第一章 火龍の息吹 第四話
雨に濡れる白亜の城は、通常よりも幾分かくすんだ色に見えた。大広間や主要な通路から少し離れた使用人向けの通路で、男はそっと様子を伺った。
追手に向けてときおり剣をふり、物陰に隠れて息をひそめて走る……そんな行動をくりかえして逃げる予定だったのだが、意外にも追手とは戦わずに済んでいる。大広間に見える明かりが激しく右往左往する様子を遠くに見ながら、男は小さく嘆息した。
カーミラ城でラズラス・マーブル大佐をしとめてから、男は上階へ逃げた。階下から無数の足跡が追ってくる。上に逃げ場がないのは知っていたが、塔から城壁へ飛べばなんとかなるだろう。皇帝を暗殺する前に、警備に気付かれたのはまずかった。なにより皇帝の部屋がどこにあるのかを知らない。この機会を逃せば警備はさらに厳重になり、暗殺も難しくなるだろう。かといって、今無理をして皇帝を探し出して暗殺し、無事に逃げおおせるのも不可能なように思えた。騒がしくなった城内にこれ以上長居をするのは危険だ。
……皇帝を暗殺できるなら、自分は命を落としても構わない。
黒衣の男はそういう心づもりで城に侵入したが、暗殺計画を実行に移した今となっては、ためらいがある。これまで人生で関わった人々の顔が思い浮かんだ。自分が捕まれば、彼らも取り調べを受けることになりかねない。
城壁は塔の三階部分から繋がっている。手近な部屋のドアノブに手をかけてやめた。階段を駆け上がる足音が急に近くなった。耳をそばだてる。いくら城を知っているといってもすべてを把握している訳ではない。知らぬ抜け道でもあったのか。男はあわてて剣の柄に手を伸ばした。
どこが城壁につながる部屋だ。追っ手がすぐそばに近づいている今、一つ一つ確かめている時間はない。
母さん──。
黒衣の男は祈るように剣の柄についた赤い宝石をなでた。
「どうぞ」
次の瞬間、黒衣の男は剣を抜き放ち、身構えた。
聞いたことのある男の声だった。声の主は「どうぞ」と言ったようだが、黒衣の男はその言葉の意味を理解できなかった。廊下につながる一室から、丸眼鏡をかけた男がにこにことこちらを見ているのを確認して、狙いを定める。突きの姿勢のまま、男がいる部屋に押し入り、眼鏡の男に向かって剣を突き出す。急に声をかけられてあわてて剣をふるったせいか、眼鏡の男には当たらない。すいと横に逃げられた。両手を上げて微笑む眼鏡の男には、見覚えがある。
「クラウス・オッペンハイマー大尉」
「おや、僕をご存知でしたか」
喉の奥からこぼれた黒衣の男の声に、クラウスは「静かに」と唇に人差し指を当ててみせた。黒衣の男は剣を構えたまま、警戒心を解くことをしない。
「ここから逃げられますよ」
窓へ視線を逸らしたクラウスに、黒衣の男は再び斬りかかろうか躊躇した。ためらいを悟ったのか、クラウスはさらに微笑んだ。
「さすが士官。丸腰の相手には斬りかかりませんね」
廊下を駆け上がってくる足音が聞こえる。それを聞いてクラウスは窓枠に手をかけた。
「さあ、行きましょう。窓、ちゃんと閉めてくださいね」
クラウスは黒衣の男を先導するようにひらりと窓から城壁へ飛び降りた。
優美に曲線を描く城壁を走る。クラウスの背中を追いながら、黒衣の男は素直に疑問を口にした。
「何故士官だと?」
「剣筋ですよ。海軍士官学校で習う剣筋だ」
走るとクラウスの焦茶の髪がわずかに乱れる。雨は降っているが、霧のような小雨だった。城壁の上が滑りやすくなっている。
「何を企んでる?」
三分ほど城壁の上を走り、庭園に降りたとき、ようやく黒衣の男はクラウスにたずねた。どうやらカーミラ城の最奥であるらしい。もはや追っ手の足音はしない。庭園に植えられた珍しい植物の陰に姿をかくして、黒衣の男はクラウスの返答を待った。
「僕もあなたと同じなんですよ。皇帝に恨みを持つ者というのは、案外多いのです」
眼鏡の奥の細くなった目に、笑み以外の色がほのかに宿った気がして、黒衣の男はぞくりと背中を凍らせた。
廊下のところどころに設置された明かりが、白い建物をほんのり赤く照らしていた。庭園に面した廊下を通り過ぎ、足跡を忍ばせたまま、クラウスの先導で走る。黒衣の男には全く見覚えのない場所だったが、クラウスは慣れているらしい。窓に面した建物の裏手に出た。ある窓の下で、クラウスがそっとガラスを叩く。
「おい!」
クラウスの行動を制するように黒衣の男が声をかけたが、彼は「大丈夫です」と答えた。
「大丈夫、味方ですよ。ここは後宮です。見つかれば手引きした者も、僕の首も、もちろんあなたの首も飛ぶ」
黒衣の奥で、男は渋面を作る。窓が開いて、蜂蜜色の長い髪の女性が現れる。ふり向いた切れ長の目は涼やかだ。女好きで有名な皇帝の鑑賞に十分耐えうる美しさと上品さを持っている。後宮にいるということは何人かいる皇帝の妻か愛人、もしくはその側仕えなのだろうが、使用人でないことはその容姿を見れば明らかだった。青の美しい瞳をもつ女は小さく目をみはる。
「クラウス、いらっしゃい。あら、今日は二人なのね」
花が咲くように上品な微笑を浮かべて、女は二人の男を部屋に招き入れた。夜半によく知りもしない自分を部屋に招き入れるとは、どういう女なのだろう。その一点をもってしてもクラウスへの信頼を感じる。容姿からはやわらかい印象を受けるが、しゃべり方は市街に住む女たちと大きく変わらない。室内は明らかに豪華で、皇帝の寵愛を感じさせる。最も目を引くのは無数の鳥かごだ。珍しい鳥たちが巣の中から顔を出して小首をかしげた。室内の調度品はどれも意匠を凝らした造りで、第一級の技を持つ職人が製作に長い時間をかけて作ったものであることは一目瞭然だった。
「エルザ、頼みます」
黒衣の男は緑色の目を見はる。この女性が皇帝第二夫人、エルザ・ライズランドだというのか。
もう何度も同じことをくり返してきたのだろう。エルザと呼ばれた女は軽くうなずくと、等身大の衣装入れを取り出してふたを開けた。
「入って。外に届けさせます」
黒衣の男は言われるままに衣装入れのなかに横たわる。「すみませんね、少し我慢してください」と、クラウスも隣に入る。衣装入れに男が二人も入ると、流石にせまい。上からエルザがそっと毛布を乗せ、衣装入れのふたを閉める。視界が闇に覆われた。次第に目が慣れてくる。ふたのすきまから差し込むわずかな光を頼りにクラウスの様子を探ると、彼は目を閉じていた。何を企んでいるのかと、黒衣の男は思考をめぐらせた。あわただしく変わる状況を整理するにはちょうどいい。
少しして、使用人らしき足音が聞こえた。きっと城から運び出されるのだろう。しばらく揺れがつづく。黒衣の男はその不安定さに身体を硬くこわばらせ、息をひそめたが、クラウスは慣れているらしかった。誰かに気付かれやしないだろうか。そんな懸念が汗となって、皮膚の上に次から次からへとにじんでくる。
クラウスを信じてもいいのだろうか? あまりに無防備なクラウスに、思わず黒衣の男も警戒心をといてしまいそうになる。
馬の軽快な足音が耳に届く。どうやら馬車に乗せられたらしい。ふたのすきまから差し込んでいた城内の明かりがなくなって、夜の暗さになる。一体どれくらいたつだろう。
雨音があまり聞こえないのは、霧雨がつづいているせいか。無数の汗が玉となって筋を作り、皮膚の上を滑った。
クラウスは自分の正体を知らないはずだ。士官ということは見抜かれたようだが、正体までは明かしていない。一方で自分は、彼がクラウス・オッペンハイマー大尉だと知っている。しかもクラウスは男子禁制の後宮に出入りしているという弱みを見せた。密告されれば危険だろうに、何故そんなことをしたのか。
……俺が裏切るとは考えてないのか?
己の弱みを見せることで、仲間に引きずり込もうとしているのか? 協力者が増えるのは、確かに悪くない。
馬の足音が止まった。馬車から下ろされた衣装入れが一段と暗い倉庫に運ばれる。あたりからひと気が消える。ひんやりとした倉庫は、汗だくになっていた男にはちょうどいいように思えた。倉庫は暗く、ものの輪郭がおぼろげに判別できる程度だ。黒衣の男はクラウスと同じように目を閉じた。
──俺の正体を知った上で、逃亡を助けた?
目を閉じた瞬間、そんな恐怖にかられて目を見開く。その様子を感じ取ったように、クラウスは小さな声でささやいた。
「あなたが誰なのか、詮索するのはやめておきます。ただ、あなたの目的が皇帝の暗殺にあるのだとすれば、一つ忠告がある」
黒衣に包まれた背中を、冷たい汗が滑り落ちてゆく。
「暗殺を一人で実行するのは不可能だということです。皇帝に歯向かうのなら、仲間を集めねばならない。僕がエルザの助けを必要とするように、あなたにも誰かの助けが必要だ」
光が届かぬ棺の中、黒衣の男はラズラス・マーブル大佐の姿を思い出す。自分がしでかしたことを考えると、今さら震えが来た。
「僕はあなたの味方です。それだけは覚えておいてください。あなたがいつか僕を味方と認めてくれる日を待っています。さあ、出ますよ」
クラウス・オッペンハイマーが味方なのか、未だに判別しがたい。逃走に協力したのだ。敵でないと考えていいのだろう。なにか思惑があるのには違いないけれど。
丸眼鏡の奥の、笑っているのに隙のない目。屈託のない、無邪気で無防備に見える笑顔を思い出して、男は逆に警戒心を持った。