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エンドロール・サガ  作者: 網笠せい
第六章 地龍伏す
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第六章 地龍伏す 第三話

 皇帝が夢に見るのは、美しい妻の姿だった。

 黄金色の髪を結い上げた妻、マリーがふりかえると、深い青の瞳が大きく見開かれる。まだ王宮に慣れないというように細い指を胸の前で組んではおろす、その仕草がたまらなく愛しかった。

 ライズランド帝国第十一代皇帝、ウィルフレッド・ライズランドはそまつな寝台の上で寝返りをうつ。腹の肉が波うち、カビのはえた布団からほこりと異様な臭気が舞いあがった。

 皇都モルティアを出立して数日。イスハルへ到着したのは昨日の夜だ。

 反乱軍の宣戦布告を聞いてすぐ、城を抜け出した。城から逃げ出した後、ずいぶんよく眠れるようになった。酒も色もない逃亡生活だが、ぐっすり眠れた。きっと疲れているのだろう。

 恐怖に駆られて城から──皇都から飛び出したのだが、日を追うごとに緊迫感は薄れ、ただゆったりと旅を楽しんでいるような気分になりつつある。

 港町クロムフから国外に逃亡するつもりだ。どこかの島で静かに、酒と一人の女と共に暮らす。それでいい。途中で女を見つけるつもりだった。後宮の女に料理や掃除などは期待できないだろう。


 ──金色の髪と青い目をした、かつてのマリーのような女を連れて行こう。


 港町クロムフへ行くにはイスハルを通らなくてはならない。イスハルを治めるのはラグラス・マーブル大佐だ。帝国上流貴族、マーブル家の次期当主で陸軍大佐。中佐から昇進させて恩を売っておいたのは正解だったと、皇帝はほくそ笑んだ。宣戦布告をしてきたナイジェルの拠点、ネステラドの隣を通るのは不安だが、イスハルからクロムフへ行くことができれば……。


 皇帝のその読みは甘かったと言えるだろう。ラグラス・マーブルが反乱軍にいるなど、考えたこともなかった。

 思い出すだけで腹が立つ。薄いベッドの上に拳を打ちつけると、そのたびに腕の肉が揺れ、ベッドがきしんだ。


「一体何が不満だというのだ!」


 富を持ち、権力を持ち、それでもまだ不満だというのか!


 反乱軍に捕まったならば、無事でいられるものか。ナイジェルはおそらく手加減などしない。己を仕留めにくるだろう。

 穏やかな気持ちでいたのは、旅をしていた間だけだ。状況は悪化した。皇都にいた頃よりも恐怖は増し、ときおり発作的に叫び、ベッドや壁に拳を叩きつけた。両手の皮はむけ、血がにじみ、やがて部屋の不衛生さゆえか、黄色の汁を出した。隠れていたあばら家の一室が包囲され、部屋から出ることも許されぬまま、もう丸三日が過ぎている。事実上の幽閉だ。

 荒々しく戸を蹴ると、うるさい、黙れ、と見張り役が怒鳴った。


「誰に口をきいている! 私は十一代皇帝……っ」


 言葉の途中で扉が開いた。

 屈強な中年男性がそこに立っている。


 ──まさか、こいつが私の首をはねるのか?


 廊下から現れた肩幅の広い男は、品定めでもするかのようにあごをなで、こちらを見た。


「陛下」

「な、なんだ」


 つぶやくように、男は短く口にした。それに対して返事をしたものの、皇帝は完全に腰がひけている。

 皇帝の言葉を聞いて、即座に男の背筋が伸びたかとおもうと、右手が上がる。皇帝の身体がびくりとふるえる。よく見ると敬礼だった。


「帝国海軍少佐、デオフィル・リシュルです」


 海軍だと? と皇帝は気色ばんだ。


「皇都までご同行願いたいのですが、よろしいでしょうか」


 日に焼けた男の顔は精悍で、眼光は鋭く、揺らぐことがない。


「ど、どっちだ、お前は、帝国軍と反乱軍とどっち……」

「先ほど申し上げましたとおり、《帝国》海軍所属であります。上官の命により、皇都モルティアまでご同行願いたいのですが」

「よし、連れていけ!」


 いまさら威厳を強調したところで遅い。あとでいい笑いものになるだろうが、生き延びることができるのなら、それでも構わない。

 デオフィル・リシュルに連れられて宿屋の裏口から出る。既に警備は数人倒れていたが、異常に気づいた警邏(けいら)中の者が襲いかかる。

 目の前にデオフィルがいても恐怖は拭えない。皇帝は目を閉じた。遠くで金属同士が激しくぶつかる音がする。薄目を開けるとデオフィルが警邏中の敵兵に斬りこんでいた。

 無駄な動きが一つとしてない。突いて、からめて、相手の剣を封じたあとに再び突く。

 華麗な動きにうなっていると、背後から声がした。


「お待ちしておりました」


 生きた心地がしなかった。恐怖に歪んだ顔を向けると、幼い顔をしたその男は敬礼した。


「帝国陸軍大尉、ユーミリア・ユグドラシルです。リシュル少佐と共に陛下をお迎えに参りました」


 ──陸軍だと? 先ほどの男は海軍だと言った。なぜ所属のちがう軍隊が一緒に行動している? まさかこやつらは反乱軍なのではないか。私はたばかられているのではないか。


 たずねようとしてやめた。無駄なことを訊いて首をはねられたのではたまらない。


「うむ。頼む」


 こちらへ、という言葉に従った。前から現れた敵を、ユーミリアがあっさりとなぎはらう。

 額、首、左胸……先ほどから見ていると、瞬時にとどめを刺している。

 明らかに即死を狙っていた。この男の剣は城で学ぶような華麗な剣ではない。殺人剣だ。

 急に背筋が寒くなった。

 背後から見ていても、ためらいなく戦っているのがわかる。


 一見貴族の子弟にしか見えぬような顔をして──まさに鬼だ──。


 思わずあとずさると、デオフィルの背中にぶつかった。


「おっと、これは失礼しました」


 相変わらずの華麗な剣さばきで敵兵を切り刻みながら、デオフィルはにやりと笑った。


 ──なぜこのような場所で笑える?


 ウィルフレッド・ライズランドは思わず頭を抱え込んだ。

 前後を二人の怪物に守られて、イスハルの平坦な道を進むと、いくつも学校がならんでいるのが見えた。さすが学問都市というべきか。デオフィルは足をとめると、小さなくぐり戸から塀のなかに入った。皇帝もつづく。


「現在交渉中ですから、目立つ行為は避けていただきますよう」


 デオフィルに小さく耳打ちされてうなずいたものの、命令されたようで癪だった。

 中庭を抜け、サロンにいたる。貴族の子息たちが会話を楽しんでいる様子が目の端に入った。あちらも気づいたのか、誰だろう? と不思議な顔をする。やつれた姿を見て、それが皇帝だと認識できる者はいない。

 帝国貴族でありながら私の顔がわからぬのかと、口を開きかけてやめた。目立つ行為は避けろと言われたばかりだ。

 かろうじて飲み込んだ怒りが、ぐるぐると腹の中を駆けまわるのを止められない。

 思いきりにらみつけると、サロンの集団はあっけなく解散した。

 階段をのぼって、学長室らしき部屋に到着する。

 天井にはシャンデリア、床には毛の長いじゅうたんが敷かれている。数々の装飾を施した棚には無数のトロフィーや彫像が置いてある。さすがに貴族の子息が通う学校だ。それなりにいい調度品がそろっている。


「……本当に、モルティアに行くのだろうな?」


 一度打ち消したはずの恐怖が、疑心をつれてきた。


「はい。ご安心ください」


 真摯に答える陸軍大尉の顔をじろじろと見る。見知った顔ではなかった。

 下っ端の顔を覚える暇などない。見覚えがなくて当然だ。

 ユグドラシルといえば神官一族だろう。さすがにそんな名前を使うわけがない。名前に関しては嘘をついていないだろう。


「ほう? 安心してよい、か」


 ユグドラシルなど、どっちつかずで常にちょこまかと小賢しく動く一族ではないか。小さな反乱には加担しないが、国の命運を左右するような大きな戦では常に兵力を二分させる。

 ユグドラシル一族だから信頼するというわけにはいかない。そもそも陸軍と海軍が一緒に行動するなど聞いたこともない。

 うさんくさい寄せ集めの軍ではないか? 一体何をするつもりだ? 誘拐をくわだてる第三勢力でも出てきおったか……。


「陸軍は政治に口を出すだけで実戦能力には欠けます。海軍少将アルフォンス・クーベリックの命で私が遣わされました」


 皇帝の疑問を悟ったような、海軍少佐の言葉に陸軍大尉は苦い顔をした。


「ふむ。そうか」


 アルフォンス・クーベリックは確かに信用できる。しかし名など騙れば済むことだ。……信じられるのは己のみ。皇都に連れ戻されては逃亡することもできなくなる。カーミラ城と共に討ち死にして何になるというのだ──。

 皇帝の思考を破ったのはノックの音だった。


「これはこれは、皇帝陛下、ようこそお越しくださいまし……た」


 学長がうやうやしく頭を下げ、もみ手で近づいてきた手を途中で止めた。言葉をにごしたのに気づいて、デオフィルがすかさず敬礼する。


「こうして陛下をお助けすることができました。ご協力に感謝いたします。本来ならばこちらで身のまわりを整えさせていただきたく思うのですが、これより皇都へお連れせねばなりません。あまり小奇麗にして、正体が露見するわけには参りませんので……」

「なるほど、なるほど」


 学長は鼻の下にくるりと巻いたひげをなで、デオフィルの言葉にうなずいた。


「陛下は反乱軍に拉致されてこの街までたどりついたとお聞きしております。生きた心地がしませんでしたでしょう。どうか当校でおくつろぎください」

「うむ」


 ──こういう輩の方が、まだ信用できる。

 金と名声さえあれば、この手の者は意のままだ。逆に理由の見えぬ者は怖い。


「では、別室にお連れいたします。多少せまくるしいのですが、あまり目立つ場所にお通しすることはできませんので……大変心苦しいのですが」


 学長室を出て廊下を歩く。扉を開けた瞬間、皇帝の拳は怒りに震えた。長年使われていなかったであろう部屋はほこりが山積しており、薄暗くじめじめとしていて、今朝までいた部屋とそう大差なかった。


「……なんだこれは!」


 腹で渦巻いていた怒りがついに爆発した。顔を歪めて怒鳴りちらす。


「陛下!」


 デオフィル・リシュルに、部屋へと押し込まれた。扉が閉じる瞬間に見えたリシュルの顔には、疲れきった笑みが浮かんでいた。


 嘲笑だ、と皇帝、ウィルフレッド・ライズランドは直感する。


「貴様!」


 傷ついた拳をふりあげるが、扉は開かない。


「くそう、くそう、貴様ら、一体何のつもりだ!」

「陛下、最初に目立つことは避けていただきたいとお願いしたはずです。廊下に響きますゆえ、しばらくこの戸は閉めさせていただきます」

「ふざけるな!」

「モルティアのときのように、逃げられると困りますので」

「貴様、名はきっちりと覚えているからな! 見ていろ!」

「結構です。これも陛下をお守りするためですから、降格されてもクビにされても呪われても構いません」

「生ぬるい、不敬罪で処刑だ!」

「犯罪をとりしまるラグラス・マーブルは謀反に加担した疑いがありますが」

「くぅ、貴様ァ! ふざけるなァ!」

「……いい加減頭を冷やしていただけませんか、皇帝陛下殿」


 扉のすき間からわずかに聞こえた声は明らかに侮蔑の色をふくんでいた。


「おい、誰だ! 今のは、デオフィル・リシュルか……!」


 ──帝国軍人があのような口を私にきくものか!! あれは偽者だ。やはり危険だった。幽閉されたままでいるのも危険だったが、今も危険なままだ。逃げなければ、逃げなければ……!


 薄暗い部屋を見回す。本棚、戸棚、書類の束、椅子、机……分厚いカーテンに気がついてかきわける。案の定、窓があらわれた。


 このままで終わるものか!


 書類の束をまとめていたロープをじっと見る。細すぎる。カーテンをねじってつなげる。

 窓から地面への距離をはかる。今いる部屋は二階のようだ。部屋にある四枚のカーテンをあわせれば、長さはなんとか足りるだろう。

 窓を開けると思ったよりも風が強い。一瞬ひるんだが、皇帝は意を決した。

 身体を乗り出してカーテンのロープをたらし、窓枠をまたぐ。カーテンにつかまって足場に身をよせると結び目がぎしぎしといやな音をたてたが、今ここから逃れることを最優先としなくてはならない。

 腕が重みに耐えられない。カーテンと同じようにきしきしと悲鳴をあげている。いつからこんなに自由のきかぬ身体になったのだろう。

 少しずつ腕を進める。腕とカーテン、どちらのきしみもやまず、途中で落ちた。

 茂みに落ちてうめき声をあげる。尻をさすって巨体を起こすと、貴族の子息たちが目についた。


「おい、助けろ!」

「汚いなあ。さわらないでくれよ」

「何を! 私は第十一代皇帝、ウィルフレッド・ライズランドぞ!」


 皇帝の周りを取り囲むと、彼らは高らかに笑った。軽蔑を宿した瞳と、あざけりを刻んだ唇が並んでいる。

 信じる気など端からない、そういうことか。

 無言の群れから投げかけられる視線は暴力的ですらあった。嘲笑をはねのけるべく皇族の紋章のついたボタンを見せる。彼らは瞬時に顔色を変えて頭をたれた。


「どこかに匿ってもらえんだろうか。今反乱軍に追われているのだ」

「かしこまりました」


 どうする、と戸惑う少年たちの中にあって、ただ一人、金髪の青年だけはそう答えて微笑んだ。首領格であるらしい。青い瞳の、美しい少年だった。

 ウィルフレッド・ライズランドはどきりとした。

 後宮の女たちの顔が思い出される。皆、金髪碧眼の美しい女性たちだった。


 ……オフィリア。


 思い出されたのは、マリーによく似た息子の姿だった。

 金髪の少年は皇帝を寄宿舎の自室に通すと、仲間に出立の準備をするように告げた。


「こんなところで陛下にお目にかかるなんて、思いもしませんでした」


 案内された部屋はせまかったが、先ほどのようにほこり臭いわけでもなく快適である。女性として育てられているオフィリアも、もう少し大きくなれば、彼のようになるのだろう。


「この部屋の椅子はどれも固くていけません。陛下にこのようなことをおすすめするのは気がひけるのですが、ベッドにお座りいただきたく思います。ベッドの方が、やわらかいですから」


 少年は屈託なく笑ってみせた。

 言われた通り、ベッドはやわらかかった。少年が良家の子息であることが容易に想像できた。

 丸い窓にはめられたガラスには、年号と歴史の単語が並んだ紙が貼られている。


「陛下がモルティアから移動されたとは聞き及んでいたのですが、まさかイスハルにいるなんて……お会いできて幸甚です」


 少年の青い瞳が三日月のように、細いカーブを描いた。


「移動」


 少年の屈託ない笑顔が小さなトゲとなって、皇帝の胸をちくりと刺す。


「……移動か」

「あの、何か失礼なことを申し上げましたでしょうか……?」

「いや」


 黙って首を左右にふる。

 何気なく目に飛びこんできた本棚には、本がみっしりと置かれている。本棚だけでは足りぬと見えて、机の上にもはみだして散乱していた。


「勉学に励んでおるのだな」

「はい。今はそれが、僕に与えられた役目ですから」


 少年は天使のような声でそう告げて、恥ずかしそうに机の上を片付けた。


 なにか、ほうびをとらせなくてはな──。


「よいことだ。そなた、名はなんとい」


 薄い寄宿舎の扉がノックされたとき、皇帝ウィルフレッド・ライズランドは言葉のつづきを飲み込んだ。

 扉が開いて屈強な男たちがなだれこんでくる。手に剣をもち、鎧まで着込んでいる。


 一体なにごとだ。


 男たちの緊迫した様子を肌で感じて、皇帝は身をかたくした。


「皇帝陛下はこちらです」


 金髪の少年がにこりと笑うのと同時に、屈強な男達は皇帝へ向けて剣を構える。


「……たしかに第十一代皇帝、ウィルフレッド・ライズランドだ」

「これは、どういう……」


 皇帝に向けて、金髪の少年はにこやかな視線を投げかけた。


「だってあなたは、暴虐の限りを尽くしたのでしょう?」

「なにを……」

「酒と色に溺れたのでしょう? そうして、今の事態を招いたと聞いています」


 理解できないのではない。したくなかった。

 わめくことも怒鳴ることもせず、ただ無気力になった皇帝を兵士たちが部屋から連れ出す。


「僕たちの日々の暮らしを、おびやかしたあなたが悪いのです」


 人だかりの向こうから少年の声がして、ウィルフレッド・ライズランドの意識は遠くなる。


 オフィリア様が即位された今、あなたはすでに皇帝ではありません。亡霊でしかないのです──。


 先ほどの少年の姿がにじんで、自らの子、オフィリアに変化するのに、そう時間はかからなかった。

 敵を前にして逃げ出すような父上など、要りません──。


 ただ一人の息子は皇帝にそう告げると、かすみのように消えた。


「オフィリア!!」


 叫んだ己の声で我にかえった。気がつけば、目の前に銀色の巨大な刃がある。危ないじゃないかと身体を動かす。肉が揺れただけだった。あたりを見回すこともできない。身体の自由を奪われていることに気づいた。


 ……これは、首切り台ではないか?


 ようやく気がついて、皇帝は叫び声を上げる。


「おい、誰かおらぬか! これは……これは一体どういうことなのだ!」


 赤髪の青年がゆっくりと近づいてくるのが見えた。その姿を見た皇帝は、恐怖に駆られて言葉にならぬ声を上げた。


「おれの顔をおぼえていますか?」


 赤い髪と緑色の瞳をした青年は、静かに尋ねる。


「知らぬ、知らぬわ、お前の顔など知らぬ! 死神など、死神の顔など……!」


 錯乱したまま叫ぶ皇帝、ウィルフレッド・ライズランドに、カイルロッド・フレアリングは悲しげに眉をひそめた。


「では、ルーファスで起こった反乱のことを覚えていますか? 父を殺し、母を犯し、そして自害させたことを、覚えていますか?」


 淡々としたカイルロッドの声に、ウィルフレッドは首をくりかえし縦にふる。


「覚えているぞ! 覚えている! お前はメリルの子か!」


 後宮で自害した女は数知れなかったが、ウィルフレッドはその名を覚えていた。美しく咲いたまま散った妻たちは、彼の中で永遠である。

 蜂蜜色の美しい髪、淡い青の瞳。大地のような茶褐色の肌に、桜の花弁のような唇。


「メリル、あれは美しい女だった……!」

「そうです。メリル・フレアリングの息子です」


 おれは父にばかり似ていて、母にはこれっぽっちも似ていませんが……とカイルロッドがつづけた声は、拘束された皇帝の耳には届かなかった。


「マリーによく似ていた……」


 つづけてこぼれた皇帝の声に、信じられぬというようにカイルロッドが目をみはる。


「仕草がよく似ていた……肌の色こそちがえど、あれこそ、私が求めていたものだった……」

「あなたは、母にマリー様を重ねていたと言うのですか? マリー様は今も皇都に、後宮にいるのに、なぜ」

「あれは子を産んでから、私に冷たくなった」

「……だからって、母を無理やり差し出せとルーファスに攻め入ったんですか? あなたは、そんなことのために?」


 赤い髪の死神が、鞘から剣を抜き放つ。


「だとしたら、皇后を変えたのはあなたではないか! 子が産まれても顧みず、後宮で贅の限りを尽くさせた、あなたではないか!」


 カイルロッドの構えた剣が、瞬時に振り下ろされる。

 金色の髪は頭を垂れる稲穂のように、青い瞳は海のように。白い肌をほんのり紅に染めて、その女は不安そうに胸の前で細い腕を上下させた。


 マリーを変えたのは、たしかに私かもしれぬ──。


 何度も振り下ろされる剣が、肉をそいでいく。

 四散した赤い血と肉片を見て、カイルロッドはうつろな目で「母さん」とくりかえしつぶやいた。

 イスハルの冷たい石畳が、皇帝、ウィルフレッド・ライズランドの血を受けた。

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