えたのだという。
「回頭している間に攻撃されただろう?」
昨日の作戦を立てたという士官は目を伏せた。結果はカイルロッドの予想通りだった。
「耐久性の低い王国の船では、大砲の撃ちあいには耐えられないよ。何隻沈んだ?」
「三隻です。この船も損傷を受けました」
カイルロッドは唇を噛んだ。プレナイト号は煙幕をはりながら、セラフィナイト号に船体を沿わせ、次から次へと大砲を打ちこんできたのだという。
「まるでコバンザメだな。捕捉しきれなかったわけだ」
「申し訳ありません……」
セラフィナイト号にまで傷をつけられているとは思ってもみなかった。王国海軍もロードナイト号を沈めているが、プレナイト号を沈められなかったのは痛い。王国の有利は変わらないというのが、小さな救いだろう。
悲痛な顔の士官に、カイルロッドはにこりと笑ってみせた。
「原因追求はあと。今はやるしかないよ」
帝国海軍はおそらく短期決戦を狙っているはずだ。どこを本拠地にしているかはわからないが、スォードビッツは王国軍が抑えている。敵はプレナイト号一隻だ。船の質も量も、王国海軍が勝っている。
──こちらは長期戦に持ち込もう。
カイルロッドの脳裏に、いくつかの戦術が思い浮かぶ。陸戦の指揮はからきしだが、海の上なら話は変わってくる。思い浮かんだ作戦の中から、使えそうなものをピックアップしていく。
「セラフィナイト号は直した?」
「いえ、時間がなく……」
「そう、仕方ないね」
敬礼したままの士官に、カイルロッドは笑ってみせた。敵艦は戦艦とはいえ、小さい。三隻も沈められたのはつらいが、港をおさえているのは王国軍だ。改造商船なら、また増やすことができる。
海原を駆けてきた風がカイルロッドの頬をなでる。カイルロッドはセラフィナイト号の進む方角に目をやった。波は静かにうねり、日の光を浴びてきらめていた。
「フレアリング将軍! 何でこんなところに!」
カイルロッドは思考を破られて目を丸くした。甲板へと副将が駆けてくる。
「久しぶり」
軽く右手をあげて笑いかけると、噛みつかんばかりの勢いで怒鳴られた。
「皇都で休養してください! 作戦本部の意向を無視してどうするんです、将軍は負傷されているんですよ!?」
「大丈夫だよ」
答えると、思い切り右肩を叩かれた。身体中にどっと脂汗があふれる。こらえきれず、苦痛に顔をゆがめると「どこが大丈夫なんですか!」とさらに怒鳴られた。
「後方で休んでいてください。船を港に戻します」
「そんな暇はないだろう? もうすぐプレナイト号のいる海域だ」
言葉につまった副将をよそに、カイルロッドは先ほどかいた脂汗を拭った。
「右肩を怪我した俺なんて、陸ではからきし役に立たないってことさ。参謀殿の許可もおりてる」
陸から海上へ攻撃をしかけるのは難しい。砲弾を遠くへ飛ばそうと思えば、砲身はどうしても長く、重たくなってしまう。そうなると地面に固定せざるを得ない。一箇所で動かずにいたら、帝国海軍から集中砲火を浴びるのがオチだ。
ざざん、と懐かしい音が聞こえて、カイルロッドは目を細くした。いつも聞いていた潮騒だが、実際に船の上に乗ると少し違って聞こえる。普段なら船酔いがひどくて笑ってなどいられないはずだが、神経が昂っているのか、意外に平気だ。潮風はべたついているが、その香りに身を任せるのは心地よい。後宮とは大違いだ。後宮の臭いは、船の揺れよりも強烈に胃酸を分泌させるものだった。きっと胸が悪くなるのは臭いのせいだけではない。カイルロッドの母、メリル・フレアリングは後宮で自害した。何を見ても、母の非業の死に繋げてしまう。父だけを愛した母は潔い。けれど、もしも母が先代皇帝に目を付けられていなければ──。
あなたの母上一人を差し出せば、いくつもの命が救われた……クラウスがかつて告げたその言葉は、きっと真実だ。カイルロッドは女性が怖くなる。銀縁眼鏡の参謀の傍らにいる、先代皇帝の第二夫人を直視できなくなる。国まで揺るがす女性というものがおそろしい。それは突き動かされる側である男の責任転嫁だな、とカイルロッドは自嘲して、クラウスとのやりとりを思い出した。
「スォードビッツへ行きたいんですか?」
「はい」
香と女の匂いが混ざって吐きそうになるのをこらえて、カイルロッドはそれだけ言った。
皇都で休めとクラウスが言った後のことだ。冷徹な彼にしては珍しい提案だったが、カイルロッドはたてついた。
陸と海との戦いなど、効率的ではない。きっとそれはクラウスも知っている。彼の頭の中では、すでに王国軍の勝利が決まっている。クラウスが考えているのは、その後のことだ。
「海の戦闘は、剣をほとんど使いません。陸から海へ大砲を撃つよりも、オレが海上で戦った方が効率がいいはずだ」
「ふふ、あなたもようやく効率を考えてくれるようになったのですね。あなたがスォードビッツに行ってくれるのなら、とても助かります」
クラウスは空々しく笑った。先代皇帝第二夫人の長い髪に口づけて違う世界を見たまま、血生臭い世界を造りだしていく。
「ハレイシアさんにお願いしようと思っていたんですが……」
クラウスは、ハレイシアに負け戦をさせようとしている。カイルロッドは直感した。
ハレイシア・デューンが集めた民衆の気持ちを国王に向けさせるために、わざと勝率の低い戦をさせるつもりだったのだろう。民衆には、ハレイシアよりも王を選んでもらわなくては困る。戦下手な将軍というレッテルさえ貼ることができれば、ハレイシアの人気も自然に落ちる。イスハルでの敗北は、クラウスにとって渡りに船だっただろう。
カイルロッドはハレイシア・デューンを思い出した。氷の美貌と言われ、いつも涼しげだった瞳は、最近では伏せられていることが多い。物憂げだった。きりりとしていた肩は落ち、身体がいっそう細くなったように思われた。あまりに危うげで、そのまま倒れてしまいそうに見えたから、声をかけた。大丈夫かと尋ねたら、自嘲気味に笑われて「それは私の台詞だ」と返された。
休んだ方がいいと声をかけると「君の方が疲れているだろう」と言われた。後方にいるのだから休めばいいというのに、ハレイシアは自分を追い込むように仕事をこなしていた。それはどれもクラウスが用意したものだ。民の前に姿を出し、握手し、ときに労い、話を聞く。皇都の民はハレイシアを受け入れつつあった。憂いを帯びた悲劇の女将軍は、並の精神力では抗いきれぬほど美しかった。民は簡単に心を開き、優しく話を聞いてくれるハレイシアに魅了された。
──まだ必要としてくれる人がいる。私はそれだけで嬉しい。
そう語る彼女に何かが起きたのは確かだ。けれどもそれを尋ねることは、カイルロッドにはできなかった。ときおり伏せたまつげを瞬かせる女は、耐え切れなくなった苦痛を吐き出すように重いため息をつく。海を臨む商業都市スォードビッツでの戦いは、その表情をますます曇らせるだろう。
「お好きにどうぞ」
クラウスは静かに笑ってみせた。彼がなによりも欲したものは、すでに彼の手の内にある。他には興味がないとばかりに──その実、内乱の果てを予測して策を立てているのだが──クラウスは、エルザの身体に絡めた腕を解かない。
「あなたがこんなにあっさり認めてくれるとは、思ってもみませんでした」
カイルロッドが内心を吐露すると、クラウスは「健闘を祈ります」とだけ返した。カイルロッドは後宮の臭いから逃れるように、クラウスに背を向けた。
──最初から、オレをスォードビッツに遣わせるつもりだった?
弧を描いたクラウスの瞳からは何も読めなかった。ただ、手の内で踊らされているように思えてならない。彼がエルザを抱き寄せていたのは、カイルロッドの行動が想定の範囲内だったからだろう。
──クラウスは、戦いに興味がなくなったのか?
カイルロッドは頭を振って、潮の匂いを肺一杯に吸い込んだ。クラウスの考えることはよくわからない。考えるだけ無駄だ。舳先が目に入る。女神像は天をあおぎ、胸の前で両手を組んでいた。白い身体は波に洗われ、ところどころ色を変えていた。
「敵艦発見!」
波しぶきが甲板に降り注いで、カイルロッドは我に返った。余計なことを考えている暇はない。いくつもの足音があわただしく過ぎていく。カイルロッドはブーツを鳴らして、副将の元へ走り寄った。
「状況!」
「敵艦プレナイト、距離約六〇〇〇! 北北東!」
射撃手が大砲の角度をあわせる。望遠鏡をのぞきこむと、懐かしいプレナイト号の姿があった。帝国海軍にいた頃、港町クロムフで何度も見送った船だ。見習い騎士──その名とは裏腹に、帝国海軍の主力として三年は働いている。その分、老朽化も激しく、セラフィナイト号完成と共に裏方に回る予定だった。戦艦とは言うが、そこまで大きいものではない。
海を波しぶきで白く染めながら、セラフィナイト号が進んでいく。新旧の主力戦艦対決だ。
頭が左右に揺られて、気持ち悪くなる。腹に力を入れてこらえると、カイルロッドは左腕を構えた。本来なら右手で指揮をとるものだが、右肩は学問都市イスハルでの戦いで負傷していて動かすことができない。右手をにぎりなおすと、じっとりと汗ばんでいた。
「プレナイト号のマストを集中的に狙え! 航行不能にする! この前の借りを返すんだ!」
カイルロッドの声が伝令管を通って、セラフィナイト号のあちこちに届く。歓声が上がった。どうやらこの船には負けん気の強い連中が集まっているらしい。
カイルロッドは荒々しい海風に目を細めながら、時が来るのをじっと待つ。
「プレナイト号停止しません! 距離四〇〇〇! そのまま接近してきます!」
「勝負に出たな」
セラフィナイト号よりも小さなプレナイト号は、小回りが利く。接近戦にもちこんで一気にかたをつけるつもりだろうが、そうはいかない。
「セラフィナイト号、迅速に距離をとれ!」
「できませんっ」
巨大な船は潮の抵抗をまともに食らってしまう。プレナイト号は、立ち往生しているセラフィナイト号を防波堤にして、船首側へと接近してくる。
「近すぎる!」
船員たちが絶望の声を上げたのを、カイルロッドは大きな声でかき消した。
「全砲門開け! 撃て!」
叫んだ瞬間、敵艦から弾が飛んでくる。セラフィナイト号の腹に当たって、船体が大きく揺れる。カイルロッドはこみあげる胃液をこらえながら、敵艦をにらみつけた。セラフィナイト号の全九門の大砲が火を噴く。そのたびに焦げた匂いと煤が散る。
「敵も無傷じゃない! とどめを刺せ!」
叫んだ直後に口元を手で覆う。船のへりまで走って、海に吐き出した。船酔いがひどい。カイルロッドは自分が海軍に向かないことはわかっている。けれど、ここで退くわけにはいかない。
「これで敵艦を沈められなかったら、セラフィナイト号の名折れだ!」
今すぐ戦いを終わらせることは不可能だ。しかし、早く終わらせることは可能だろう。
自分のような思いをする者を、一人でも少なくしたい。
『あなたもようやく、効率を考えてくれるようになったのですね──』
クラウスとカイルロッドの目指すものはまったく違う。けれども手段は同じだ。
ならば今は、鬼になろう。恩師であるアルフォンス・クーベリック提督を敵にまわしても、自分の進むべき道を行こう。
思わずにぎりしめた双眼鏡が汗で滑る。その瞬間、艦に衝撃が走った。至近距離から撃たれた大砲が、猛スピードで直撃した。カイルロッドは顔を上げる。
「艦橋か!」
大砲が当たったのは艦橋だった。艦長を含め、軍艦の首脳部はそこにいることが多い。艦橋を落とせば必然的に作戦系統は乱れる。副将が無事であることを祈りながら、カイルロッドは艦橋の奥を見た。動く者がいる様子はない。依然、敵弾はセラフィナイト号の前方から飛んでくる。カイルロッドは右腕を固定していた固定布をほどいてかなぐり捨てた。安穏としているわけにはいかない。
小さな標的を、セラフィナイト号の九門の大砲が追う。プレナイト号は全速でそれらをかわしながら、セラフィナイト号の船首方向へとまわっていく。
大音響が鼓膜を揺るがした。音が遠く聞こえる。スローモーションのように、王国兵士が吹きとばされていくのが目に入った。吹き飛んだ足と、飛び散る鮮血。兵士の煤にまみれた顔が歪んで、なにか叫ぶ様子が見えた。
カイルロッドは顔から血の気が引くのを感じた。騒いでいた心が静まっていく。焦りは必要ない。
剣をふるうときと同じだ──。
カイルロッドは足早に主砲へと駆け寄り、砲手に命令を伝えた。
「主砲、あと六発でプレナイト号を沈めろ。狙いは機関部だ」
はっと顔をあげて敬礼した砲手に、カイルロッドは笑いかける。こういうとき、自分が帝国海軍少将アルフォンス・クーベリックの部下であったことを思い知る。アルフォンス・クーベリックのしてきたことをそのまま部下にしている。己の身に染み付いているのだろう。
「苦しい中にあってこそ笑え。笑えたなら、なんとかなる」
砲手の拍子抜けしたような顔が苦笑に変わった。
「よし、大丈夫だ。セラフィナイト号が木偶の坊と呼ばれるかどうかは、君にかかってる。プレナイト号のことは任せた」
砲手の敬礼を見送って、そばにあった伝令管に向かって叫ぶ。頬がべたつくのは潮風のせいか、波飛沫を受けたからか、はたまた汗なのか、区別がつかなかった。
「主砲があと六発でプレナイト号を沈める! 艦内にいる連中は甲板に集合!」
主砲の傍にいると、発射されるたびに船が一瞬ぐっと縮んで、力をためて、前方に放出する……そういう動きをするのがわかる。プレナイト号が傾いたのが見えた。
最後の一撃とばかりに敵弾が唸りを上げて突っ込んでくる。セラフィナイト号の腹に直撃した。カイルロッドは舌打ちをして、憎い敵をにらみつける。プレナイト号の上に白い旗がゆるゆると上がっていく。同時に伝令管から報告が入った。
「先ほどの被弾、弾薬庫付近です!」
「最後の一撃の直後に白旗ね。あちらも負けられないってことか」
じきに弾薬庫に火がつくとカイルロッドは悟った。船が内部から爆発するのも時間の問題だ。甲板にはずらりと王国兵が集まっている。血と硝煙と潮の匂いが混ざって、どれほど戦闘が壮絶であったかをカイルロッドは今さら実感する。副将の姿は見えない。胸の奥がちくりと痛むが、今、感傷に浸る余裕はない。
「総員退艦。これ以上の戦闘は不要だ。敵艦もすぐに沈む」
敬礼する王国兵たちの向こうに、沈み行くプレナイト号が見えた。灰色の煙がたなびいている。敵味方問わず、兵士が次々と海へ飛び込んでいく。脱出用の小船に兵士たちが群がる。
空は煙を吸い込んだように低く曇っていた。
カイルロッドは、部下がいた甲板に向かって敬礼する。きらめく波の間に、海に避難した兵の頭が上下している。少しして、脱出用の小船がやってくる。脱出艇の数は足りているらしい。それほど戦死者が出たということだろう。
カイルロッドは甲板に向けて敬礼したまま、奥にそびえる帝国海軍旗艦、プレナイト号を見た。背を伸ばし、顔を上げて、かつての上官、アルフォンス・クーベリック提督に向けて敬礼する。海を隔てた向こうにかつての上官がいる。姿は見えないが、確かにそこにいる。
カイルロッドは左手を下ろして苦々しく笑うと、セラフィナイト号を後にした。




