第七章 海龍暴る 第八話
砂煙のまきあがる戦場で、ユーミリアは目を細くした。隣には陸軍中佐ロイス・ロッシュと、海軍少佐デオフィル・リシュルがいる。リシュルを遣わしたのは海軍少将アルフォンス・クーベリックだ。海上から艦砲射撃をするには、陸の状況をくわしく知る必要がある。のろしを上げて海に知らせる要員として、リシュルが派遣されたのは名目でしかないだろう。リシュルほど実戦に秀でた士官をよこしたのは、陸戦に使えということだ。
草原を大砲が飛びかい、塹壕に駆け込んだ兵士の頭上で木々が吹き飛んでいく。積み上げた土嚢の奥から射撃がはじまる。硝煙の臭いが鼻をつく。射撃兵たちはすすのついた顔をこする間もなく、つづけて鉄砲を撃つ。煙幕ができて攻撃が小休止し、またすぐに銃撃戦がはじまる。
帝国軍はイスハルの街を背に、王国軍は街へ攻め入ろうとする形で戦っていた。
「デューン将軍は皇都に帰られたそうですよ」
ユーミリアは責めるようにロイをねめつけるが、当の上官はあっさりと肩をすくめた。
「まったく、ひどいことをする」
銀髪の男をいさめようと言葉をつづけるが、まったく動じることがない。それどころか笑みさえ浮かべている。
「女は落ちないからいいんだ。それがいくら絶世の美女でもね」
海軍少佐デオフィル・リシュルが呆れたように鼻で笑った。ユーミリアはますます顔をしかめる。ロイのしたことはハニートラップでしかない。敵将を口説き落として自分たちが有利な場所に陣取るだなんて卑怯だと、ユーミリアは思う。
「ユーミル、そんなくだらないことを気にしている暇があるなら行ってこい。そろそろ斬りこみがはじまるぞ」
司令官の命令には逆らえない。敬礼して踵を返すと、後ろから底意地の悪い海軍少佐の声が聞こえた。
「中佐殿、あなたのことだから、女一人とイスハルからの応援を天秤にかけたのでしょう?」
「それは買いかぶり。あまり惚れられても困る。まあ、イスハルからの応援を考えたのは確かだよ。こっちだって兵の命がかかってる。やるからには勝たなきゃいけない」
ロッシュが非常時に能力を発揮するのは知っていた。最近はリシュル少佐と気があうのか、よく一緒にいるのを見かける。二人を頼もしくは思うが、どちらも倫理観に問題があるような気がして、ユーミリアは釈然としないまま前線に向かった。
ロイの言うとおり、中立である学問都市イスハルには帝国派が増えつつある。攻めてくる王国軍から街を守る帝国軍という構図がすっかり出来上がっているのだ。街から支援を受けられるというのはありがたい。補給物資や義勇兵が集まってくる。
ユーミリアは前線に到着すると馬から下りる。帝国軍は軍を薄く広く敷いていた。王国軍は一部を突出させて攻めてくる。射撃兵で囲んで王国軍を消耗させ、その後白兵戦でとどめをさす。王道の戦い方だ。正面の白兵部隊にうまく敵をひきつけなければならない。土嚢の奥から敵の声が聞こえる。銃弾が土嚢に当たって軌道を変えていく。瓦礫を積み重ねただけのバリケードはほこりっぽくていけない。汗ばむ頬に、自然に煤がこびりつく。
ユーミリアは土嚢の上に立って、自分はここだと敵味方に知らせるように大声で叫んだ。
「我々は貴族院の承認も得た正規軍だ! 敵は政権のみならず、先代陛下の命まで奪った天下の大罪人である! 帝国陸軍はこの戦いを弔いと心得ろ!」
銃弾が飛びかう中でそう叫ぶと、ユーミリアは土嚢の後ろに身を退かせる。敵の銃弾がユーミリアの頬をかすめ、奥にいた射撃兵の額を射抜く。倒れた射撃兵の頭をそっとなでて、ユーミリアは土嚢の奥に厳しい視線を向けた。
煙幕の向こうから一際大きな声が聞こえる。どうやら正面部隊に敵をひきつけることに成功したらしい。士官であるユーミリアが正面にいるのだから、そこを狙うのは当然だろう。ユーミリアは突撃兵に待機命令を下す。土煙が収まり、敵兵の姿が見えはじめた。
「射撃兵、一斉に撃て! 後のことは考えなくていい!」
激しい銃声が雨霰となって轟く。敵兵がばたばたと倒れるのが見えた。それでも敵の動きは止まらない。味方の死体を踏み越えて土嚢へと群がろうとしている。
「撃ち方やめ。突撃兵、用意」
伏していた姿勢から立ち上がり、ユーミリアは土嚢を飛び越えた。
「行け!」
ひそめていた息を大きく吸って、ほこりっぽい風を肺に入れる。突撃兵たちは大きな波となって、敵を飲み込むべく向かっていく。あっという間に、辺りに血の臭いが充満した。
「ユグドラシル大尉!」
敵陣から己を呼ぶ声に気付いて、ユーミリアはそちらに神経を向ける。反応しないのは、現場指揮官である自分が集中攻撃を受けるのを避けるためだ。一対一で戦っても負ける気はしないが、一度に何十人もに囲まれるのは得策ではない。現場指揮官が倒されてしまっては、味方の士気に関わる。額を割り、首を斬り、胸を突いて目の前の敵を素早くしとめながら、声のする方へと向かっていく。残像のような銀色の閃光がきらめいた。
「カイルロッドだ! カイルロッド・フレアリングだ! 話がしたい!」
先ほど自分の名を呼んだ人影は、明らかにそう叫んだ。一瞬、敵兵か味方兵かの区別がつかなくなる。どちらだ? と目をこらすが、砂ぼこりにまみれた戦場では判別しにくい。
味方兵が敵将カイルロッドを見つけたのか? いや、違う、あれは敵兵だ──。
ユーミリアが逡巡している間にも、帝国兵が人影に群がっていく。
「敵将だ! しとめろ!」
「指揮官が敵陣にまで斬りこみか? 愚かな!」
帝国兵が口々に叫んでカイルロッドに斬りかかるが、まるで歯が立たない。カイルロッド本人も強いが、両脇を固めているのも歴戦の猛者であるらしい。一度に大勢で打ちかかっているのに、カイルロッドを倒すことができない。
敵将がいる場所はわかっているのに、とユーミリアは歯噛みして駆けだし、カイルロッドと対峙した。
「大尉」
カイルロッドは、ユーミリアに気付いて攻撃を止める。ユーミリアは止まらない。近づいた勢いそのままに剣を振るう。カイルロッドは上段からふり下ろされたユーミリアの剣を払いのけた。
「ユグドラシル大尉、話があるんです」
「今さら話すことなどあるものか!」
瞬時に剣筋を突きに変える。鋭い銀光を放って突きこまれる剣を、カイルロッドは見事にかわした。反撃する気がまるでない。背中を見せるでもなく、逃げに徹する相手を狙うのは骨が折れる。ユーミリアは気迫を込めて、再び右手で胴を薙ぎにいく。
「聞いてください!」
カシンと金属同士のぶつかる音がした。攻撃は阻まれている。
「何も聞くことなどない!」
「あなたの奥方が……アリアさんが、王国兵に殺されました!」
ユーミリアの動きは止まらない。戦場が、ユーミリアの心の動きを鈍くしている。
斬りかかる手はとどまらない。銀光と火花が甲高い音をたてながら踊っている。
「そんな戯言、信じるとでも!」
「俺はそれを伝えに来たんです! アリアさんは亡くなりました!」
「こんな場所であいつの名前を出すな!」
いらだちに顔をゆがめながら、渾身の一撃を打ちこむ。ユーミリアの雄叫びにカイルロッドが目を伏せた。ユーミリアの両眼がその様子に吸い寄せられる。
「本当なのか」
ときに態度は、言葉よりも雄弁である。
ユーミリアは目を見開く。喉の奥から苦いものがこみ上げる。目頭が熱くなる。戦場が静寂に包まれているような錯覚を覚える。大砲の音も、剣と剣のぶつかる音も、断末魔の悲鳴も、号令も、どれもユーミリアには届かない。
「ユーミリア・ユグドラシルか! その命、いただく!」
ユーミリアに隙ができたと見た手練の王国兵が打ち込んでくる。ユーミリアは前進して皮一枚でかわし、王国兵の顔面を剣で両断した。目にも止まらぬ速さで顔半分が飛んでいく。一瞬遅れて血が吹き出した。
「本当なのか」
ユーミリアの煤と砂ぼこりにまみれた顔から、血の気が引いていた。唇がわずかに震える。血刀をぶら下げたまま、カイルロッドをにらみつけている。カイルロッドはユーミリアのあまりの迫力に、唾を飲みこんだ。
「アリアさんは王国兵の探索を拒否したんです。彼らはあなたを捜していた。それで、王国兵が邸内に踏み込んで……」
言葉の途中でユーミリアの姿が見えなくなって、カイルロッドは背筋を凍らせた。次の瞬間、ユーミリアの傍にいた王国兵がどうと倒れた。つづけて、その周りにいた王国兵が倒れる。
「殺したのか」
ユーミリアの表情は先ほど話を聞いたときの表情のまま、動かなかった。敵の返り血を浴びたところだけが熱くて、ユーミリアはまばたきする。全身が麻痺してしまったような感覚だ。
「一振りで三人も……人間業じゃない!」
腰が抜けて座りこんでいた王国兵が叫ぶ。ユーミリアはその胸倉をつかんで持ち上げた。
「お前がアリアを殺したのか」
ぶんぶんと首を横に振る男に向けて、ユーミリアは問答無用で剣を振り下ろす。頭頂部から胸の辺りまで真っ二つに斬られて、王国兵は崩れ落ちた。
「それともお前か」
ユーミリアは駆け出す。胸の奥の苦さはますます広がっていく。次から次へと敵兵を斬り刻むユーミリアの脳裏に浮かんだのは、故郷の景色だった。
鍛治屋が剣を打つ音が聞こえる。それはアリアを想うとき、ユーミリアが真っ先に思い出す音だ。
──幼い頃、鍛治職人に憧れていた。
追い返されても追い返されてもやってくる黒髪の少年を、鍛治屋のじいさんは無視しつづけた。それでも少年はめげなかった。追い返す以外の声を最初にかけたのは、じいさんの孫娘だった。じいさんの仕事のことも、道具のことも、その孫娘が教えてくれた。
焦げ茶の髪を三つ編みにした、少し大人しい女の子。ユーミルと自分を呼ぶその女の子は、彼の大切な人になった。
──あの頃に戻ることができたなら。ずっとそればかり考えていた。それが間違いだったんだ。
永遠に失う前に、気がつけばよかった!
いつか目の前から消えてしまうのだと、いなくなってしまうのだとわかっていれば、ユーミリアはアリアを抱きしめただろう。主従関係でしかないと言われても、はっきりと自分の思いを口にできただろう。そうしてもっと、はっきりした関係を築けたはずだ。
拒まれるのが怖かっただけじゃないのか。
王国兵を斬り倒し、王国側の塹壕を飛び越える。その間も、剣を振る手が休まることはない。
「大尉!」
敵の右肩から胸へ斬りつけ、左胸を突き、胴を薙ぎ、頭蓋を割って突き進む。味方の姿はもう見えない。
『アリアを泣かせるなよ』
二年間鍛治屋に通いつづけたユーミリアに、じいさんがようやく伝えた言葉だ。「アリアに会いに来たのか仕事を覗きにきたのかどっちだ、どっちでもいいがアリアを泣かせるなよ」……じいさんはいつも通りの仏頂面をしていたが、照れくさそうでもあった。
泣かせたくなかったから、ユーミリアは剣を学んだ。自分が守らなくてはならないと思った。
『アリアを幸せにしろよ』
アリアを連れて皇都の士官学校に入るとき、じいさんがかけてくれた言葉だ。認めてくれた。託してくれた。
──それなのに。
幸せに、できなかった!
脇の下から斬り上げると、王国兵は倒れこんで動かなくなった。剣に刺さった死体を、土嚢の上から塹壕に蹴落とす。おびただしい数の死体が積もっていた。
「大尉!」
周りに王国兵の姿が見えなくなったことに気付いて足を止める。振り向くと一人いた。
頭で考えるよりも先に足が動く。飛びかかる。頭上から降ってくる衝撃を受けて、カイルロッドは手を痺れさせた。
「アリアを殺したのは誰だ」
一瞬ひるんだのを隠すように、カイルロッドはユーミリアを蹴りつける。ユーミリアは後ろに飛んで衝撃を削ぎ、すぐに前進する。小さな身体がばねのようにしなった。
カイルロッドは体勢を立て直そうとするが、剣を構える前にユーミリアは迫ってきている。
目の前に強烈な銀の光が降ってくるのに気付いて、カイルロッドが身をひいた。剣先がひっかかって、顎が切れた。
「っ」
構える前に連撃が迫る。次から次へと降る冷たい光に、カイルロッドは歯を食いしばって受ける。ユーミリアは目を見開き、その照準をきっちりカイルロッドに合わせている。
「アリアを返せ」
気迫のこもったユーミリアの声に飲まれて、カイルロッドの足が動かなくなる。
圧倒的な痛みがカイルロッドの身体に入りこんでくる。右肩に突き立てられた剣に、カイルロッドは顔をゆがめた。憎悪に駆られて剣をふるうユーミリアに、かつての自分の姿を重ねたカイルロッドは呆然とした。
「戦場で、大事な女の名を叫ぶんですか」
冷ややかな声に、カイルロッドは我に返った。剣を構えて、ユーミリアの一撃をかろうじて受ける。手の感覚は既にない。
ユーミリアが声の主に視線を向けた。帝国兵だということに気付いて、思わずふるった剣を止めた途端、ユーミリアの首筋に手刀が入った。
「人を殺しながら人殺しの罪を問うとは、愚の骨頂ですね」
その声は海軍少佐、デオフィル・リシュルのものだ。ユーミリアは意識を失う前に抗おうと全身に力をこめる。
「おかげさまで帝国軍の勝利ですよ。深追いはせずに帰隊せよ、上官殿の命令です」
意識が闇に落ちる直前、愛しい少女が稲穂の海ではにかむのをユーミリアは見た気がした。




