第六章 地龍伏す 第七話
瑠璃色の空が広がるテラスで、ライズランド帝国陸軍大佐トゥール・シルバリエは腕組みをした。先代皇帝第一夫人、マリー・ライズランドの言葉を思い出してため息をついた。まだ夜は明けない。薄黄色の月がほのかに光を発している。
皇帝、オフィリア・ライズランドの命を救う策を探してもらいたいのです──。
今や皇帝生母となったマリーは、深い青色の瞳をトゥール・シルバリエ大佐に真っ直ぐ向けた。
今さらどうしろというのだろう。オフィリアを救うというのは、ひどく困難な話だった。
皇都内に侵入した反乱軍は市街地の一角を占拠した。帝国陸軍の指揮をとっていたロイス・ロッシュ中佐は市民が戦闘に巻きこまれることを憂い、一時停戦を決めた。
トゥールもその案には賛成だ。このまま戦をつづければ、間違いなくオフィリアは助からないだろう。
もちろん、民が無事なのはいいことだ。しかし軍人である以上、皇帝を第一に考えなければならない。市街地を巻きこんでも、皇帝の命を守らなければならない。それがマリーの命令だからだ。
南国タリビュートに置いてきた娘が走ってきたような気がして、トゥールは顔をあげた。もちろん、政情の不安定な皇都にいるはずもない。妻子の写真が待つ執務室に戻ろうとして、やめる。今後ろをふりかえってしまっては、前に進めなくなるような気がした。
──今は、陛下のことを考えなくては。
かぶりをふって、考えを整理しようとするのだけれど、どうにもうまくいかない。
五歳の娘が、満面の笑みを浮かべて走ってくる。抱き上げてくれとせがむ。そのうしろで、妻が不満げな顔をしている。
南国タリビュートから皇都に出てくるとき、妻は黙って送りだしてくれた。言いたいことがたくさんあったに違いない。あきらかに不満げな顔をしているのに、それでも何も言わなかった。
──あんな顔をされたら、帰らないわけにはいかないじゃないか。
妻が胸のうちに抱えた不満だらけの言葉を聞くまでは……聞かずとも、昔話になる日までは、生きていたい。
今自分が死ねば、妻は言えなかった言葉を一生胸に刻むことになるだろう。涙ぐんでくりかえして生きることになるだろう。反乱軍を恨んで生きることになる。それはどれだけ苦しい人生かしれない。
──家族の時間を大切にしろ、だろ? 言いたいことはよくわかるよ。
反乱軍兵士の闊歩する街を見下ろして、トゥール・シルバリエ大佐は写真の中にいる妻に向けて、ため息をついた。白みはじめた空が、トゥールを現実に引き戻す。月が白い。
商店街に目をやる。早朝から開店準備をはじめるはずの店の戸が、ぴったりと閉じたままだ。どこを探しても、動きのある店などない。民を城に避難させたのだから当然だが、その光景に気持ちが沈む。
北のほうに小さな灯りが動く様子が見える。きっと反乱軍だろう。
ロイス・ロッシュは皇都から出て、海軍に合流するつもりでいるらしい。ユグドラシル大尉などは、市街戦に持ちこんでも構わないから皇都から反乱軍を追い出すべきだと主張している。
──どの道を選ぶのが正しい?
正しい道などないことを知っていて、それでもそう自問自答せずにはいられない。
カーミラ城を明け渡して降伏を宣言すれば、ひとまず戦闘は止むだろう。しかし、それで皇帝オフィリア・ライズランドや皇帝生母マリー・ライズランドの命が助かるとは限らない。
ユグドラシル大尉の言うように皇都を奪還することになれば、全面的な消耗戦になる。海軍本部に助けを求めようにも、内陸部にある皇都を海から攻撃することは不可能だ。海軍を使うならば、反乱軍の本拠地と思われる宗教都市ネステラドと、資金援助をしているであろう商業都市スォードビッツを攻めた方が効果的だろう。しかし新造戦艦セラフィナイト号は奪われてしまった。なにより、方角のちがうネステラドとスォードビッツを一度に攻撃するわけにはいかない。
──アルフォンス・クーベリック、お前ならどちらを攻める?
シルバリエ大佐は同期の隻眼の提督を思い出す。
これから先、戦闘をつづけるのならば、商業都市スォードビッツを落としておく方がいいだろう。資金調達がぐっと楽になる。しかし海軍本部をあけて出撃すれば、ネステラドにいる反乱軍が攻めてくるのは間違いない。
ならば宗教都市ネステラドが先か。スォードビッツを叩くまで、資金がもつかどうかが問題だ。皇都を明け渡した帝国軍に、貴族どもが金を出すとは思えない。
……もしかしてロッシュは、そこまで見越して海軍に合流すると言っているのかもしれない。陸軍が港町クロムフに入って、ネステラドからの攻撃を防ぐ。その間、海軍はスォードビッツを攻撃する。
──皇都を明け渡そう。
大尉の悲痛な表情が目に浮かんだ。気持ちはわからないでもない。皇都が反乱軍の支配下に置かれれば、間違いなく、市民に被害が及ぶ。たとえ反乱軍が紳士的だったとしても、帝国関係者は厳しく追及されるだろう。それは過去の歴史を見ても明らかだ。
しかしつらいのは大尉だけではない。近衛として市街を守りつづけてきたロイス・ロッシュなど、もっとつらいはずだ。
テラスを吹きぬける風に目を細めて、シルバリエ大佐は空を見上げた。手すりに乗せていた腕を伸ばす。西の隅に夜がほんの少し、残っている。月が空にとけはじめていた。
皇都の塀の外へと視線を向けるが、妻子のいる故郷は遠く、見えなかった。
──お前たちのことを忘れたことは、一時もない。
妻子に心の中で呼びかけて、市街に背をむける。ロッシュがテラスにつづく扉を開けてやってきたところだった。
「伝令か」
「いえ」
いつからそこにいたのだろう。感傷に浸る姿を見られなかっただろうか。
トゥールが苦笑すると、銀髪の絵になる男は「お願いしたいことがあるんです」と切り出した。
「なんだ。補給か」
腕組みしたトゥール・シルバリエに、ロッシュは黙って首を横にふった。
こんなロイス・ロッシュは今までに見たことがない。いつも大きな声ではしゃいでいて、両目がこれでもかというくらいに輝いているのがロイス・ロッシュだ。まわりには彼に憧れる者が集まってきて、まるでガキ大将とその一味のようなグループを形成していた。好きなものは好きで、きらいなものはきらい。やりたいことは全力でやる、そんな少年のような男だ。並ぶだけで、自分がやけに老けて思えたものだ。ロッシュもいい歳をしているはずなのに、なぜだか息子を見ているような気分になる。
それが今、おだやかに微笑んでこちらを見ている。
──そんなお前なんて気味が悪いぞ。よくない話じゃないだろうな。
トゥールは身構えて、銀髪の中佐の言葉を待った。
「シルバリエ大佐に、カーミラ城の引渡しをお願いしたいんです」
──まさか、俺に降伏しろというのか。
トゥールのこわばった顔を見て、ロッシュは小さく肩をすくめた。
「適任なんですよ。降伏しろってことじゃありませんから、心配しないでください」
「お前はクロムフへ行くのか」
先ほど思いついた案を口にする。日の出と共に、朝日が強烈な光を投げかけてくる。皇都を囲む外壁を越えて差しこむ光は、夕日と見紛うほどの朱金だ。いつの間にか、空にいた白い月を飲みこんでしまっている。
「我々はカーミラ城を明け渡し、海軍本部のあるクロムフに向かいます。ネステラドに敵本拠地があるから、海軍は下手に動けない。なら陸軍が守ってやればいいんです。大佐にはカーミラ城を引き渡した後も、皇都に残ってもらおうと思っています」
「それは降伏じゃないか」
「最後まで聞いてください」
ロッシュは少し笑ってみせる。大佐はつづきを黙って待った。
「ここからが大事なところです。皇都を引き渡すとき『民に手を出さないこと』『民には降伏した軍人も含む』という条件を飲ませてください。皇都ではいずれ反乱軍に不満を持った者が、暴発を起こします」
「仕組んだのか」
「はい」
銀髪を輝く茜色に染めた中佐は、落とし穴を掘った子供のような顔をした。
──ああ、やっぱりこいつはガキ大将だ。
「大佐にお願いしたいのは、この暴発のタイミングをはかることです。皇都を出たら、俺が彼らに接触することはできなくなる。タイミングを見て、きっかけを与えてやってください」
「俺に指揮しろと?」
「そこまではお願いできませんよ」
トゥールの苦々しい顔に、ロッシュは首を横にふる。銀色の髪がふわりとゆれて、朝焼けの光が目に飛びこんできた。
「情報を流してやるだけで十分です。宗教都市ネステラドが陸軍と、商業都市スォードビッツが海軍と戦っている間……皇都には敵の援軍が来ません。そこを狙って、暴れさせてください。目標は奪還。この街は、外から攻めるのは面倒なんで……内側から動いてもらえると助かるんです」
「なるほど。しかしそちらの戦況もわからない状態で判断するのは、難しいな」
「そこが大佐の腕の見せ所ですよ」
日々の物資を調達し、戦争回避策を探った人脈を使えということなのだろうが、どうにも心許ない。ぐるっと顔を思い出してみるが、厭戦的な人物にしか思い当たらなかった。
「本当に皇都に戻ってくるんだろうな」
「……どうでしょうね。そのつもりでは、ありますが」
「お前らしくない」
肩をすくめると、意外にロイス・ロッシュが真剣な表情でいるのが目に入った。おそらく勝算は、それほど高くないのだろう。
「もし戻らなかったら……ネステラドやスォードビッツで、帝国軍が手間取るようなことがあれば、援軍を送ってくれたら助かります」
「どちらに送るかは、状況で判断するんだな」
「はい。援軍が欲しい状況があるとすれば、おそらく商業都市スォードビッツです」
「あのクーベリック提督が負けると?」
「いいえ。不確定要素が多すぎるんです。俺には敵に強奪された戦艦セラフィナイト号の性能もわからないし、海軍が上陸作戦にどれほど向いているかもわからない。ユーミリアに聞いたところでは、陸で使えそうな連中も十分いるらしいですが……」
すでに明るくなった空は、反乱軍に支配された街をあますことなく照らしだしていた。
道を往来するのは兵士ばかりだ。メインストリートから見るカーミラ城の美しさは、きっと彼らにはわからないだろう。朝靄に浮かぶ白亜の城は、それはそれは美しいというのに。
「陛下とマリー様には、南国タリビュートに行ってもらおうと思っています。一番安全でしょうから」
「お前はいつだって陛下やマリー様のことを後回しにする。帝国軍人なら、もう少し考えてもらいたいものだ。今回の作戦だって、まだ何の打診もしてないだろう」
「よくわかりましたね」
「マリー様から聞いてないからな」
「じゃあ、大佐に話に来た理由もわかりますよね。俺が説明するよりずっと上手に説明してくれるでしょう? とにかく、陛下とマリー様は王国軍に渡さないでください。謹慎でも蟄居でも、名目はなんでもいい」
「では、司令官殿の期待に添えるよう、がんばるよ」
テラスから城内に入る。そこはもう、トゥールの戦場だ。あちこち飛び回りながら、トゥール・シルバリエの脳内ではすでに計算が行われている。物資の手配を部下に指示して、謁見を申しこむ。謁見許可が出るまでの間に、各地から情報を仕入れるためのルートを探す。ひいきにしていた武器商人を城に呼んで、約束をとりつけた。
執務室に戻り、背の高い椅子にすわる。ここ数日の疲れがたまっていた。背を伸ばし、首を左右に傾ける。体が鳴る前に、椅子がみしっと鳴ったのに気づいた。透かし彫りの施された背もたれは、どこか頼りない。ソファに座りなおそうとしてやめる。心地いいソファに座れば、尻に根が生えたように動きたくなくなってしまう。
じっとしていると、自然にまぶたが閉じていく。目をつむればすぐに眠れそうだった。壁にかかった娘の写真に目をやる。
──かわいい。どれだけながめていても飽きない。
部下に声をかけられて、あわてて顔をあげた。謁見許可がとれたらしい。
象牙の間に向かうと、オフィリアとマリーが待っていた。
「マリー様、突然の謁見希望、申し訳ありませんでした」
「構いません。オフィリアを救う方法のことでしょう?」
トゥールをじっと見つめる瞳は真剣そのものだ。
最近、先代皇帝第一夫人、マリーは変わった。トゥール・シルバリエの知るマリーは、他人のことにあまり関心がなかった。後宮で暮らし、オフィリアが産まれてからは、常に疑心暗鬼に駆られているように見えた。オフィリアを女子として育てようとしたのも、その一つだろう。マリーは先代皇帝が亡くなってからというもの、常に憂いや不安に満ちている。オフィリアの身を案じている。先代皇帝の死は、マリー・ライズランドの心に恐怖を植えつけたらしかった。
トゥール・シルバリエ大佐は深々と頭を下げる。オフィリアがその奥で座っている。いつ見ても少女のようで、線が細く頼りない。トゥールは自分の娘のことを思い出してしまう。
「お二人には、タリビュートへ避難していただきたく思います」
皇后がゆっくりうなずくのと同時に、オフィリアが吠えた。
「反乱軍に背を向けて逃げろというのですか! 安寧を血と軍靴で踏みにじった、あの愚かな者たちに従えと? あのナイジェルに従えと?」
オフィリアの青い瞳が怒りに燃えるのを見て、大佐は小さく息を吐いた。幼い皇帝はまだ知らないに違いない。先代皇帝の即位をめぐって起こった事件など、全く知らずに育ったのだろう。あるいは、歪められた真実を信じているのか。
「もちろん、あれは逆賊です。けれどオフィリア、あなたの命が……」
「逆賊に国を乗っとられるのを、指をくわえて見ていろと仰るのですか! 私はそんなに幼く頼りないと!?」
反乱軍で国王を名乗っているナイジェル・ライズランドは、かつて皇位継承権第一位だった。オフィリアの父であるウィルフレッド・ライズランドとの醜い皇位争いの末、後宮から流れた噂によって出自を疑われ、皇位を剥奪された。ナイジェルは幽閉塔に連行され、その後何十年と鎖に繋がれた暮らしを送っている。
事件が起こったのは、まだトゥールが幼い頃のことだったが、それでも記憶に残っている。失策が報じられるたびに、あのときから帝国はおかしくなったのではないかと新聞各紙は騒ぎたてる。反乱が起きた今も、当時の記事を引っぱり出してきて『ナイジェル、皇位奪還もくろむ』などと騒いでいることだろう。
「あの男に従うくらいなら、死を選びます」
オフィリアの強い言葉に、我に返った。マリーがヒステリックに叫ぶ。
「冗談でもそんな禍事を口にするのはやめて頂戴!」
「母上がどう仰ろうが、私は逃げるつもりなどありません。皇帝は私です!」
本来ならば、ナイジェルが皇帝になるはずだったことを知らないのだろう。口を開きかけてやめる。それはもう、過去のことだ。実際に皇帝になったのはウィルフレッド・ライズランドだった。
「オフィリア様」
血気盛んな皇帝をたしなめようと声をかける。若い皇帝の瞳は怒りに燃えていた。
「なぜ屈しなければならないのですか!」
「では陛下は、今すぐ皇都を奪還しろと仰るのですか!」
トゥールの一喝に、幼い皇帝は言葉を飲みこんだ。
「マリー様のこともお考え下さい。先代陛下が亡くなられてから、オフィリア様の身をずっと案じておられます。私にもオフィリア様が助かる方法を探すよう命じられるほどです。タリビュートにご同行いただけませんか」
「大佐、あなたは一体誰の兵なのですか。あなたは母上の兵ではなく、私の兵です。私の命令ではなく母上の命令を優先するというのですか!」
──ああ、先代皇帝によく似ている。なにもこんなに時間のないときに、思い知らせてくれなくても。
先代皇帝第一夫人は悲痛な顔をして、ときおりかぶりをふっている。
「オフィリア様、即位には貴族の承認も必要です。それがまだ得られていないのはご存知ですね? オフィリア様のご年齢では、通常後見人を立てるものです。マリー様は後見人の一人。当然、ご賛同を得なければなりません」
「もういい。ロッシュに聞く」
椅子を蹴るようにして立ち上がると、即座にオフィリアは部屋を出た。残された皇帝生母が顔を覆って泣きだす。
トゥールはどうすることもできずに、天井のシャンデリアを見上げた。
──こっちが泣きたい気分だ。
ロッシュが決めた開城時間まで、それほど余裕がなかった。




