第七章 海龍暴る 第三話
港町クロムフの繁華街の真ん中に、海軍本部はどっしりと居を構えていた。灰色の壁は威圧的で、華やかな街中には似合わない。
隻眼の少将、アルフォンス・クーベリックは馬車から下りた途端にぎょっとした。出迎えにきたデオフィル・リシュル少佐の顔がこれまでにないほどにやけていたからだ。
きっと少佐のことだ。貴族との交渉が決裂したこと、こっそり陸軍の上層部をパトロンにつけてきたことを知っているだろう。
少佐をはじめ、海軍の連中は陸軍にあまり協力的でない。火急のときである今、陸だ海だと言っている暇はない。陸軍上層部に資金援助を頼めば、パトロンの意向にある程度沿わねばならないことぐらい、誰でも理解できるだろう。最初に資金援助を断った貴族たちは、余計なくちばしをはさめないはずだ。
それにしても、と提督は憂鬱な気持ちになった。
「デオ、お前の笑顔は薄気味悪ぃ」
「失敬な。こちらは守備よくいったんで、わざわざ玄関までお迎えにあがったんですがね」
アルフォンス・クーベリックの先ほどまでの鬱々とした気分が一気に吹き飛んだ。
上官が「でかした!」とねぎらいの言葉をかけようとするより早く、皮肉屋の部下はにやりと笑ってみせた。
「提督の方は、どうだか知りませんが」
提督の胃が、きりきりと悲鳴をあげた。デオフィル・リシュル少佐に交渉を任せたのは、シエラの墓参りをした日のことだった。アルフォンス・クーベリックは海の見える丘で、墓標を前にしていた。クロムフの街の華やかさは遠い。潮の香りがして、かもめの鳴き声が聞こえた。べたついた海風の吹く場所で、アルフォンス・クーベリックはその墓標に刻まれた名前をじっくりと見た。
シエラ・ユグドラシル、帝国歴205年~242年──。
かつてクロムフに派遣されてきた闇の神官は、シエラという名の破天荒な年増女だった。ユーミリアと歳の離れた姉で、何より酒が好きな女。けれどもアルフォンス・クーベリックにとっては、穢土に住む女神だった。
『生きなさい、人殺し』
その言葉は、きっと一生忘れることがないだろう。
軍人の仕事が敵を殺すことだということは理解していたし、覚悟もしていた。けれどもそんなものは所詮机上のものでしかないと、はじめての実戦訓練で身をもって知ることとなった。激戦を体験し、左目を失い、現実の重さを思い知った。自分が撃った砲弾が敵兵の命を奪ったかもしれない。あのときに自分が撃った砲弾が無事敵艦に当たっていれば、仲間は死なずに済んだかもしれない。そのどちらの葛藤もアルフォンスは抱えた。その状態で上官に賞賛されるのが耐えられなかった。そんなときに出会ったのが、シエラ・ユグドラシルだった。
──もう何年前になるんだかな。
シエラの墓には気が向いたら出向くようにしている。墓の掃除も気が向いたらする。それなりに綺麗にしているつもりだが、雨にうたれ、風にうたれた墓石は、アルフォンスの中の記憶とは違い、少しずつその姿を古くしていく。
酒でも持ってくればよかったと、アルフォンスは頭をかいた。死に際したシエラの要求はたった一つだった。
『あんたともう一度酒を飲みたい』
ただそれだけだ。そんな酒好きな女の墓参りに手ぶらでやってくるなんて、どうにも間が抜けている。シエラは花より酒だ。近所に花売りはいるが、酒場はない。今さら街に下りるのも手間だ。
シエラが死んでから十年は経った。人が人を忘れるには十分な時間なのかもしれない。
「お前が酒好きなのを忘れたわけじゃねえんだ。まあ、どう言ってもお前は酒よこせって怒るだろうけどな」
こうするとねぇ、酒がたぷんたぷんと答えてくれるんだよ、酒屋や飲み屋が隠そうったってムダムダぁ。私が呼べば、酒は答えてくれるんだから──。
ぶどう酒の空瓶をにぎりしめたまま酒樽を蹴って、中に酒がないか確かめる……そんなシエラの姿が思い出された。酒を求めて暴れまわるシエラは奔放で、自然に笑いがこみあげてきた。神官だとは思えなかったほどだ。
「あの頃は楽しかったなぁ」
今はどう? と問いかけられたようで、提督は残った右目を細くした。
「それなりだよ。お前が言ったように、生きられるところまで生きてやるから、心配すんじゃねえ」
灰色の髪を海風がなでていく。墓石に背を向けて歩き出そうとした瞬間、歓楽街へとつづく道から、早馬の足音がこちらにやってくるのに気付いた。すぐそばまで駆けてきて止まる。馬上からするりと下りると海軍少佐デオフィル・リシュルは敬礼をした。
アルフォンスは右手を上げて敬礼を返す。墓参り中に部下に会うのは気恥ずかしい。
「陸軍がこちらに向かっているそうです」
皇都モルティアが陥落してからすぐに情報を集めていたリシュル少佐のことだ、正確な情報だろう。少佐は懐から何枚かの書類を出した。
「これ、届いてました。急ぎでないと書いてありましたが、この時期に海軍大将から来る手紙なんて、急ぎ以外の何者でもない」
「助かる」
提督はそれを受け取って、ざっと目を通す。
少佐は馬の首をなでながら、煙草をくわえた。船上では火気厳禁のため煙草を吸わない少佐だが、陸勤務のときはよく吸っている。マッチで火をつけて、白い煙をうまそうに吸いこんだ。
「陸軍がイスハルから敵本拠地のネステラドに直行してくれれば、クロムフは敵とにらみ合うだけで済んだんですがね」
少佐の嫌味はいつも通り容赦ない。ため息が白い煙になって、あたりに散っていく。
「学問都市イスハルは中立宣言を出しただろ。学校や貴族がそれぞれ帝国派とエセ王国派にわかれてる。おかげで戦略基地を置くのに不向きだ。当然の判断だろうよ」
デオフィル・リシュル少佐は片頬をわずかに吊り上げた。
「提督は陸軍に甘い。陸と海では命令系統が違うのだから、こちらが手伝ってやる義理はない。補給面で海軍を頼られたって困るんですよ。その分海軍の物資が減るんだから」
「海軍上層部もお前と同じご意見のようだ」
持っていた書類をめくると、アルフォンス・クーベリックは大きくため息をついた。
「クロムフ、ハルシアナの海軍補給地点は帝国のものですからね」
ひょいと肩をすくめてから、少佐は煙草を吸った。火のついた先端が赤く燃えて、灰が落ちる。
少佐に書類を返す。まさに少佐の言った通りのことが書いてある。
──戦艦セラフィナイト号が敵に鹵獲されたとはいえ、船を動かすのに必要な補給地点、クロムフ、ハルシアナは現在帝国海軍の支配下にあり、陸上部隊を海から攻撃する必要性は感じられない。
書類を目にした少佐は、ほう、とにやけた。
「ずいぶん悠長なことだ。商業都市スォードビッツとタリビュートはあちら側だというのにね。ルーファスの資源はその二つの街に集中する。短期で決着をつけなければ、後々不利になってきます」
お前は誰のどんな意見に対してもまず文句を言うなあ、と言いそうになって、提督はその言葉を飲みこんだ。かわりに軽く鼻を鳴らす。今少佐に有給休暇でもとられたのではたまらない。
「その通り。短期決戦には、多くの金と人間が必要だ。だから海軍のおえらいさん方を、俺が口説いたんだろうが」
「で、その返答がこれですね」
不可と判の押された書類をひらひらと見せて、少佐がにやつく。
「……悪かったな」
「ヒゲ親父どもを口説くにはコツがあるんですよ。はじめはしおらしく、次に切々と現状を訴え、最後には悲観的観測で畳みかける。ま、提督は日頃の行いが悪いから無理でしょうがね」
「うっせぇ」
提督の眉が釣りあがったのに気付きながらも、少佐は追撃の手をゆるめない。
「俺ならこんなの朝飯前ですよ」
「士官学校出のお貴族さまが、お前の言うことを聞くか?」
「俺が叩き上げだからこそですよ。ここは一つ任せてもらえませんか? 提督は貴族連中を口説いてください」
少佐の意地の悪い笑みは、何か策があるらしい。クーベリック少将は海軍内での説得を、部下に任せることにした。
──これが、今から二日前のことだ。
デオフィル・リシュルは宣言どおり、海軍上層部を説得してきた。
有能な部下を持って助かった。海軍本部の階段をあがって執務室に向かう。扉を開けると、応接セットの上にまで、無数の書類が並べてあった。デオフィル・リシュルの読み終えた書類だ。風が吹いてもこれまでの分類作業が無駄にならないように、それぞれに文鎮が乗せてある。几帳面だな、と言いかけてやめた。どうでもいい場所はかなりいい加減だということを、提督は知っている。大理石でできた灰皿には、無数の吸殻が積まれていた。こぼれた灰を拭く者はいない。
「陸軍上層部をパトロンにして、ロッシュと手を組むことを海軍のお偉方にも了承させる……提督らしいですね」
喉を鳴らした少佐に、アルフォンスは肩をすくめてみせる。
「陸だ海だと言ってる暇はねえよ。でも陸軍にはギリギリまで接触するなよ。接触したことが知れれば敵本拠地のネステラドから敵が攻めてくる。行軍の直後に戦闘なんて、陸軍もつらいだろ」
「どっちつかずの馬鹿貴族が多いせいで、まだ資金が足りませんしね」
忘れていたアルフォンスの胃の痛みが蘇った。
「貴族さんたちに金を出させるいい手は、ねえかなぁ」
思わず大きな背中を丸めてしまう。貴族たちは何度頭を下げても資金援助を断った。首都モルティアを敵に占拠された今となっては、帝国不利という見方をするのもやむをえない。
「馬鹿貴族に政情やら義理を説いたって無駄ですよ。やるなら大砲でも持っていって、今すぐ金を出せと脅した方が早い」
「おいおい、天下の海軍がそんな強盗みたいな真似、できるわきゃねえだろ。じっくり説得してだな」
アルフォンス・クーベリックの声に、少佐は、ふ、と強く息を吐き出して笑った。
「提督も上層部ののんびり病がうつりましたか? やはり元のお育ちがよろしいようで」
「あんなのと一緒にすんな」
デオフィル・リシュルは冷静に分析する能力に長けるが、口が悪すぎる。はじめて会ったときはこうではなかったのだが、長く一緒にいるうちに段々と本性が見えてきた。交渉のときは場と相手によって使う言葉を変えているのだろう。
冗談で済む程度だ。分をわきまえていないと目くじらをたてるほどではない。仕事はきっちりやる。だが、上司の自分にしてみれば、どうにも頭が痛い。
黙りこんだ提督を見てすぐに言わんとすることを悟ったらしく、少佐は真摯な口調で先日と同じ台詞を告げた。
「私に任せていただけませんか?」
「……手荒な真似は、できるだけするなよ」
「わかってますよ。俺は提督の忠実な部下ですからね」
デオフィル・リシュルの答えが頼もしいのも変わらない。実際に動くとなれば命令通りに動いてくれる忠実な部下は、そのまま海軍本部を去った。動きが素早く隙がないのも、相変わらずだった。




