第七章 海龍暴る 第四話
「サミュエル通りで、民間人が襲撃されたと聞きました」
カイルロッド・フレアリングは厳しい視線をクラウスに向けた。
情報を得て、現場に直行したのは今日の昼のことだ。大きな屋敷の門をくぐり、戸をあけて愕然とした。
荒れ果てた家の中は血の海だった。死体はすでに片付けられていたが、何人もの人間が殺されたことは一目瞭然だった。みしみしと嫌な音をたてる階段をのぼって、壁に手をつく。壁の亀裂に埋まっていた冷たいものに手が触れた。銃弾だ。最新式の銃弾が民の手に渡るわけがない。これは間違いなく、軍によるものだ。
──王国兵は民にまで銃を向けたのか!
今や復讐を果たした王国軍は、権力を求めつつある。目的も志もなく、ただ権力を求めた結果が民間人への襲撃事件だ。戦はいつも、あるゆるものを傷つける。守らなければ壊れてしまうようなか弱いものでも、容赦なく傷つける。
「その件は僕の耳にも入っています。規律を乱した王国兵は、厳罰に処しました」
カーミラ城の龍の間は、かつて龍将であった王国軍将軍たちの会議室になっていた。カイルロッドはクラウスに詰めよる。
「厳罰とは何です?」
「処刑。斬首刑と銃殺刑ですね」
銀縁眼鏡をもちあげて、こともなげに答えたクラウスに、カイルロッドは今にもつかみかかりそうな勢いで立ち上がった。
古傷がじくじくと痛むように、記憶が蘇る。炎に包まれた城。路上にうずくまって泣き叫ぶ子供。幼い子供の死体を取り返そうとする母親。うずたかく積まれた死体には、兵と民の区別などない。
カイルロッドの向いの席に座ったクラウスは、肘をついて頬に手を当て、にこにこと笑っている。
立ち上がったまま思わず目を逸らしたカイルロッドに、クラウスはゆったりした声で告げた。
「仕方ありませんよ。どこにも規律を守らない兵というのはいます。大事なのはそれを見逃さないということ。ユグドラシル大尉には悪いことをしましたが……」
「ユグドラシル大尉ですって?」
見知った者の名前が出て愕然とするカイルロッドに、クラウスの声は容赦なく届いた。クラウスがふと目線を逸らす。
「邸内に奥様がいらしたそうです。王国兵に銃で撃たれて亡くなられましたが」
衝撃のあまり、カイルロッドの目の前が白くなった。
大尉の妻が亡くなった──?
カイルロッドは青ざめた顔で、そのまま動きを止めた。
──父さん、どうして死んでしまったの? どうしてルーファスは帝国に負けたの? 俺たちは何も間違ってないはずだ。どうして?
炎に包まれたルーファスの景色が脳裏を過ぎ去る。思わずこぼれそうになったうめき声を堪えた。
父の元から引き離されたカイルロッドの母は、皇帝に無理やり嫁がされた。そうして後宮に入れられた翌日、自害した。
カイルロッドの怒りはおさまることがなかった。忘れることもなかった。ならば血にまみれた道であっても、前に進もうと決めた。それがたとえ復讐のためであっても、進まなければならない。他の誰かを傷つけることになったとしても、そのまま両親を忘れることの方をカイルロッドは恐れた。安穏とした日々が、カイルロッドから両親の記憶と怒りを奪っていくような気がした。忘れることなど耐えられなかった。だから殺したのだ。ラズラス・マーブルを、皇帝を、名も知らぬ帝国兵を。
──俺のしたことは、皇帝と同じではないのか。
ユーミリア・ユグドラシルにとって、自分たち王国軍は仇以上の何者でもない。大尉の最も大切な人を奪ったのは王国軍だ。王国が侵攻するきっかけを作ったのも自分だ。ユグドラシル大尉の前にひざまずいて謝りたいと、カイルロッドは拳を握りしめる。
どうしてこんなことになったのかとたずねたくても、うまく言葉を発することができない。そんなカイルロッドを、クラウスはただ静かにながめている。銀縁眼鏡の奥の瞳が薄く微笑んでいるように見えて、カイルロッドはクラウスにつかみかかった。
「クラウス、なぜ笑っ……」
「戦争とはそういうものですよ。何を今さら」
堪えきれず、カイルロッドは衝動に任せて右の拳を引く。
「僕を殴ってどうにかなりますか? 大尉の奥方を殺したのは末端の兵士です。そしてこの戦を引き起こしたあなた。そのあなたに、僕を殴る資格があるのですか?」
カイルロッドの膝がわなないている。怒りか絶望か悲しみかわからないままに、カイルロッドはクラウスの襟元をつかんでいた手を離して、部屋を後にした。
「救われたいのなら神にでも懺悔なさい。もっとも、フェシスの神官はユグドラシル大尉ですが」
背中に届いた声にこめられた皮肉に、カイルロッドは駆け出した。
今さら神にすがることなどできはしない。ユーミリアとその妻に謝ったところで、ユーミリアが皇都にいない以上、ただの自己満足にしかならない。それでもカイルロッドは走らずにいられなかった。
城を出て、川沿いに進む。サミュエル通りに入ったところで、カイルロッドは足を止めた。一度行った場所だ、あまり迷わずに着けた。カイルロッドの迷いはそこにない。ただ、どんな顔をして扉をノックすればいいかがわからない。足取りが重くなる。胸の鼓動が大きくなって、カイルロッドを飲みこんでいく。
『この戦を引き起こしたあなたでしょう?』
『平穏な毎日を乱したのはあなたたちだ。俺は絶対に許さない』
クラウスの言葉と、いつか対峙したユーミリアが残した言葉が、今になってより深い痛みとなってカイルロッドを襲う。許されようなんて、考えるほうが間違いだと、カイルロッドは壁に背を預けて座りこんだ。
「カイルロッド殿?」
頭上から降ってきた声に、カイルロッドは顔をあげた。アスハトだ。かつて痩せていた男は、少しふっくらとなったその腕をカイルロッドに差しだした。口元を覆う髭はいかついが、瞳が心配そうにカイルロッドを見ている。
「教祖」
アスハト教教祖、アウラン・アスハトだった。彼はうなずくと、ゆっくりと言葉を発した。
「どうされたんです?」
メイジス神の神官はクラウス、フェシス神の神官はユーミリアだ。死者への祈りを捧げる闇の神官は、仇となってしまった。ならば彼でも、アスハトでも構わない。
「死者を弔うための、祈りを捧げたいのです」
アスハトはゆっくりとうなずく。傍らにいた教徒がざわめいて、アスハトに声をかけた。
「教祖、急いで金策を──」
「私の本来の役目は戦でも金策でもない。少し時間をもらおう。お前たちはここで待っていなさい」
アスハト教の幹部たちが下がる。カイルロッドは小さく会釈して、アスハトと共に歩き出した。ユーミリア・ユグドラシル邸はすぐそこだ。大きな屋敷の門をくぐる。扉のきしむ音までもが、カイルロッドを責めているように聞こえてならない。
住人のいない屋敷の扉をノックして扉を開けると、むわっと血の臭いが押しよせた。アスハトがむせるのを、カイルロッドは隣で呆然と見た。普通の人間はきっと、この臭いにむせるのだろう。カイルロッドは自分が血の臭いに慣れすぎたことを知って自嘲した。
「王国軍が、ここで民間人の女性を殺傷したそうです」
カイルロッドの言葉を、アスハトは黙って聞いていた。
「ユーミリア・ユグドラシル大尉……それがこの家の持ち主です。亡くなったのは大尉の妻だといいます。……俺のせいです」
ぱた、と静かな音が聞こえて、カイルロッドは首を傾げる。視界が歪む。刻まれてぼろ布のようになったじゅうたんが、にじんでいく。
切り刻まれたじゅうたんの下、木製の床に、小さな雫が落ちていた。カイルロッドはようやく自分が涙を流していたことに気付いた。
「俺に泣く資格なんてない」
涙を止めようと声に出してみるが、一度あふれだした感情はカイルロッドの自制をあっけなく流してしまう。
頬を伝う涙が止まらない。カイルロッドは喉の奥からかすれた声を上げて泣き崩れた。膝のすぐ先に、血の跡が見える。
「許して欲しいなんて思わない。俺を呪ってくれ。ごめん……ごめんなさい」
落ちたばかりの涙が、カイルロッドが打ち付ける拳に揺れる。乾ききった血痕は動かない。額が床にこすれた。
「自らの手を汚すこともおそれず進むあなたは立派です。帝国に虐げられてきた者たちにとって、あなたは英雄なのですよ。汗と血を流し、命の危険もかえりみずに進む。未来はあなたの払った努力と犠牲の上に成り立っています。胸をはってください。兵はあなたを信じている」
「人を武力で裁くのが立派だなんて、そんな馬鹿な! 俺は復讐したかっただけだ。自分の手が汚れるのは自然なことで、褒められるようなことじゃない。しかも死ぬのは末端の兵士だ。誇れることなどあるものか!」
アスハトの手が、カイルロッドの頭に置かれる。まるで聖句を唱えるように置かれたやさしい手に顔をあげると、アスハトは微笑んでみせた。
「私はあなたを助けると約束した。それが、かつてルーファスに侵攻した私の贖罪だからです」
アスハトの静かな瞳の中にカイルロッドが映っている。
かつてルーファスに攻め込んだ雑兵の一人だった男は、領主の息子を見つめている。
「カイルロッド殿、以前、私に言った言葉を覚えていますか」
不思議と、カイルロッドの涙は止まっていた。
血まみれの階段を背にして、アスハトはそっとカイルロッドの前にかがんで、彼を支えた。
「古い罪への罪悪感から逃れたいなら、新しい罪を犯すといい。あなたはそう言った。かつて帝国に加担したことが罪ならば、その逆を……帝国に反旗を翻す新たな罪を得ることで打ち消してしまえばいい──私はあなたの言葉をそう理解した」
背後の割れた窓から差しこむ光を受けて、アスハトは両手を広げる。
それは空を羽ばたく鳥のようだった。すべてを見下ろし、許すかのような神々しさにあふれていた。
「人は過ちを犯す生き物です。古い罪を、新たな罪で塗りつぶしましょう」
はっきりと罪を伝えるアスハトの言葉は残酷だ。カイルロッドは一度ゆっくりとまぶたを閉じた。次に彼の緑色の瞳が開かれたとき、カイルロッドはアスハトと同じように、ただ静かに虚空を見つめていた。




