第六章 地龍伏す 第六話
カイルロッド・フレアリングは本隊の左翼に展開していた。前線はロイス・ロッシュ率いる帝国軍と戦っているようだが、今のところ自分の率いる隊に大きな被害はない。クラウスが適度な距離を保ったまま、帝国軍本隊をひきつけてくれているようだ。
何重ものベールをはいでいくように、段々と夜が明けていくのをカイルロッドはながめた。月は昇りはじめた太陽にも負けず、煌々と輝いて見えた。
──ロイは生きているだろうか。
今やロイス・ロッシュは敵だというのにそんなことが気にかかった。頭をふって感傷を吹きとばす。戦場は夜の粘り気をおびた冷たさのなかにあった。遠くでは味方が戦っていたが、熱気のこもった前線は遠く、カイルロッドのまわりの空気はまだ澄んでいるように思えた。
「行くぞ」
元政治犯たちの集団に短く告げて、一気に馬を進めていく。薄く広がった隊列が、騎馬で一気に皇都を目指す。
左翼側に展開している帝国軍騎馬部隊の陣は薄く、甲冑の者が多いようだった。馬さえ奪ってしまえば、動きが極端に鈍くなるだろう。
「敵兵は無視して馬だけ狙え! このまま城を囲んで、一気に落とす!」
荒々しく大地を蹴る馬にまたがって、甲冑姿の男たちが突進する。
迎撃にあたっていた帝国軍を蹴散らしていく。馬を失った帝国軍騎馬部隊は、走りぬけていくカイルロッドたちに追いつくことができない。
カイルロッドは後ろから攻撃されないように後方にも兵を残してあるから、帝国軍は通り過ぎた王国軍を追うことができない。目の前の敵に背中を向けることになってしまうからだ。その間に王国軍騎馬部隊は城に向かって進んでいく。赤い髪の元海軍准佐は、後方を指揮している副将に感謝した。
丈の短い草が生い茂る平原を駆けた。馬が進むたびに足元から草の青々とした臭いが立ち上るが、汗と血と土の臭いにかき消されてしまう。舞い上がった砂塵が汗のにじむ肌に吸いついた。
星が見えなくなった空の下、王国軍騎馬部隊は帝国軍銃歩兵とぶつかった。おそらく帝国軍本隊から枝分かれしてきた分隊だろう。あわてて出てきたのか、まだ隊形が整っていない。
「突っ切れ!」
カイルロッドが叫んだところで、銃声が響いた。馬の足音と銃声が同時にあたりにとどろいた。カイルロッドの視界の片隅に、馬が起き上がって前足で宙をかくのがうつった。甲冑兵がにぎりしめていた手綱がゆるんだかと思うと、どうと馬が崩れ落ちる。前方でつづけて数人が倒れた。
「止まるな! 動きを作れ! 照準をあわせさせるな!」
歯噛みしたくなる思いで帝国軍をにらみつける。
燃えるような赤い髪は、戦場に舞い上がったほこりのせいでくすんで見えた。
帝国兵の銃撃が一瞬止む。おそらく新たな銃弾を詰めているのだろう。
──やはりまだ、準備を整えきっていない!
行く手を阻む、倒れた馬と王国兵の死体を飛び越えて、カイルロッド率いる王国軍は進む。
一呼吸後に、再び銃声が雷のように響きわたった。馬の胸にかけられた、王国兵だということを示す飾り布に鮮血が広がる。若草色の模様を塗りなおすように赤が広がって、それでも馬は脚を止めることができず、前に向かって崩れ落ちた。
──すぐそこに、城壁は見えているのに!
一瞬躊躇した味方を、カイルロッドが鼓舞する。
「城壁はすぐだ! 敵もまだ準備を整えてない! 進め!」
カイルロッドの叫びに、騎馬部隊がつづく。
すぐに後方から大砲が発射された。巨大な鉄球が空を突き進んでいく。おそらく副将が命じたのだろう。
「助かる!」
カイルロッドは馬上で喜びの声をあげた。巨大な鉄球がレンガ造りの城壁を敵兵もろとも崩していく。あっけにとられて攻撃の手を止めた帝国軍を、王国軍騎馬部隊が蹴散らかす。長剣、大剣、槍、それぞれの獲物で斬りつけ、なぎ払い、突いて進む。軽装の帝国兵たちが何人も、人形のように空に投げ上げられては地上に落ちた。
カイルロッドは全体を把握するために一度馬を止める。後方を守っていた兵がカイルロッドを追い越して、前に進んでいった。
──敵の騎馬隊と銃歩兵は別の隊だな。間隔が開きすぎている。騎馬が先走ったか。
帝国軍騎馬部隊の死体は、足元にはほとんどなかった。あるのは銃歩兵の死体ばかりだ。副将の指揮する後方の様子を確認するついでに位置を確認する。折り重なった敵兵の躯は、後方およそ五〇〇メートルほどの位置にあった。目測ではあったが、港から戦艦までの距離を測りつづけた自負がある。それほど誤差はないだろう。味方の部隊はさらに遠く、そこから砲弾を飛ばしている。一定間隔を経て前線に供給される砲弾は、皇都を囲んだ城壁をうがつ。炸裂するたびに大地が揺れる。
──ずいぶん進軍したな。大砲部隊から離れすぎたか?
馬の体勢を整えた瞬間、帝国軍銃歩兵の屍が動いた。死体に紛れて動かずに、カイルロッドを仕留めるチャンスを狙っていたらしかった。
カイルロッドは背中に背負った大剣を右手で抜き、そのまま右斜め下に大きく円を描くようになぎ払った。かつてカイルロッドが暗殺した、ラズラス・マーブル大佐の使っていたものと似ている。大剣がそのまま軌道の途中で帝国兵の長剣にぶつかる。馬の顔前にまでは届かない。
──長剣一本で立ち向かってくるなんて無茶だ。
カイルロッドの予想通り長剣は即座に叩き折られ、敵兵は無防備になった。
大剣が鎧にぶつかった瞬間、帝国兵の鎧が、ぼこっと大きくへこんだ。遠心力の後押しを受けたカイルロッドの大剣が、敵兵を馬の前に飛ばす。甲冑のなかで脳震盪を起こした帝国兵は、そのまま地面に倒れこんだ。カイルロッドの馬が敵兵におどろいて、前足を高くあげる。
カイルロッドはその瞬間、たしかに頬に薄く笑みを刻んだ。馬に高くあげていた前足を下ろさせると、そのまま進む。馬が後ろ足で帝国兵を蹴り上げていく。その間も、前方へ連続して放たれる鉄球は、壁の穴をずいぶん大きくしていた。
──あと一発。
心に決めて後方をふりかえると、ぐんと加速した大砲が飛んできたのが見えた。瞬時に軌道を予測して、命令を下す。
「皇都に突入する!」
叫んだカイルロッドに、騎馬隊が雄叫びをあげて呼応した。戦場に男の野太い声が響きわたる。
カイルロッドの予測通り、弾丸は城壁を崩し、見事に大きな穴を作った。レンガの粉がほこりとなって、戦場の空気を淀ませる。戦場に舞い上がったほこりは地面に落ちる暇もなく、ひっきりなしに脚を動かす馬によってかき回されて砂ぼこりになる。騎馬隊の後方に追いついて、カイルロッドは再び馬を止めた。
広く薄くはられた陣は、カイルロッドに戦況を伝えた。騎馬部隊の後方からだとよく見える。
なかなか進軍できない箇所があるようだ。敵軍にも手練れがいるらしい。
馬を少し移動させて、苦戦しているらしいポイントの様子をうかがう。相手は歩兵らしかった。
──歩兵相手に何やってる。一気に蹴散らせばいいだろう。
馬の腹を軽く蹴って走らせながら、カイルロッドは唇を引き結ぶ。
累々と地に伏した帝国兵の遺体を飛び越え、踏みしだいて交戦地帯へ近づいていく。
砂塵の向こうに敵兵が見える。馬の胸にかかった飾り布を斬りあげて驚かせ、王国兵を馬から落とした帝国軍人に、カイルロッドは見覚えがあった。男は馬から落ちた王国兵の鎧のすきまに即座に剣を滑りこませる。血飛沫が飛んだ。顔と士官服に、赤い血がべったりとはりついた。
──ユーミリア・ユグドラシルか!
道理で苦戦するわけだと、カイルロッドは近づきつつある脅威を見て、息を飲んだ。
ユーミリアと目が合った。全体を広く見渡そうとする黒い瞳は、焦点が定まっていないようにも思えたが、しっかりとカイルロッドを捉えていたようだ。瞳に力が満ちて、相手が呼吸を整えたのがわかった。
──突っ切る!
カイルロッドは身を低くして加速する。あんな手練れをまともに相手にしていたら、命がいくつあっても足りない。
ユーミリアは前足を高く上げて暴れていた馬の手綱をとる。先ほど彼が殺した王国軍兵士の乗っていた馬だ。黒髪の帝国軍大尉は一気に馬の背中に乗って反転し、王国軍に向き直る。
敵も馬に乗ったのを確認したカイルロッドが減速する。背中に背負った大剣を構えると、ごうっと風がまきおこった。右手で大剣を支えながら、左手で手綱をにぎる。
「ここは通さない!」
吼えるユーミリアに、カイルロッドはエメラルド色の瞳を細めた。
──海軍主催の剣術大会のあとで、手合わせしたのはいつのことだったか。
思いをめぐらせる。まともにやったのでは敵わない。すれちがいざまに一撃、いや、むしろ一気に加速してかわした方がいいか。
主が討たれたからだろう、馬はユーミリアに完全には従わない。ユーミリアの乗る馬がせわしなく足を動かす。ひづめが小刻みなステップを踏んでいる。落ち着かない。
──行け! 今だ!
一気に加速した馬上で体をひねり、カイルロッドは大剣をふるう。空気抵抗を腕の力で押しきって、右斜め下に斬りつけた。
ユーミリアの乗った馬が動いた。かわされる。
暴れ馬にまたがってバランスをとりながら、童顔の帝国陸軍大尉はこちらが動くのを待っていた。逃げればまちがいなく追ってくるだろう。
馬の歩調をゆるめて向き直る。城壁の穴は大きくなりつつある。そこへなだれこもうとする王国軍騎馬部隊を、帝国陸軍が囲もうとしている。敵の数は少ない。押し切れるだろう。
「劣勢は明らかだ。大尉、退いてください」
舞い上がったほこりが、カイルロッドの喉の奥にひっかかった。
「退くわけにはいかない!」
馬上のユーミリアの手から伸びた剣は、すでに血に濡れている。
カイルロッドは大剣をもつ手に力をこめる。いつも使っているのとはちがう、広刃の大剣では、ユーミリアの素早い動きに対応できない。大剣は重いから、ふるうのに無駄な力も使う。その分、体力を消耗するし、早く決着をつけなければならない。なにより剣筋が読まれやすい。
「なぜ退かないんです! 兵の命を粗末にすることはない!」
いつでも馬を駆け出せるようにして、大剣を地面に突き刺す。ユーミリアが動いた。
「皇都に守りたいものがあるからです!」
カイルロッドも馬を進める。鞘からいつもの薄刃の片手剣を抜き放って、ユーミリアの手元を狙う。
カイルロッドの剣をかわそうと、ユーミリアが手元をひいた。それまでカイルロッドの身体を確実に狙っていた剣先がそれる。カイルロッドは馬の腹を蹴って加速した。
──かわせた!
喜びも束の間、カイルロッドは息を飲む。ユーミリアからひどく強い殺気が放たれていた。
間合いをはかる。呼吸を整える。心臓が送りだす血液が、強く激しく全身をめぐるのが感じられた。
遠くに、白亜の居城が見えた。
──愚かな皇帝のいる帝国など、それを守ろうとする者もろとも滅んでしまえばいい! 父を殺し、母を奪った帝国などいらない!
憎悪が全身をめぐる血液にのって、カイルロッドを覆いつくす。
「あんな男は死んで当然だ! 帝国に守る価値のあるものなど……」
「ふざけるな!」
カイルロッドの声が終わる前に、ユーミリアが吼える。
「帝国は、そこに住む人々すべてのものだ!」
カイルロッドもそれは理解している。皇都に暮らす人々の命を奪い、自らの手を汚すことなど、すでに覚悟している。ラズラス・マーブルを暗殺したあの瞬間から、すべてははじまったのだから。
──帝国を守ろうとする者は滅ぼす!
たとえ自分の両手が血にまみれようと恨まれようと、血を血であがなうことになろうと、進む道だけは、揺らがせてはならない。
──すべては、ルーファスで死んだ両親のために!
カイルロッドを突き動かすのは、理屈で割りきれない憎悪だった。認めてしまえば簡単なことだ。憎悪に身をゆだねてしまえば、目の前の罪もない人を殺す苦痛に目をつぶることができる。
たとえ憎悪に身を任せることが逃げであったとしても、進まねばならない。今さら、止まることは許されない。
「ユグドラシル大尉、あなたの最も愛する人が、俺に傷つけられたらどうしますか。あなたが俺に傷つけられたら、あなたの最も愛する人は、どうすると思いますか──きっと俺を恨むはずです」
憎悪は復讐の輪の原動力となって、めぐりめぐる。
「君の過去は聞きました。ルーファスの乱の生き残りでしょう。でも、過去は過去として断ち切るべきだ。憎しみを連鎖させるな」
カイルロッドは薄く笑う。そんな正論は聞き飽きた。身を斬る痛みを経ていない言葉は何も伴わない。
──戦場に身を置いて、見かけ倒しの言葉に動かされる愚か者などいるものか!
「それは地獄を見たものだけが語れる言葉です。あなたのように帝国に傷つけられたことのない者が口にできる言葉ではない」
城壁では、帝国軍が必死に街を守ろうとしている。王国軍はそれを突破しようと、馬上で剣をふるっている。カイルロッドは片手剣をくりだす姿勢を整えた。
「ライズランド島に住む全ての人民は、帝国を構成し維持する──、帝国憲法第三条です。帝国に組する者はすべて、俺の両親の仇だ」
カイルロッドは静かに告げる。鼓動が落ち着いてくるのがわかった。普段どおり、呼吸を整えて剣を構える。ユーミリアの黒い瞳に怒りが満ちていくのが見えた。
「いっそう退けなくなった」
ユーミリアの剣がヒュッと空を斬った。刀身についていた血が地面に飛ぶ。
カイルロッドは水平に構えた剣を突き出してひねる。ユーミリアの剣に当たった薄刃の片手剣がしなる。
剣先を返してひねり、胸を狙ってもう一度突く。
しなやかで細いカイルロッドの剣先が、ユーミリアを狙う。再び剣にぶつかって阻まれる。ユーミリアはそのまま剣で押しとどめ、カイルロッドに向けて滑らせていく。カイルロッドは身をかわすと、恐怖を押し殺して踏みこんだ。
ユーミリアが瞬時に下がった。後ろに気を向けている。さらに追おうと踏みこんだところで、野太い雄叫びがあがる。カイルロッドは手を止めた。
王国軍が壁の内側に侵入したようだった。後方からは副将の声がする。
「平穏な暮らしを乱したのはあなたたち王国軍だ。俺は絶対に許さない」
ユーミリアが馬に乗って走ってくる。
──来る!
剣をふりあげて、いつかのように怒涛の連撃がカイルロッドを襲う。防戦しながら隙をうかがう。
轟音が近づいてくる。副将だろう、カイルロッドを助けようと大砲を撃ったようだ。
「っ」
まわりが王国軍に囲まれつつあることを知って、ユーミリアが身体を反転させる。本隊に帰るのだろう。
副将がそれを追おうと砲撃手に声をかけるが、カイルロッドは止めた。
「フレアリング准佐!」
不満げに口をとがらす副将に、カイルロッドは「無駄弾を使うことはない」と返した。
きっと彼とは、再戦する日がくる。他人の手で決着をつけられるのはごめんだ。
「今ならまだ追えます!」
「皇都に入ろう。俺たちの目的は街に突入して、本隊を導くことだ」
皇都の内側では、すでに味方のものらしき歓声があがっていた。
「行こう。クラウスが待ってる」
それだけ言うと、カイルロッドは頭上にのぼりきった太陽を見上げて目を細めた。風は心地よかったが、同時に身体にはりついた汗とほこりを生々しく感じさせた。




