第七章 海龍暴る 第五話
港町クロムフにやってきた帝国陸軍の要請を海軍が受け入れたのち、ロイス・ロッシュは学問都市イスハルへと向かった。
イスハルは王国軍の本拠地であった宗教都市ネステラドと、帝国海軍本部のあるクロムフの真ん中に位置する。学問都市イスハルは中立宣言を出しているが、陸軍がクロムフに入った以上、戦に巻き込まれることは避けられないだろう。
「平和な町を血と硝煙と死体でもみくちゃにするのは、あまり趣味じゃないな」
銀髪の中佐、ロイス・ロッシュはそうつぶやきながら、街を歩いていた女性に手をふった。こんなときでも女性に愛想をふりまくのをやめない。
港町クロムフにおいてきた副官ユーミリアの代わりに、周辺の地理にくわしい海軍士官を紹介してもらった。海軍少佐デオフィル・リシュル。アルフォンス・クーベリック提督の右腕とも言える人物である。情報を多く手に入れれば戦略的に優位に立つことができるとはいえ、これほどの士官を自分に預けるとは、海軍もどうかしている……とロイは苦々しい表情になった。それだけ事態が緊迫しているということだ。
「海軍がこうもあっさり受け入れてくれるとはね。何かあったの? 俺、あんまり海軍に好かれてない自覚があるんだけど」
帝国海軍はロイたち帝国陸軍を受け入れた。上層部の承認も含めて、もう少し手間取るだろうと思っていたのだが、意外にことはすんなりと進んだ。
『元からそのつもりだ』
海軍の様子を伺おうとしたロイに向けて、提督は毅然としてそう言った。その姿に海軍士官だけでなく、行軍に疲れていた陸軍士官までもが歓声をあげた。
「クーベリック提督が説得したんですよ。まだ海軍内にも反対勢力は残っています、それこそ山のようにね。陸は陸でなんとかしろと喧々囂々ですよ。まぁ、当然です」
リシュルはくわえたばかりの煙草を上に向けて笑っている。
「それにしても、あのおっさんは意外に話がわかるんだな。こちらとしても助かった」
「おっさん?」
リシュルの顔が即座にむっとしたのに気付いて、ロイは「ナイスミドル」と即座に言い直した。
どうも海軍にはクーベリック提督に心酔している者が多い。その分統率がとれているからうらやましくもあるが、どうにも懸念が拭えない。
──提督が倒れたらどうするんだ?
陸軍では上官に従えと教えられる。それは海軍でも同じだろう。しかし海軍士官のほとんどは、上官というより提督に従っているようにロイには見える。軍全体を考えたとき、それはあまり歓迎できないことのように思えてならない。万が一が起きたときが怖い。提督には危険度の低い後方にいてもらった方がいいかもしれないなと、ロイは頭の片隅に記憶した。
石畳の街を馬でゆったりと進みながら、あちこちをながめる。丘、木、建物……地の利に役立ちそうなものとその位置関係は、片っ端から頭に叩きこむ。街についたのは日暮れの頃で、今はもう日が沈んで見えづらい。くわしい位置はリシュルに確認する方がいいだろう。
「俺も陸軍が嫌いですよ。特にあなたがね」
リシュルの言葉に「ずいぶん直球で来たな」とロッシュは目を丸くした。
「じゃあ片思いだ。俺はあんたみたいな軍人が嫌いじゃない」
「ほう? まだ一緒に行動するようになって一日しか経ってませんが。そんなに短期間で俺のことがわかりましたか? 尻尾を出したつもりはないんですがね」
鼻から煙を吐き出すリシュルに向けて、ロイはゆっくりと微笑んでみせた。皇都の女たちが頬を染める微笑は、学問都市イスハルでも通じるようだ。道を歩いていた女性の何人かが足を止めた。買い物かごを落とした者までいる。
「提督に心酔している。有能。記憶力がいい。口が悪く皮肉屋。身のこなしに無駄がないから、おそらく実戦経験も豊富。陸軍が嫌い。……ざっとこんな感じ。俺のことがキライなのは、いつも海軍に無理難題をふっかけるから。ちがう?」
リシュルは答えない。ただ煙草の先が上下している。
その様子をじっとながめていると、リシュルはそっぽを向くように、鞘に煙草の火を押し付けた。
「意外と大雑把なところもある、も追加しようか? 提督には感謝しないとな。護衛としても優れた士官をよこしてくれるなんて、思いもしなかった」
「ええ、ぜひ提督に感謝してもらいたいもんですね」
ようやく返事をしたリシュルは肩をすくめると、するりと馬から下りた。目の前に宿屋の看板が見える。看板にベルがついていて、風が吹くたびにちりりと鳴る。
ロイもつづけて馬から下りて、宿の前に立っていた下男に手綱を渡した。
「俺、海軍では嫌われてるけど、会ったら意外にきさくでいい男だろ?」
リシュルは鼻を鳴らした。口の端がつりあがっているのが見えた。
宿屋の奥は、夜には酒場になるようだ。気の早い客がテーブルの上に乗っていた椅子をおろして、勝手に座っていた。ちょっと待ってて、と客に一声かけた女将が宿帳を出してくる。宿帳に記入しようとしたリシュルの横にロイが並んでペンを手にとろうとすると、あっけなく左手で制された。
「俺の本名って長いんだけど大丈夫?」
「ローデリヒ・イジドール・ステファン・ロッシュ」
ロイはふぅんと唇をとがらせてうなずいた。海軍本部の入室記録に一度記入しただけの本名を覚えているとは思わなかった。宿帳の上をするすると走るペンは一度も止まらない。スペルも間違いなかった。
「大丈夫でしょう?」
感嘆するロイに向けて、リシュルは一瞥もくれずにそう言った。
「ブラボー!」
「イスハルなまりですね」
ロイは舌を巻いた。己の副官も敏腕副官として名高いが、リシュルもなかなかのものだ。
優れた人物だから提督がよこしたというのがよくわかる。
「養母がイスハル出身でね。それにしても、医者に診察されてるみたいでどうも苦手だな」
「お返しです」
確かにね、と肩をすくめると、ロイは宿屋の壁に背を預けた。馬の腹にくくりつけていた荷物を持って、下男が階段をのぼっていく。荷物はそれほど多くない。地図と食糧と水がほとんどだ。
「ちょっとその辺歩いてきてもいい?」
「どうぞご自由に。刺されないように気をつけて」
下男を追って階段の一番下に足をかけ、リシュルはふとつぶやいた。
「あなたはきっと、帝国に必要な人ですから」
歩き出していたロイが立ち止まる。振り返るとすでにリシュルは背を向けていた。階段脇の鏡に映った横顔が、にやにやと笑っていた。
「そりゃあ、どうも」
複雑な思いで一言だけ残して、宿屋を後にする。日の沈んだ街は薄暗かった。イスハルは学問都市と言われるだけあって、学校が多い。夜の学校というものはどうにも不気味だ。寄宿舎が並んでいる辺りでも、どうにも静かだ。忍び寄る戦争の気配に、息を潜めている人々が多いのかもしれなかった。
貴族の屋敷の前を通ると、楽しそうな声が漏れ聞こえてくる。中で宴でもやっているのだろう。こちらは戦場を避けて出立する前の宴なのかもしれない。街の喧騒といえばその程度だった。
ロイは街の灯りに引き寄せられるようにふらふらと歩くが、人通りは少ない。木々が高い空でざわめいて、風が通るのを知らせる。ときおりすれ違うのは男ばかりで、女性は影も形も見当たらなかった。男から情報を聞き出すのは、多少手間がかかる。下手をすれば荒事になる。今はそんなことをする気分ではない。
「やれやれ」
ため息をついたところで、輝く金色の髪が目に入った。白皙の肌、薄い青の瞳、涼しげな目元。街灯の下に現れたその姿は紛れもなく、美貌の元帝国陸軍大佐だった。
「ハレイシア・デューン大佐!」
名前を呼ぶと、向こうも足を止めた。ぶんぶんと手を振ると、ハレイシアは目をみはって身構えた。
「ロッシュか」
辺りを見渡すが、警備の者はいないようだ。これなら近づいて話しかけても、いきなり斬りかかられるということもあるまい。
──何を考えてるんだろうな、俺は。
ロイはハレイシアに見えぬようにうつむいて、ほんの少し表情を曇らせた。すぐに顔をあげて美しい人を迎えようとする。唐突に胸元に拳が伸びてきて、ロイはうしろにかわす。
「物騒だな。そんなのあなたには似合いません」
「うるさい」
今度は長い脚が伸びてきて空を切る。ロイは笑顔を絶やさずにひらりと避けた。
「一人で来たんですか? ネステラドから?」
ハレイシアは問いには答えず、息を短く吐いて掌底を打ちこむ。ロイは伸びてきた腕を横にさばいて、ハレイシアの手を握りこんだ。
「イスハルは中立都市です。暴れたら追い出されますよ。……大佐はネステラドからお一人で?」
「いいや。一人で夜風に当たりに出てきただけだ。君たち帝国陸軍と戦う準備をする前に、街を見ておこうと思ってな」
帝国陸軍という言葉を自嘲気味に言うハレイシアに、ロイは目を細くする。いつもなら冗談の一つでも言うところだが、今は思い浮かばなかった。
「……そりゃどうも、お手数かけます」
「君とユグドラシル大尉にはよくしてもらったのに、こんなことになってしまった。すまない」
以前相談に乗ったときのことだろう。何もできないまま終わったというのに、ハレイシアはずっと気にしていたのかもしれない。
「気にしないでください。人に優しく、女性にはもっと優しくが俺のモットーですから」
ハレイシアの金髪が風になびいている。わずかに細められた瞳は優しい青色をしていて、桃色の唇がわずかに動いて言葉を選ぼうとしている。きつい顔立ちをしてはいるが、決して険しいわけではない。絶世の美女だ。
「そういえば飯、行けないままでしたね。一緒に食べませんか」
「……私は敵だぞ」
「俺は構いませんよ」
「じゃあ、酒の飲める場所につれていってくれ」
並んで歩くとよくわかる。やはり男性として見るなら、ハレイシアは少し背が低い。街灯など光のある場所を通ると、長いまつげが頬に影を落としているのがよく見える。
確か宿屋の奥が酒場になっていた。来た道を逆に戻って酒場に着くと、ロイは適当に料理と酒を注文した。
「どうして気付かなかったんだろう。今見ると女性だってすぐにわかるのに」
椅子に腰をおろすや否や、そんなことを言ったロイに、ハレイシアは苦々しい顔をした。
「シルバリエ大佐は私が女性だと知っていたよ。マーブル大佐も、おそらくは」
「マーブル家の弟の方? 兄の方?」
「兄の方。性別で扱いを変える人ではなかったから、わかりづらかったけれど……気がついていたのかもしれない」
酒場は酔客の声で騒がしく、物静かなハレイシアの声はことさら小さく聞こえた。
ジョッキが目の前に音をたてて置かれる。乾杯、と声をかけてから、一口飲み込む。苦いビールは今の気分にぴったりだ。ハレイシアはほんの少しためらってから、ロイにならってビールを一気に飲み干した。
「大佐」
「もう私は大佐じゃない。呼び捨てで構わない」
そういえば、以前にも似たようなことを言われた気がする。いつもならここぞとばかりに名前を呼ぶが、色々なことが起こりすぎて、すっかり忘れていた。
「じゃあハレイシア。無茶な飲み方は……」
「悪い奴じゃなかったんだ」
空になったジョッキを机に置くと、すぐさま女将が追加のビールを持ってくる。
「ラズラス・マーブルは、決して悪い奴じゃなかった。不器用ではあったけれど、私と廊下ですれ違うときには必ず道を譲ってくれるような……そんな奴だった。大男だから邪魔にならないように避けたんだと笑っていたが、今思えば、あれは彼なりのレディー・ファーストだ。私のような地方貴族の娘相手に、大貴族の嫡男が。……それなのに、あんなことになって」
ロイは黙って、もう一口ビールを飲み込む。豆のサラダが運ばれてくる。赤い豆をつまんで口に入れて、目の前の女を見る。二杯目のビールもあっという間に飲み干してしまったようだ。顔が赤い。
「なのに、どうして私は」
「その先は言わない方がいい」
言葉を止められたハレイシアが顔を上げる。ロイはいつもの陽気さをひそめた静かな視線を向けていた。
「あなたには、どうすることもできない部分が多かった。あなたの落ち度じゃない」
ハレイシアはロイの手からジョッキを奪い取る。三杯目のビールを飲み干したあと、女将が追加のジョッキを持ってきた。飲みすぎだと言ってやりたいが、飲みたくなる気持ちもわかる。
「何か食べた方がいいですよ。空腹だと、酒のまわりが余計に早くなるから」
それを聞くハレイシアは、すでに両肘をテーブルについてうなだれている。いつもの凛とした姿とは違う。
白い肌が、耳まで赤く染まっていた。長く龍将の一人として接してきたが、こんなハレイシアは見たことがない。今にも泣き出しそうで、槍を使わせれば陸軍一と呼ばれていた軍人には見えなかった。
「女将、つけといて。宿代と一緒に払う」
空のジョッキを下げにきた女将に声をかけて席を立つ。「この色男」と背中を叩かれた。苦笑しながらハレイシアを立たせると、足元がおぼつかないのか腕にしがみつかれた。そのまま階段をのぼって自分の部屋に入れる。扉を開けたまま、備え付けの椅子に座らせる。腕を離そうとすると、ハレイシアの手に力が入った。
「扉を閉めてくれ」
敵である王国軍の女将軍。酔い潰れた女性。どちらにしても二人きりになるのは憚られたが、どうにでもなれ、と扉を閉めた。閉めろと言ったのはハレイシアだ。きっとこの朴念仁の元大佐は、それが誘いになるのだと気付いてはいないだろうが。
扉が完全に閉まる。
ハレイシアは頭を抱えてうめいている。金色の髪がもつれていた。暗い部屋の中でわずかな泣き声が聞こえて、ロイは背を向ける。涙を見せたくなくて、扉を閉めてくれと言ったのだろう。
「泣いてもいいですよ。見ているのは月だけだから」
火がはぜるように、かみ殺した声が嗚咽にかわる。
手が伸びて、ロイの背中を小さくつかんだ。その手に力がこもっていく。ときおり崩れ落ちそうになるのか、床に引っぱられる。ロイがゆっくり床に座ると後ろで泣き崩れる気配がして、背中にかけられていた手が離れた。代わりにもっと大きなものがもたれかかってくる。泣き声が近い。背中が冷たかった。ロイの背中に頭を乗せて、ハレイシアは涙を流しつづけた。
両腕が胸に伸びてきたところで、ようやくロイが向き直る。ハレイシアの頬を涙が伝ったあとが、幾筋もあった。涙を見られて戸惑う顔は、紛れもなく女の顔だった。
口付けをするとハレイシアは目を伏せて、瞳を泳がせる。
「俺も月ですからね」
「月龍」
ロッシュの銀髪は夜の光のようだと、モルティアの民がそのあだ名をつけた。
「そう」
そのまま体重を預けると、ハレイシアは拒むことなく受け入れた。
固い床に長い金髪がもつれたまま広がる。それを上から見下ろす。拒むための時間を与えてみても、ハレイシアは動かなかった。
「お前の瞳は、とても冷たい」
銀色の髪に、ハレイシアの白い指が絡んでうごめく。ロイはその手を強く握りしめた。
「手はあなたの方が冷たい」
「ちがう。そういうことじゃ」
言葉の途中で唇をふさぐと、首をふって逃げられた。
「冷たいのは嫌だ。どうすれば春が来る?」
「月はすでに死んでいるから、冷たいのは当然です」
「いやだ」
「ハル」
名前を呼ぶと、ハレイシアの腕から力が抜けた。
身体を離して見下ろす。ハレイシアは泣き出しそうな顔で笑っていた。
「大丈夫。俺は戦場で会っても手加減はしません」
「私を殺すか?」
「もちろん」
「それでいい。私は一生、お前のことを忘れずに生きていく。その一生が、短くても長くても」
窓から月は見えなかった。ただその光だけが、静かに部屋の中に降り注いでいた。




