第六章 地龍伏す 第四話
朱金の夕日が空をにじませた。草原はつぎつぎと降る光に染まり、稲穂に輝きを宿していた。のどかな香りに満ちた草原と甲冑姿の行軍は不似合いだ。一行を率いる将は、元ライズランド帝国陸軍大佐、ハレイシア・デューンである。吹き抜ける風に髪を揺らして、馬上で目を細めている。
──まさか皇都に戻ってくることになろうとは。
皇都を取り囲む外壁が遠くに見える。馬を止め、ハレイシアは遠くに黒くそびえている山々をふりかえった。先ほどまで兵を休めていた山岳地帯だ。一緒に商業都市スォードビッツから出てきたラグラス・マーブルは、まだ山岳地帯で休憩している。
山から下りて来るようにというから下りてきたのに、カイルロッドとクラウスが到着したという知らせはまだなかった。予定が遅れているようだ。このままでは夜が来る。
「カイルロッドはまだ来ないのか? イスハルを出発したと聞いたが」
このままではハレイシアの率いる軍が先に皇都についてしまう。帝国軍に総力をあげて叩かれたのでは、分断された状態で堪えられる保証はない。
東の学問都市イスハルから来たカイルロッドに、南東の宗教都市ネステラドから来たクラウスが合流したという知らせは受けている。ラグラスとハレイシアは北西の商業都市スォードビッツから来た。
──各個撃破だけは、避けなくてはならない。
皇都総攻撃は三つの軍勢がまとまってから行う予定だった。太陽が段々と赤く燃えるにつれて、ハレイシアのいらだちは増す。
「遅い……何かあったのか」
「伝令!」
馬から滑りおりるようにして、軽装備の伝令が走り寄る。肩を大きく揺らしながら、咳混じりに報告された。
「カイルロッド・フレアリング様、クラウス・オッペンハイマー様、ご到着されます」
「何分後だ」
「三十分もあれば」
「予定が遅れた理由は?」
「わかりません」
呼気を飲みこんで、再び走り出そうとする伝令役を止めた。
「私が行くから、君は休んでいていい。……このままここで陣形を整えておいてもらえるか。兵は進めるな」
制止する声があちこちから出たが、気にしない。重装備の副将に目をやると、強くうなずいた。
「お気をつけて」
副将の言葉を聞いて即座に馬を駆る。警護と伝令が数人、あとについてきた。
穏やかな茜色に染まる甲冑たちのそばを、馬で走り抜けた。ハレイシアの後についてきた伝令たちが、前に進むごとに枝分かれして数を減らす。各部隊に命令を伝えるのだろう。
馬が前に進むにつれ、ハレイシアの金色の髪が速度を受けて揺れる。やがて甲冑姿の大軍が消え、広大な大地がハレイシアを迎えた。馬は土を蹴り、ぐんぐんと前に進む。
遠くに同じような甲冑姿の軍が見える。最後まで残った伝令役の乗った馬が前に出て、商業都市スォードビッツの紋章の入った旗を掲げて大きく叫ぶ。
「伝令!」
武器を構えていた向こう側の兵たちが警戒を解き、道をあけた。
皆同じように見える甲冑の大軍を越えていくと、中心に赤い髪の上官を見つけた。
「カイルロッド」
ハレイシアの声に顔をあげた赤髪の青年は、ひどく青い顔をして、明らかにやつれていた。馬から下りて休憩をしているようだ。
「何かあったのか」
声をかけると同時に、ハレイシアが馬から下りる。急に背中の重みをなくした馬が不安そうに鼻を鳴らす。首をなでてやるとすぐに落ち着いた。カイルロッドの馬を世話していた兵士が駆け寄ってくる。たずなを渡した。
カイルロッドはハレイシアの質問には答えず、黙ってかたわらの旗を指さした。
「旗がどうかしたのか?」
赤黒い包みが旗の横にぶら下がっているのが見えた。口元をおさえてうんざりするように目を閉じたカイルロッドがため息をつく。
「具合が悪いのか」
「いや……」
言葉を濁すだけでそれ以上は答えない。らちがあかない。ハレイシアがカイルロッドの従者に目を向けると、彼はすくめていた首を伸ばして敬礼した。
「首でございます」
「くび?」
「先代皇帝、ウィルフレッド・ライズランドの首でございます」
「……正気か!」
ぶらさがった丸い包みをじっくりと見る。よく見ると乾いた血のこびりついた髪が、包みからはみ出している。
「死者を愚弄していいとでも? おろせ」
「いけませんよ」
旗に伸びたハレイシアの手を止めたのは、うしろから投げかけられたクラウスの声だった。
カイルロッドが小さくため息をついたのが聞こえた。もうすでに何度も、道中に口論をしてきたのだろう。クラウスの焦げ茶色の瞳が弧を描いた。
「敵の戦意をくじくために、持ってきたんです」
「死者に鞭を打つというのか」
「やれやれ、女性はこれだから……」
「抵抗を感じるのは当然だろう。現にカイルロッドも……」
「二人とも幼いなあ。使えるモノはなんでも使う。勝つためじゃありませんか」
草原を吹き抜けていた風が急に止まった。山の端が黒い影を濃くしている。もうあと二時間もすれば、太陽は沈むだろう。
「闇の神フェシスは戦争も死も司ります。咎めやしませんよ」
カイルロッドが暗い瞳でハレイシアを見ている。きっともう、カイルロッドはあきらめたのだろう。
薄い青の瞳を細めて眉間にしわを寄せると、ハレイシアは拳に力をこめた。篭手に包まれた手が小さく鳴る。
「宗教は関係ない。道義に反すると言ってるんだ」
「道義……道義ねえ」
「何が言いたい」
「故郷のために皇帝に身を売ろうとしたあなたに、そんなことを説かれるとは思わなかったものですから」
クラウスは屈託なく笑うと、瞳と同じ色の頭をかいた。
「……私は、そんな真似をした覚えはない」
身を売るつもりなど、端からない。皇帝が求めただけである。ただ、皇帝にハルシアナの惨状を忠言したいとは思っていた。それだけだ。
指をくわえて見ているだけでは、いつまで経っても話など聞いてもらえない。だから皇帝に近づけるよう、任された職務に励んだ。
……そうして得られた結果は拘禁だった。ラグラス・マーブルに逃がされて、ハルシアナへの援助をちらつかされ、王国派への加担を迫られた。身を売ったのと大差なかった。
いつの間にか噛み切った唇から、血が流れていた。口のなかに広がる錆びた味は、これまで舐めてきた辛酸と同じ味がした。
「道義で飢えや寒さがしのげましたか? もっと早くあなたが身を売ればよかっ」
瞬時に血生臭い風が起きて、クラウスが吹っ飛んだ。
「いい加減にしてくれ」
「カイルロッド」
王国軍の黒い軍服を身にまとった赤髪の男は、獣のようだった。体勢を低くしたまま、上目遣いでクラウスをにらみつける。
風が、カイルロッドの身体にしみついた血の臭いを運んできた。己の唇からする血の臭いとは、比べ物にならないほど濃い。ハレイシアの背筋をさっと汗が流れた。
──止めなければ!
カイルロッドに何かあったのは明白だ。そう直感して、あわててクラウスとの間に割りこむ。
顔をあげてカイルロッドに目をやる。目を疑った。赤い獣はいつものように、疲れきった笑みを浮かべていた。
普段と同じカイルロッドの様子に、槍を構えるハレイシアの手が躊躇する。
「デューン将軍、心配しないでください」
カイルロッドがクラウスに手を差し伸べる。クラウスも「野蛮ですねえ」とその手をとった。
「まったく……止めるなら普通に止めればいいじゃありませんか」
「あなたを論破するよりこうした方が早いってことは、イスハルからの旅でよくわかりましたから」
頭を垂れてクラウスの服についた泥をはらっていたカイルロッドの唇が「一度こうしてやりたかったんです」と小さく動いたのをハレイシアは見逃さなかった。
「早く行かなきゃ、誰かさんが待ちくたびれて山から下りてくる」
言い訳するようなカイルロッドの声を、クラウスが制止する。
「もう少し……戦況が有利になるまでは、戦場であの方のことは口にしないでください。いいですね?」
──誰かとは、ラグラス・マーブルのことか?
なぜ、と問いかけそうになってやめた。思い当たることがあった。
王国軍はネステラドにいたアスハト教徒たちの協力で、帝国軍に対抗する兵力を維持している。アスハト教教祖を逮捕したラグラス・マーブルに、彼らが協力するとは思えなかった。
「……今ここにいる兵だけで城を落とすのか」
「そうです。そんなに心配することはありませんよ。陛下の首があるんだから、いきなり攻撃してくるようなことはないでしょう。その間にこちらもいろんな支度ができる」
クラウスの言葉通り、太陽が沈んで王国軍が皇都に接近しても、戦端は開かれなかった。
皇都の外壁の上に乗った帝国側の大砲が、照準を上にあわせた王国軍の大砲とにらみ合っていたが、どちらも動く気配がない。
皇帝処刑を知らせる使者を送ったことが効いているのだろう。首を引き渡してもらいたいという返事を受け、ハレイシアがその役目を負うことになった。その間、カイルロッドが布陣を整える。
「皇都の民を巻きこむことは避けたい。略奪など、人道に反する行為をした者は厳罰に処すと伝えておいてくれ」
カイルロッドは暗い面持ちのまま、馬上で剣の位置を確認している。
「カイルロッド?」
「……そう、ですね」
かろうじて返事は返ってきたものの、ひどく暗い声だった。
「今さら馬鹿らしい。犠牲のない戦争なんてないんです。デューン将軍はできるだけ時間を稼いでください、いいですね」
クラウスの声に、胸騒ぎが起きる。言葉をにごしたカイルロッドに、ハレイシアの青い瞳が向いた。
「カイルロッド、お前も犠牲など当然だというのか?」
馬鹿らしいのはどちらだろう。クラウス・オッペンハイマーだけならまだしも、カイルロッド・フレアリングも皆、犠牲など当然だというのだろうか。
帝国も王国も、ろくなものではない。
いらだちのままに馬の腹を蹴ると、ハレイシアは姿勢を低くした。前かがみに乗って馬を駆けさせる。男より体重は軽いから、馬の負担も軽い。はやる心をなぞるように、馬が加速していく。
予定時刻には少し早かったが、前線よりもさらに前に出た。
「先代皇帝ウィルフレッド・ライズランド殿の首をお持ちした! 今すぐ道を開けてもらいたい!」
「ほらほら、首ならここにありますよー」
追いついてきたクラウスが旗をふり、丸く赤い包みを揺らした。
ハレイシアの青い瞳は見る人に冷静さを感じさせるが、頬は怒りのあまり紅潮している。今はクラウスの顔など見たくない。顔を背けて進もうとすると、クラウスが言葉をかけた。
「カイルロッドがあなたの言葉に答えなかったのは、ルーファスの乱を経験しているからです。戦場に理想などない。あなたもいい加減に現実を見なさい」
金髪の将軍は、怒りに任せて首のぶらさがった旗をクラウスから奪い取った。
クラウスはちいさくためいきをつくと「任せましたよ」とだけ告げ、王国軍の人垣の向こうへと消える。
帝国軍に目を向けると、高い皇都の兵の向こうに白亜の城が見えた。
「私はハレイシア・デューン! 元帝国陸軍大佐である!」
カーミラ城は新皇帝オフィリアを守るように気高く、遠くで輝いていた。
──なぜ私は、戻ることができないのだろう。
凛とした城の白さが、夜ににじんでいる。
「大佐、お久しぶりです!」
感傷を打ち破ったのは、陽気な声だった。視線を戻すとロイス・ロッシュ中佐がいつかのように両手を広げていた。軍服を着ただけの軽装だ。
「……陛下の首だ」
旗の上方を下げて、首の包みを見せる。すぐに馬から下りた。目の前のロイス・ロッシュ中佐は以前と何ら変わりない。飄々とした様子にいらだつ。
歩をすすめて首の包みを渡すと、ロイス・ロッシュはうしろに控えていた従者に首を渡した。
「確認しないのか」
「だって大佐、ウソつかないでしょ」
ハレイシアの言葉に一瞬目を丸くしてから笑ったロイス・ロッシュ中佐を、ハレイシアは直視できなかった。
これから戦う相手に笑いかけられる神経がわからない。
「もう大佐じゃない」
銀髪の帝国陸軍中佐は、かろうじてとったハレイシアの小さな抵抗を、あっさり笑って受け流してしまう。
「じゃあハレイシア」
手袋もしていないロッシュの指が、ハレイシアの髪を耳にかけた。馴れ馴れしい。
手を伸ばせば届く、そんな距離にいることがますますハレイシアの心をざわめかせる。これほど近いのに、帝国に戻ることはできない。
「笑うな」
顔を上げて、震える声を投げつける。胸倉をつかんでにらみつけても、相手に対する殺意はわかない。
「……わらうな」
──私は望んで王国軍にいるわけじゃない。
これ以上、口にするわけにはいかない。ハレイシアは奥歯を噛みしめる。
「俺を殺しにいらっしゃい」
光の当たる角度によって、銀にも灰にも見える色の瞳を細めると、ロイス・ロッシュはそう笑った。その頬には薄い笑みがはりついている。
──なんて冷たい目なんだろう。
夜の冷たい空気のように、余計なものが取り除かれる。ロイス・ロッシュのいつものふざけた言葉の裏に隠れているものが見えた気がした。
あの陽気なロイス・ロッシュがこんな顔をするのだと驚くよりも、ただ見入った。冬の月のように、ただそこから見下ろされているかのような目だった。
「……なぜ帝国軍は進軍しなかった? 皇都の民を巻きこむというのか?」
悟られるのがいやで、胸倉をつかんだ手に力をこめる。そのたびに鎧ががしゃがしゃと鳴って、戦場にいるのだということをハレイシアに実感させる。
「皇都の中に入れるつもりはありません。あのにやけ眼鏡がごっそり軍勢引き抜いていったおかげで、援軍が間に合ってないんですよ。こっちは防衛戦をするしかない。市街戦にはしたくないから、そうなる前に止めます」
──話のわかるやつは、ここにいた。
ロッシュの胸をつかんだハレイシアの手から、力が抜けた。腕を包む篭手が、かしゃりと音をたてた。
──わかっている、敵将だということくらい。
動かしようのない事実は、故郷の吹雪よりもなお、冷たい風となってハレイシアを包む。
こんな戦争など、早く終わらせなくてはならない。それでも動きだしてしまった以上、運命の輪を止めることはできない。進めるところまで進まなくては。
「我ながら数奇な運命だ」
仰ぎ見た空は薄暗かったが、皇都の塀の向こうに見える城は、相変わらず凛としていた。森の葉が風で大きく揺れた。
「ハレイシア将軍、俺の首を狙いに来てくださいよ。むさい男に殺されるのはごめんだ」
小さく肩をすくめた軍服のロッシュに、ハレイシアは先ほどまで皇帝の首がぶら下がっていた旗を槍のようにまわした。
「それがお前の望みならば。……しかしそんな格好なら、簡単に狙えそうだ」
重装備のハレイシアに比べると、士官服を着ただけのロッシュは頼りなく思える。
「戦う前から鎧なんて着てたらバテません? そう簡単にはやられませんよ。どうかお手柔らかに」
「戦争が終わったとき、互いに生きていたら、祝杯でもあげよう」
鎧を着込んだせいで暑い。こめかみを汗が滑り落ちたのを感じて、ロッシュの言にも一理あるとハレイシアはうなずいた。
握手をしようと手を伸ばしたハレイシアに軽く投げキスを返すと、ロイス・ロッシュは手をぱたぱたと開け閉めした。
「戦乙女ってのは殺伐とした感じがまたイイですね。いつでもお相手しますよ」
馬上に戻ったハレイシアの鎧ががしゃりと鳴って、装甲のすき間から涼しい空気が入る。
「まったく……相変わらずだな」
王国軍の鎧ばかりが鳴る薄暗い夜に、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。




