第七章 海龍暴る 第一話
軍靴の音が切れ目なく往来に響きわたる。皇帝モルティアに王国軍が侵攻してから五日、カーミラ城が引き渡されてから三日だが、民の間には不満が広がっていた。
アリア・ブランフォードは石畳の上を歩きながら、紙袋に入った当面の食糧を抱きしめる。
ユーミリア・ユグドラシルが出て行ってから、何日が経っただろう? 一人きりの食事には慣れていると思っていた。昼は元より一人で食べていたし、ユーミリアが仕事で家に帰らない日もあったからだ。アリアは胸の内で問う。
──あの頃は孤独を感じた?
庭の手入れをしても、部屋の掃除をしても、手間暇をかけた食事を作っても……どうにも時間が余ってしまう。一人で家にいるだけなのに、孤独はしっかりとアリアをつかんで離さなかった。
──あの人はきっと、それをわかっていた。だから私に、ユグドラシルへ帰れと言ったのに違いない。
アリアはそう思うけれど、帰る場所など、すでにここ以外にはない。
毎日王国兵が訪ねてくる。ユーミリアはどこへ行った、帝国兵をかくまっていないか──。
そのたびに、心臓をわしづかみされたような気になる。やましいことなど何もない。ユーミリアは皇都を出たし、逃げ遅れた帝国兵もかくまったことはない。
それでも厳つい甲冑を着こんだ王国兵は、アリアに大きな威圧感を与えた。ときには逃げだしたくもなるけれど、逃げるわけにはいかない。
ユーミリアに勝手に投げつけた約束が、アリアをかろうじて皇都に繋ぎとめている。
エントランスをくぐって、玄関の鍵を開ける。
「おい、お前」
後ろから声をかけられて、アリアは素早くふりかえった。見たことのある王国兵だ。心臓が跳ねあがって、うまく息ができない。
甲冑が金属のこすれる音をあげている。許されるのであれば、耳を覆って走りだしたい。目の奥に熱い涙がたまりはじめたのがわかった。
「ここはユーミリア・ユグドラシルの家だな? お前は?」
王国兵はしつこく残党狩りをしている。帝国軍幹部のものであれば、ちょっとした情報でも報奨金が出るらしい。でたらめの情報を渡して、金をもらった者もいると聞く。
──ユーミリアの行方を探してどうするの? 殺すの?
「私は」
アリアは邸内に半分身を入れて、いつでも扉を閉められるようにした。一度だけ唇を噛み、顔を上げる。
「ここにユーミリアはおりません。私は、ユーミリアの妻です。アリア・ユグドラシル」
それだけ言って、扉を閉めた。玄関を入ってすぐのところで座りこんで、アリアは顔を覆う。
それは今にも折れそうな心を支える、小さな嘘だった。
──誰も信じてくれなくてもいい。今だけ……お願い、今、ほんの少しだけ、私を支えていて。
こんなことなら海軍本部のあるクロムフに連れていってもらえばよかったと、アリアは後悔する。次から次へと涙があふれて止まらない。背中ごしに、扉が叩かれるのがわかる。ここを開けろと叫ぶ声も聞こえる。
顔を上げた。どれだけ綺麗に掃除をしても、壊れたものが元に戻ることはない。
王国兵がユーミリアを探しに来るたびに、何かが少しずつ壊れていく。癇癪を起こした者が階段の手すりを折り、棚の上から燭台を落として壊し、暖炉のレンガも欠けた。じゅうたんは引き裂かれた。王国兵は床下の食料庫の中まで入り、嵐よりひどく暴れていった。割れたワイン瓶の欠片を浴びたパンなど、食べることができない。二人で長い時間をかけて築き上げてきたものが、あっという間に壊されていく。それを見るのはアリアだけだ。ユーミリアはいない。ユーミリアが傷つかなくてよかったと思う反面、たった一人でその様子を見ているのはあまりに心細かった。
──もう嫌。
アリアは涙を流しながら、さらに顔を上げる。朽ちていく家の中にふさわしく、シャンデリアも割れている。段々とユーミリアとの思い出が壊れていくようで、見ていられない。
壁に飾られた剣を見て、アリアはそっと剣に手を伸ばす。祖父の作った二対の剣のうちの一つだ。もう一本は、ユーミリアに渡した。アリアは手元に残った片方の剣を強く抱いて、嗚咽した。
どれくらいそうしていただろう。扉を叩く音が激しくなって、窓ガラスが割られる音でアリアは我に返った。王国兵がなだれこんでくる。
「な……」
何をするの、という言葉が、喉の奥に引っかかって出ない。立ち上がって、部屋の中央にある階段に向かう。表の扉からも、王国兵が侵入してくる。
「ユーミリアを出せ!」
王国兵たちはこれまでにないほど殺気だっていた。
「こいつ、剣を持ってる。やる気か!」
ちがう、私はただ……その言葉を発する暇は与えられなかった。剣を抜いた王国兵が迫ってくる。誰かをかくまったと判断したのか、兵たちはばらばらと各部屋へ散っていく。
「なぜ、こんなことを……」
怯えきったアリアが口にできたのは、それだけだった。先ほど声をかけてきた王国兵が「皇帝が逃げた」と言った瞬間、アリアは眩暈を起こしそうになった。
陛下がいないから、こうやって探しているの──?
「お前、ユーミリアの妻だと言ったな」
王国兵は剣をこちらに向けたまま、にやりと笑みを刻んだ。これから何が起こるのか、その笑みで、アリアは悟った。即座に鞘を払って、剣を抜く。
「ふはははは! 女の癖に」
王国兵の笑い声で、自分が剣を抜いたことを知った。震える指で剣を構える。
──幼い頃は、ユーミリアと一緒に剣の練習をした。はじめは私の方が強かったのに、それがあんな、剣鬼と呼ばれる人になるなんて。
脳裏に浮かんだ想い人の姿は、皇都に来てからのユーミリアではなく、故郷にいたユーミルだった。アリアの頬を、熱い涙が滑り落ちる。
──ユーミルは、私と共にいてくれる。いつだってそうだ。
剣の柄を持つ手に力を込めると、騒いでいた心が落ち着いた。王国兵が斬りかかってくる。上段からの攻撃をかわし、鋭い突きを額に打ち込む。
驚きのあまり動きを止めた王国兵を横目に、死体を蹴って、剣を抜く。返り血が吹き出して、辺りを赤く染めた。
「貴様ぁ!」
騒ぎを聞きつけて、王国兵たちが階段に集まる。左手を拭う。白いエプロンに血がついた。血まみれの刃先がぎらりと輝く。
──私は戦う。ユーミルとの思い出を守らなければいけないから。
踏みこんで来た王国兵の甲冑の隙間を狙って、腹を横に薙ぐ。喉を突く。脳天から一気に剣を振り下ろす。たっぷりと布を使ったスカートは、アリアの足さばきを邪魔しない。あっという間に辺りは血の海になった。王国兵の死骸が、血の海に島のように横たわっている。
「剣鬼だ……ユーミリアだ……!」
誰かが震えてあげた悲鳴を聞きつけて、王国兵がまた増えた。焦げ茶の髪に血が絡まって、アリアの頬に貼り付いた。返り血が頬に飛び、顎から滴り落ちた。
次から次へと襲い来る敵を斬り倒していく。階段を選んだのはよかった。それほど広い階段ではないから、相手に踏みこませればいい。それなら一対一で戦うことができる。足場は悪いが、何千回、何万回と使ってきた階段だ。身体がその間隔を覚えている。
飛びこんで来た男の剣をかわして、首を狙う。最小の動きで、次から次へと増える王国兵を斬りたおす。できるだけ急所を狙って、一撃で終わらせる。
いくら名工の作といえども、十人以上斬れば人の脂が浮いてくる。脂の浮いた剣では、切れ味が鈍る。滑りが悪くなってきたのを感じて、突きで切り抜けてきたが、それも限界だ。
そろそろ敵の剣を奪わなければ──。
アリアがふりかぶった瞬間、邸宅のホールに破裂音が響いた。
右肩に熱い痛みが走る。アリアは銃の衝撃で尻もちをついた。思わず落とした剣を拾おうと腕を動かそうとして、鋭い痛みに顔を歪めた。
王国兵がやってきて、剣を蹴りとばす。即座に王国兵はアリアにのりかかった。かろうじて動く左腕や脚で抵抗するが、抑えこまれてしまう。
「ふざけやがって! なめるなよ!」
階段の手すりを越えてホールへ落ちた剣は血を浴びて、銅色に見えた。
手が届かないのはわかっている。利き手でない左手一本では何もできないだろう。それでも手を伸ばさずにはいられない。
視界の端が白く縁取られて、次第に歪んでいく。涙があふれて止まらない。
「……ユーミル……ユーミル……!」
泣き叫ぶ声に笑い声が返ってくる。剣に伸ばした左手に痛みが走る。アリアの左手が王国兵の剣によって貫かれ、段上に固定された。
「いやだぁ! ユーミル!」
目の前には鼻息を荒くした王国兵の頭と肩が見えるだけだ。心臓に杭を打ちこまれて息が止まるような思いがした。アリアは目をつむる。どこを見ても地獄だ。死んでしまいたい。
恐怖で歯がかちかちと鳴って、肩が震える。そのたびに弾丸が走りぬけていった痕が痛む。
ユーミル、ごめんなさい。私は──。
舌を噛み切ろうと口を大きく開けた瞬間、己の着ていた服を押し込まれた。噛めども噛めども歯は布にしか届かない。絶望的な状況で、叫ぶこともできない。
表の扉がだん、と大きな音をたてて開いた。
光と新鮮な空気が入りこんでくる。また新しい王国兵だろう。アリアはかつてユーミリアと過ごした家をながめながら、身体に目一杯力をこめる。
「おい、お前ら」
王国兵は背後からかけられた声にふりむきもしなかった。
一陣の風が吹きぬけた後、アリアの顔にぬっとりとした赤い液体が飛んだ。王国兵の身体から力が失われる。反射的に目を開けた。
王国兵が死んでいる。力を失くした王国兵の身体が、ずるずると階段を転がり落ちていく。
ユーミル……? 助けに来てくれたの?
背を向けて立つ人影を見て、アリアはこわばらせていた身体から力を抜いた。
ユーミルが来てくれたのなら、もう大丈夫。
安堵のあまり、まぶたが自然と落ちてくる。失血によるものだろう。
「まったく……アスハト教徒はこんな奴らばかりか」
低い声が聞こえて、アリアはまぶたを開いた。その声は聞き慣れたユーミリアの声ではなかったからだ。
瞳に映ったのは、オリーブ色の髪の男だった。
「貴様っ、こんな真似をしてっ……」
階下に残っていた王国兵の声に、アリアに背を向けたままの男はふんと鼻を鳴らした。
「俺の目の前で治安を乱すような真似をするのが悪い。名乗らなければわからないか?」
オリーブ色の頭がすっとアリアの視界から消えた。
「ラグラス・マーブルか!」
王国兵の叫びに満足そうに笑って、ラグラスは剣を振り下ろした。王国兵は足元に崩れ落ち、息絶える。返り血を浴びたラグラスは、面倒臭そうにマントで血を拭った。
「ああ、まったく……やってくれましたね、ラグラス様。これじゃああなたが皇都にいることがばれてしまう。責任とって全員殺してくださいよ」
「任せておけ。スォードビッツで鍛えなおした成果を見せてやる」
入り口には、眼鏡の男が立っている。眼鏡の男は、アリアに向けてにっこりと微笑んだ。
そうこうしている間にも、断末魔の悲鳴がアリアの耳をかすめていく。
──ラグラス・マーブル? 行方をくらませていた龍将が、どうして私を助けるの?
状況を把握しようとするが、意識が遠のきかけた今、うまく整理することができない。金属のぶつかる音がつづいていたが、それもすぐに止んだ。
「クラウス、後は頼む」
「後始末はしますが……期待しないでくださいよ。アスハトの耳に入る可能性は高い。あーあ、ラグラス様のせいで計画がおじゃんです」
クラウスの小言を無視して、ラグラスはアリアに向き直った。背中は優しげに見えたが、ふりむいた顔は不機嫌そうにも、怒っているようにも見えた。
「おい、生きてるか」
左手に刺さった剣が抜かれる。痛みに身をよじると、ラグラスは目を逸らした。
「……その、大丈夫か」
「はい」
下着の見える胸元を隠そうにも、両手が動かない。アリアはあきらめて目を伏せた。ラグラスは血のついたマントをよこす。
「すまん。もうちょっと早く来ればよかったな」
ラグラスをじっと見る。眉間には深いしわが刻まれている。表情はあまり変わらない。怒った顔で謝られても困る。だが、本当にすまなく思っているようだ。
「銃声が聞こえたからあわてて来たんだが……出ていくかどうかでクラウスともめた。すまない」
「ラグラス様、僕を殴って出て行ったの覚えてます? 後で薬代請求しますからね。ああ、奥歯が痛い」
「そんなに強く殴ってないだろう。猫の拳程度だ」
「ああ痛いなー。とっても痛い。歯が抜けてたらどうしてくれるんです」
──どうやら自分は助かったらしい。
実際に見るのははじめてだが、目の前にいるのは新聞などで見かけるラグラス・マーブルその人だ。奥にいるのは……先ほどクラウスと呼ばれていた。ということは、ラグラスの副官だったクラウス・オッペンハイマーだろうか。
アリアはゆるみかけた気を引き締める。王国派についたクラウスと行動を共にしているラグラスは、王国派だろう。
「私に……何のご用ですか」
途切れそうな意識を、一歩手前でこらえてアリアがそう言うと、ラグラスは目を丸くした。眉間のしわがすっかり消えている。
「帝国を裏切ったあなたが、一体何の用ですか」
アリアの声を聞いて、ラグラスは肩を震わせて笑った。笑うと意外に普通の顔をしている。
その様子を見ていると、身体から自然と力が抜けていく。失血で身体が重く感じられるが、気を抜くと階段から滑り落ちていきそうで、アリアは動く右手で自分の身体を支えた。
「ありがとうくらい言ったらどうだ。まったく……これだけ王国兵を殺しておいて、言うのはそれか」
ラグラスはアリアのいる少し上の段に座って、しばらく笑いつづけている。
視界が暗くなってくる。このままでは倒れてしまう。アリアは大きく息を吸って、名乗ることにした。
「……私はユーミリアの妻です。アリア・ユグドラシル」
それを聞いて、ラグラスは一層笑った。
「あのちびっこに嫁がいたのか!」
ちびっことは、随分な言いようだ。非難の声をあげようとすると、ラグラスはアリアに肩を貸した。
「俺のところに来い。治療ぐらいはしてやる」
「私はここに……」
「ユーミリアと約束でもしたのか。大方、家を守るとでも言ったのだろう? 見てみろ、この家の有様を」
ラグラスは元の仏頂面に戻って、そう告げる。アリアは邸内を見回した。ひどい有様だった。昨日まで王国兵に荒らされていたものもあるが、今見てみると、さらにひどくなっている。クラウスが片付けてはいるが、無数の死骸に、血痕に、アリアの右肩を貫通していったらしき弾丸の跡のめりこんだ壁……手すりや壁は剣で切り刻まれてぼろぼろで、残った部分にも返り血が飛んでいる。とても人が住めるものではない。
「王国兵はまた来るぞ」
アリアの身体がぶるっと大きく震えた。もうあんな思いをするのはいやだ。
「あのちびっこも、お前が生きているのが一番嬉しいんじゃないのか」
諭すような低い声が耳になじんで、アリアはうつむいた。ラグラスの声に、クラウスはにやりと意地悪く笑っている。
「ラグラス様、そうやって危機的状況にある女の人を口説くのが好きですね。デューン将軍とか」
「救いを求めている者を救うのが、貴族の務めだ」
階段を下りて、ラグラスは片頬を吊り上げる。二人とも笑っているのにどこか皮肉な笑いでしかない。
「白馬の王子様ですか? さすがにマント着てるだけありますね」
「これはコートだ」
眉間に三本じわを刻んだラグラスに、クラウスが「ええっ、見えませんよ」と驚きの声をあげる。
「留め金がゆるくてすぐに外れるんだ。仕方ないだろう」
「……直しましょうか?」
ユーミリアとの生活で半ば習慣化したアリアの言葉に、ラグラスはきょとんとした後、少し考えこんで「じゃあ、頼む」と短く答えた。
その様子を見ながら、クラウスはへらへら笑って死骸を引きずる。血の跡がべったりと見慣れた床についていて、アリアは思わず目を背けた。




