第七章 海龍暴る 第六話
左手の傷は、まだ癒えなかった。右肩の傷も治りが悪い。
アリア・ブランフォードは静かにラグラスの横顔を見つめる。ラグラスの腰掛けるソファーには、細かな蔦の刺繍がほどこしてあった。ところどころ花が咲いたソファーのへりに足を乗せ、この館の主は今にも眠りそうな様子だ。頬杖をついて本を読んでいるものの、ときおりオリーブ色の頭がぐらりと動く。
『留め金がゆるくてすぐに外れるんだ』
修繕を約束したコートは、すぐに直すことができなかった。両手がケガで思うように動かないのを謝るアリアに、ラグラスは「当たり前だ」と鼻で笑った。
──この人は、最初からわかっていて「頼む」と言ったんだ。
ラグラスは、アリアが治療をさせないだろうと予想していた。だからコートの修繕を頼んだのにちがいない。留め金を直せるほど回復するまでは、この家で面倒を見るつもりなのだろう。
向かい側にいるラグラスが、あきらめたのか本を伏せた。
アリアはそっと立ち上がって、上にかけるものを探す。見つけたブランケットを左手一本で持ち上げるが、するりと腕の中から滑り落ちてしまった。
──私がマーブル家にいることは、ユーミリアを裏切ることにならないだろうか。
アリアは苦しくなって胸を押さえる。うつむいていると、自然と襲撃事件のことが思い出される。王国兵が押しかけてくる様子は、今思い出しても恐怖だった。ブランケットを床から拾って、少しはたく。
ラグラスに近付いてそっとブランケットをかけた。疲れているのか、微動だにしない。
早く傷を治してコートを直さなくてはと、アリアは右手を握りしめる。肩に力が入って傷跡が痛んだ。
マーブル家に数日世話になっただけなのに、ラグラスはユーミリアを殺そうとしている敵なのに、すでに恩義を感じていることが、アリアは後ろめたい。
ふと、何年も前からラグラスと生活をしていたような錯覚を覚えることがある。ユーミリアとの生活は苦しいことが多かった。言いたいことを飲みこんで、我慢して、ただひたすらユーミリアの無事を祈りつづける生活だった。なにより、隣にいるのに手を伸ばしてはならないというのがつらかった。だから今、幸せとはこういうものだったのかもしれないとアリアは思ってしまう。
──ユーミリアとこうして暮らせたら、どんなに幸せだろう。
それなのに、実際に隣にいるのはラグラス……ユーミリアの敵だ。そのことにアリアの心はざわめいた。
ユーミリアが陸軍士官学校のある皇都に出立することが決まったとき、アリアは故郷ユグドラシルで彼を待とうと決めた。彼が自分を連れて行くと言ってくれたときは、天にものぼるような思いだった。皇都へ出てきて数年、ずっと隣にいたのはユーミリアだった。
──それなのに、どうして今、ラグラスと暮らす日々を「ユーミリアとこうして暮らせたら」なんて思うのだろう。
ラグラスにもユーミリアにも、顔向けができない。自分がとても汚らわしい人間に思えて、アリアは唇を噛んだ。
「ごめんください」
階下から声が聞こえて、アリアは顔を上げた。部屋を出て階段を下りていく。すでに侍従に迎え入れられていた来客が、目を丸くしていた。鳶色の長い髪と銀縁眼鏡の男性に、アリアは見覚えがある。
「ああ、あなたは……アリアさんでしたか? 生きてたんですね。襲撃後からここに?」
クラウス・オッペンハイマーだった。隣に、思わず息を飲むほど美しい女性を連れている。淡い金色の髪と空色の瞳のその女性は、貴族の女性のようだった。繊細な刺繍とレースが使われたドレスはたっぷりと布が使われていて、波打つさまが美しい。
「はい。おかげさまで。ラグラスに助けてもらっています」
「ラグラス、ね」
クラウスは意地の悪い微笑を浮かべる。首をかしげたアリアの背後で、ため息が聞こえた。ラグラスだ。きっと起きたのだろう。
「ああ、ご主人様のお出ましですね」
「用件は何だ」
ラグラスの眉間にしわが三本寄っている。不機嫌の絶頂という顔だ。
「離れとはいえ、玄関ではなんですから、上にお邪魔しても?」
アリアはラグラスが黙ったままうなずいたのに合わせて階段をのぼり、案内する。スカートを持ち上げる手伝いをした方がいいかと美女に目を移すと、金髪の女はにこりと微笑んだ。
「エルザです」
クラウスの声に、アリアはようやくその女性が先代皇帝の元寵姫だと知った。
「あ……あ……」
「お忍びですから、仰々しいことはなさらないでね」
思わず口を開けて戸惑うアリアに、エルザは人差し指を唇にあてて悠然と微笑んだ。
階段を上がって二人を部屋に案内する。頭を下げて見送った後に台所に向かうと、侍従もやってきた。満身創痍のアリアに、まともなお茶がいれられるはずもない。
隣の部屋から男たちの話し声が聞こえた。
「アスハトの動きがね、おかしいんです。最近金策に奔走してるようで、ナイジェル様に……国王陛下に接近しようとしている節がある。もしかしたら、アスハトにラグラス様の存在が知られたのかもしれません。そんなわけでラグラス様、前線に移動してもらえませんか?」
「厄介払いか」
「いえ。アスハトにラグラス様が戦力として必要だということを認めさせようと思いまして。戦力が拮抗しているのを見せたいのです」
前線という言葉は、アリアに強い衝撃を与える。
──この人たちはユーミリアと戦うんだ。それなのに、どうして私はここにいるんだろう?
湯が少しずつ沸きたつのに合わせたように、アリアの中に再び疑問が渦巻く。台所の扉をノックする音がして、扉を開ける。エルザだった。
「クラウスから聞いたのだけれど、あなたは帝国陸軍士官の奥様だそうね」
アリアが顔をあげると、エルザは口元を隠してにっこりと笑った。
「いいのよ、それで。このご時世に女一人で生きていくのは大変なことだもの」
エルザの言葉は意外にも、市井の娘が話す言葉とそう変わらない。ただゆっくりとした話し方や声色に、どこか品があるように思えてならない。アリアがいくら背筋を伸ばしても、そんなふうにはなれないだろう。
「ちが……ちがいます……」
香水でもつけているのだろう。エルザから、ほのかにやわらかい花の匂いがする。その香りが鼻先をかすめると頭に霞をかけられたようになって、余計にうまく思考がまとまらない。
「じゃあ、ご主人を待っているの?」
「はい」
即答したアリアに、エルザは笑いかける。頬に手を当てて、小鳥のように首をかしげる。
「そう。マーブル大佐を利用するということかしら」
「な……」
そんなつもりは毛の先ほどもない。
アリアはエルザの言葉に、血の気が引いたような思いがした。
カーミラ城開城の際に後宮からの移住を拒んだエルザを讃える声は市街に多くあるが、噂されているのとは全く違う顔を見せられている。アリアは戸惑いを隠せない。エルザの空色の瞳に吸いこまれていくようだ。
「あなたは昆虫、お好き?」
こわごわと首を横にふったアリアの耳元で、エルザがそっとささやいた。
「ある種の昆虫はね、産卵期に入ったメスが、オスを食べてしまうのよ。効率的に栄養を補給するためにね。……ご主人のためにマーブル大佐を食べるのは、やめていただけるとうれしいわ」
アリアは恐怖で動けなくなる。アリアにはラグラスを利用する気など欠片もない。
「ごめんなさいね。あなたはかわいらしいから、つい教えてさしあげたくなるの。気をつけないと、ご主人に誤解されてしまうわよ。再会できても誤解されてしまうのじゃ、悲しいでしょう?」
エルザはどこか幼さの残る無邪気な仕草で、アリアの顔をのぞきこむ。容姿のたおやかさと、仕草のいとけなさ、品のある声、言葉の辛辣さ、市街での評価……そのどれもがちぐはぐで、統一感がない。エルザが何人もいるような錯覚を覚えて、アリアは混乱した。
「後宮の女は皆、自害用の毒を持っています。城や後宮ですらそう。あなたの思うほど、世界も人も、綺麗なものではない。だから油断してはダメよ、お嬢さん。弱みにつけこもうとする輩から、身を守りなさい」
沸騰した湯がぼこぼこと大きな音をたてている。アリアはようやく我に返って振り向くが、すでに侍従がミルに湯を注いでいた。せめてカップを用意しようと食器棚に手を伸ばしたところで、エルザのつぶやく声が耳に入った。
「なにも知らないでいられるなんて、どれだけ守られてきたのかしら」
もしもエルザの言う通り、誰かに守られてきたのだとしたら、守ってきたのはユーミリアだろう。
アリアの頬にエルザの指が伸びてそっと触れた瞬間、廊下から救いの声が聞こえてきた。
「エルザ様、あなたと違ってアリアには免疫がない。そういうお遊びは、貴族の仲間内でだけなさってください」
「あら、ずいぶんな言いようだこと。マーブル大佐、あなたの副官が陛下から私を奪ったように、敵の将校からこの子を奪う覚悟をしておいた方がいいのじゃなくて?」
つかつかと規律正しい動作でエルザと自分の間に割って入ったラグラスの背中を見て、アリアは自分の指先をぎゅっと握りしめた。初めて会った日よりも、ラグラスの背中が大きく見えてしまう。そのことに衝撃を受けて、アリアは息をひそめた。
「よかったわね、相思相愛じゃない。……ねえ、お嬢さん。大佐の気持ちを知ってもまだこの屋敷に留まるつもり? それはあなたが彼の想いを受け入れるのと近いことなんじゃないかしら?」
「人妻に手を出すほど、困ってはいません」
「その言葉、忘れてはダメよ、マーブル大佐。この子は貴族の火遊びに付き合わせてはダメ」
ひとしきりラグラスに釘を刺すと、エルザは鼻歌まじりの軽やかなステップでするりと逃げ出した。ワルツを踊るように、あくまでも無邪気な足取りだ。
「クラウス!」
ラグラスが副官に呼びかける。エルザをなんとかしろと言いたいのだろう。アリアはラグラスの表情を伺うが、鏡の中にしかそれを見つけられない。鏡ごしにぶつかった視線が気恥ずかしくて互いに目を逸らすと、隣の部屋にいる銀縁眼鏡の副官が声だけよこした。
「エルザ、アリアさんはユグドラシル大尉とまだ籍を入れてはいないんですよ。だから誰を選ぼうと自由です」
小さな嘘があっさりとあばかれて、アリアは小さく肩を縮こまらせる。ラグラスはきっと驚いているだろう。その顔をまともに見ることができない。
「まあ、そうだったの。ごめんなさいね、口をはさんでしまって」
「いいえ。彼が退役したら籍を入れる予定でした」
「じゃあ婚約者ね」
「はい」
自分がおそれているのはエルザ様ではない、とアリアは悟った。きっと忠告された内容を直視することをおそれていたのだろう。
このまま私がここにいればどうなるか、それを教えてくれているんだ──ユーミリア、早く帰ってきて。
祈るようにまぶたを伏せたアリアに、エルザは声をかけた。彼女の白い手は、指輪の赤い宝石をなでている。
「かわいらしいお嬢さん。困ったことがあったらいつでもお城にいらしてね。またお会いしましょう。そのときには、あなたの恋人が帰ってきているといいわね」
エルザの言葉の裏を探りたくなる。まるで困ったことが起こるかのような言いようだ。想像したくもないのに探らなければ生き残れないような心持ちになって、アリアは焦りをかきたてられた。
「ラグラス様、明日イスハルへ向かってください」
「わかった」
──今、ここでラグラスを殺せば、ユーミリアの助けになる? 帝国軍は勝てる?
アリアはその考えに行きついた身勝手な自分が怖い。うつむくアリアにエルザは満面の笑みを向けて、「怖がらせてしまったおわびよ」と指輪をそっと差しだした。手のひらの重みに、アリアはすべてを悟った。後宮の女は皆、自害用の毒を持っている……そう語ったエルザの指輪には、きっと毒が隠してある。
──ラグラスを、私が?
クラウスとエルザが静かに席をたった。ドレスのすそがふわりと揺れる。花の匂いはまだ消えない。昔話に出てくる魔女とその使いのようだと、アリアは顔を上げた。
ラグラスが客人を送り出すべく、部屋を出て行く。アリアが横目でひそかに見た鏡の中のラグラスは、いつもより表情が読めなかった。
階段を下りていく音がして、扉が閉じる音がつづいた。アリアはずっと動けないまま、てのひらに残された指輪をながめていた。