第七章 海龍暴る 第七話
皇都からやってきた王国陸軍を、ハレイシア・デューンは学問都市イスハルで出迎えた。使わなくなった包帯で覆われているにも関わらず、槍の穂先のすき間に陽の光が当たると輝く。馬がわずかに身体をこわばらせたのに気付いて、ハレイシアは馬上から首をなでた。馬はそのままゆっくりと進んだ。隣には同じように馬に乗ったラグラス・マーブルがいる。
「なぜここに? 君の存在はアスハトに隠さなくてはならないんじゃなかったのか」
「……皇都は何かと騒がしくてな」
ラグラスの横顔は真剣そのもので、冗談というわけでもなさそうだ。ハレイシアは何かあったのだと悟って、どう返事をするべきか、長く長くためらったのち、ただ「そうか」とだけ言った。
「聞かないのか?」
「聞いたところで答えられないから、濁したんじゃないのか?」
ラグラスの手が止まる。眉間に、市街で有名な三本じわが寄っている。まばたきをしてこちらを見ているラグラスを、ハレイシアは馬上から振り返った。ラグラスがまぶしそうに目を細める。
「そんなに驚くことか?」
「いや……それで会談を要請したのは、どっちだ?」
「どちらからともなくだ。街を戦火にまきこむのは、忍びないじゃないか」
ハレイシアは笑みを隠した。知らぬ間に心が弾んでいる。
これから、ロッシュに会える──。
ラグラスに見えぬように前を向くが、どうがんばっても頬がほころんでいる気がして仕方がない。浮かれそうになる気持ちを落ち着かせた。
「ふん、街を巻きこむのが嫌なら、戦争なんてしなければいいんだ」
「ラグラス」
なんということを、と言葉をつづけようとしたハレイシアの言葉が遮られる。
「双方のパトロンがイスハルにいる以上、会談を開く話になるのは当然だろうな」
それだけ言い残すと、ラグラスは馬の腹を軽く蹴る。石畳と馬のひづめがぶつかって、小気味いい音をたてていく。ラグラスのうしろ姿をながめながら、ハレイシアはゆっくりとまばたきをした。
皇都でよほど何かがあったのだろうか。言葉を濁したラグラスに再び問いかけても、返答は見込めないだろう。
学問都市イスハルの中心部にある商館について馬を下りると、見慣れない馬が一頭休んでいるのに気が付いた。ロッシュの馬だろうかと考えてしまう自分の愚かさを、ハレイシアは理解している。
扉を開けると大きなシャンデリアが目についた。きっとあの銀髪の帝国陸軍中佐には、こういう華やかな場所が似合うだろう。浮かれている、愚かだと思いながらも、自然に足が速くなる。案内人を追い越しそうな勢いで階段を上がって、ハレイシアは会談のために用意された部屋にたどりついた。
「デューン将軍、ごきげんうるわしゅう」
扉はすでに開いていた。商談用に用意された部屋に入って、ラグラスが椅子に座る。その真向かいに銀髪の男が、隣に副官を従えて座っていた。
「……今日はよろしくお願いします」
気のきいたあいさつでもと思っていたのに、何一つ思い浮かばない。握手を求めると、ロイス・ロッシュはゆったりと立ち上がった。
「こちらこそ、どうぞよろしく」
爪の先が触れるだけでも胸が高鳴る。やがて指先、てのひらの感触がしっかり伝わった。動悸が伝わりはしないだろうかと、ハレイシアは思わず握力をゆるめた。
その瞬間に、ロッシュの手はするりとハレイシアの手から抜けていく。
手のひらに残ったぬくもりに覚えがある。あの日起きたことは幻ではない。初めて飲んだ酒に酔っていてぼんやりとしてはいたが、忘れようにも忘れられるものではない。ハレイシアは離した手を、脇でそっと握りしめた。ロッシュの視線はもう、黒髪の副官に向かっている。ラグラスがちらりとこちらを見た気がした。ソファに座ると、ユーミリアが書類を配りだす。
「では、はじめましょう」
ゆっくりと上下していたラグラスの靴の先が、ユーミリアの声で不自然に止まる。帝国側から見ることはできないが、ロッシュに目を奪われているハレイシアもまた、気が付かない。
ユーミリアが次々と番地を読み上げ、ラグラスが地図上にある街と平原の切れ目を指でなぞっていく。ときどきラグラスの手が戸惑うのがわかる。そうかと思うと素早く動いて、地図の地点をぎゅっと指先で押す。その態度をごまかすように、ラグラスは声を発した。
「この線から東はイスハルの街外れだ。ここでなら戦争をしても……」
「実際に見たか?」
途中で口をはさまれたラグラスは顔をしかめる。対するロッシュは悠然と腕組みをしている。
「いや。今朝ついたばかりだ」
「なら、実際見ることを勧めるよ。ここは人が住んでる」
ロッシュの言葉に、ラグラスが鼻で笑う。
「戦いがはじまれば民間人は巻き込まれる。その数をゼロにするのは不可能だ」
ユーミリアが険しい表情でラグラスを見る。それに気付いたラグラスが言葉に詰まる。
「ラグラス!」
激しい音がした。己がテーブルをてのひらで打っていることに、ハレイシアは後から気付いた。
どうしてそんなことが平気で言えるのだろう。戦争に民間人を巻き込むなど、避けるに越したことはない。
ハレイシアはいさめる視線を送るが、ラグラスは言葉を止めない。
「民間人も兵士も命は一つしかない。民間人の命ばかり惜しんでも仕方ない。そんなに殺すのが嫌なら、軍人になんかならなければいい」
しばらく沈黙がつづいた。ユーミリアが書類をめくる音だけが、室内に響いている。ロッシュは先ほどと変わらず腕組みをしたままでいる。
「本気で言っているのか」
ハレイシアがラグラスに詰め寄ろうとしたところで、銀髪の帝国陸軍中佐はようやく口を開いた。
「イスハルの町外れには人が住んでいる。この街には貴族や有力者も多いから、ここに妾や私生児がいないとも限らない。それでもここで戦うか?」
ハレイシアは思わずうつむいた。耳から忍びこむ声は心地よく、うっとりしてしまいそうになる。自分がどんな顔をしているのか、鏡がないから見えなかったが、あまり人に見せられた顔ではないのだろうとハレイシアは咳払いをした。ロッシュの声はつづく。
「このラインから西は戦場にしない。それを約束してもらえなければ、この会談を開いた意味がない。そちらの司令官殿はどうです?」
ハレイシアははっとして顔を上げた。視界に入ったユーミリアが、意見を促すようにうなずいた。
「いかがですか、ハレイシア・デューン将軍」
「異存、ありません」
身体中に力をこめて、ハレイシアは答える。ほんの短い言葉なのに、ロッシュにじっと見つめられると何を言っていいのかわからなくなる。銀髪の中佐はハレイシアの気など知らぬように、すぐにラグラスに視線を移した。
「では、ラグラス・マーブル将軍は?」
「……双方のパトロンがイスハルにいる以上、非戦闘区域を決めるのは当然だろうな」
ラグラスは渋々とそれだけ言った。機嫌が悪い。ときおりハレイシアの様子をうかがっているような気配があるが、目を合わせたくなくて、ハレイシアは手元の地図をじっと見つめた。
「帝国軍は北西に本陣を置くつもりだ。そちらは南西に陣を置きたい。違いますか?」
ハレイシアとラグラスが同時にうなずいた。
「でもそれだと街の西側に寄りすぎる。結果的に街をまきこむことになってしまう。帝国軍か王国軍、どちらかが東側に本陣を構えるのが理想だ。そこで一つ、大将戦としゃれこみませんか」
ロッシュはにっこりと笑った。皇都中の女がとろけると噂される笑みだった。
司令官同士で戦い、勝った方が地理的に有利な西側を拠点にする。この島、ライズランドでは昔から行われている大将同士の一騎打ちだが、まさか自分が戦うことになるとは思いもしなかった。
街外れはわびしい。かつて倉庫にでも使っていたのだろう、レンガ造りの壁があちこちに崩れかけたまま放置されている。木材や石材が積み上げられていて、そこから植物が芽生えるほどだ。
余裕を見せるロッシュを、ハレイシアはじっと見る。大将戦というなら、ハレイシアとロッシュの一騎打ちになる。
──誰でもない、私がロッシュを殺さなくては。
ハレイシアは室内に立てかけられた槍に視線を送る。ロッシュはユーミリアほど剣に秀でてはいない。剣と槍では、間合いの長い槍の方が有利だ。相手を倒せるだけの自信が、ハレイシアにはある。ロッシュの身を案じてか、黒髪の副官が細々と耳打ちをしている。
会談を終えて、広い場所へと出た。晴れた空はどこまでも青く、澄み切っている。
「行くぞ」
「どうぞ」
ロッシュは剣を抜いて身を低くする。ハレイシアは槍を斜め上から構える。
長く伸びた草が、風にたわんだ。
ハレイシアが動く。剣を絡めとろうとする槍の動きを、ロッシュはかわした。そのまま槍を横薙ぎにして、足払いを狙う。前に出ることもできず、ロッシュは後退した。
──私が仕留める。
小さな突きを何度かくりかえすたびに、ハレイシアの束ねた髪が踊る。ロッシュは槍の牽制を剣でわずかに払い除けながら、退いて避ける。かわすばかりで攻撃してくる気配がない。敵が逃げに徹しているから、なかなか当てることができない。壁のある場所に追い詰めようとするが、ひらりと大きくかわされる。
「打ち込んで来ないのか!」
己の声が、肌をびりびりと刺す。殺気に満ちている。金属のぶつかる高い音が耳を刺す。その音だけが、やけに大きく聞こえる。
ハレイシアがどれほど殺気をぶつけても、ロッシュはあっさりと受け流してしまう。それどころか、足取りがふらふらとして頼りない。じっと目を見つめて殺気を射る。そのたびに手に力をこめるが、踏みこみが浅い。柄をもつ手が焦る。きっかけを作るように、身体中に力をためた。小さくかがんで、真正面からロッシュをにらみつける。
「ならば、私が行く!」
ロッシュの足が止まった。その顔に笑みが浮かぶ。
警戒する心を抑えて、ハレイシアは槍をふりかぶった。近くでひばりの高い鳴き声がした。槍の間合いへ小さな鳥が飛びこむが、女将軍は決して手をゆるめない。気合と共に胴を大きくなぎはらう。
するりとかわしたロッシュがハレイシアの右側にまわりこんだ。
「ハル」
ひどく優しいその声が、耳元で聞こえた気がした。
──あの夜と同じ声だ。
眼の裏が熱くなるのがわかった。吐く息から力が抜けるのがわかった。視線は逸らさず、ロッシュの姿を追う。
銀髪の中佐は微笑んでいた。先ほどとなんら変わることなく、ダンスを踊るようなステップで近付いてくる。
──私は、この男に勝てはしない。
ロッシュの灰色の瞳の奥は、故郷ハルシアナの冬のように冷たい。あまりの冷たさに、ほんのりにじんだ涙すらも凍りつくような気がする。それは激しい吹雪の荒れ狂う、雪の大地だ。ハレイシアの生まれた街、ハルシアナだ。細い氷の混じった風が容赦なく吹きつける、一年のほとんどを雪で覆われた大地。
──それほど冷たい世界に、お前はたった一人でいるのか?
「お前はバカか!」
ハレイシアの耳に飛びこんできたのは、突き刺すようなラグラスの声だった。思わず我に返る。ラグラスが剣を抜いていた。かばわれたのだと気がついた。羽根が舞っている。ラグラスの足元でがさがさと、もがく音が聞こえる。
──ロッシュはきっと、こうなることを知っていて、私に近づいた。
「あ……」
ラグラスの向こうに見えた銀髪の中佐は微笑んでいた。もしも民間人の命を奪うときが来ても、それが必要なことだと判断すれば、ロッシュはやってのけるだろう。
「決まりですね」
銀色の細い髪が風に揺れる。瞳は銀色にも暗い灰色にも見えた。その姿はまるで、絵本から抜け出した王子様のようだ。
あの日と同じ声だ。あの日と同じ顔だ──だから、余計に始末が悪い。
身体の隅々から熱が奪われたように、ハレイシアは動けずにいる。
ロッシュが短く息を吐き出して、肩をすくめた。
「閨でのことなんか思い出すから。……立場を忘れて助けてくれるような男がいて、よかったですね」
「貴様!」
ラグラスの怒りに、ロッシュは歯を見せて笑う。今にも斬りかかりそうなラグラスから視線を逸らさず、ユーミリアを呼ぶ。
「ラグラス、お前が動くなら、ユーミリアも動くけど?」
「黙れ!」
ユーミリアは渋い顔をしているが、ラグラスに向けていつでも剣を抜けるように構えている。ロッシュが自分の剣をしまって背を向けた。
ハレイシアの手はぴくりともしない。指先から転がり落ちた槍に手を伸ばそうとしても、身体中から力が抜けて、少しも動くことができない。うめき声すら出ない。手の甲に生暖かいものが落ちる。
──泣いているのか、私は。
私は子供ではない。ただの女でもない。王国陸軍の将軍だ。けれども、それを忘れてしまった。
イスハルの地面の冷たさに、ハレイシアは息を飲み込む。
「善戦を期待していますよ、デューン将軍」
それははっきりとした決別の言葉だった。まだ信じることができない。どこか違う世界の出来事だと思おうとしている。視界の隅でロッシュが馬をまたいだ。ユーミリアもそれにつづく。段々と馬に乗った後姿が遠くなる。
『私を殺すか?』
『もちろん』
約束したはずのことなのに、心が引き裂かれるようにつらいのは何故だろう。こんなことは最初からわかっていたはずだ。
──私が男ならば、きっとこんな思いをすることはなかった。きっと、ロッシュといることができた。あの黒髪の副官のように。
そんな仮定に意味はないと打ち消して、ハレイシアはようやく槍に手を伸ばした。




