第一章 火龍の息吹 第三話
皇都モルティアは白亜の城を中心とした街で、四方をぐるりと塀に囲まれている。天気のいい夜には月光が城を照らし出すのが、メインストリートからよく見えた。ロッシュとユーミリアはメインストリートから一本裏に入った通りにある酒場にいた。
「だからぁー」
雨の日の酒場は、より一層騒がしい。雨で仕事が思うように進まなかった連中が集まって憂さ晴らしをするからだ。ここ数日続いた雨のせいか、室内で乾いた洗濯物特有のすえた匂いと、酒の匂いが酒場には充満している。
「お前はどうしてそのていねいな口調を改めないんだ?」
素っ頓狂な男の声がする。酔っているらしい。
「ロッシュ、もう帰りましょう。飲みすぎです」
「うるさいッ、質問してるのは俺だあ! 答えろ! 答えろっ、ユーミリアァ!」
先ほどからずいぶん荒れている。市街の帝王とあだ名をつけられている銀髪の中佐は、先ほどから己の副官に絡みつづけている。
「だってあなた、私の上司でしょう。口調だって多少はかしこまるのは当然でしょう」
オニキスのような黒い瞳の大尉はジョッキに手をかけたまま、素面であるかのようにさらりと答える。
「ああ悲しい! 俺は悲しいぞユーミリア! 俺とお前がどォれだけ長い付き合いだと思う!」
「長い付き合いだろうが上司は上司ですよ」
「いいや、お前は士官学校時代からそうだった!」
ロッシュが激しくジョッキを机に叩きつける。空になったジョッキからビールの泡が飛んだ。少しも迷惑そうな顔をせず、その泡をかわしてユグドラシル大尉が答える。
「そりゃあそうですけど、学年が違うでしょう。あなたは先輩ですよ。私の方がずっと年下です」
「六歳しか違わないだろうがァー! お前もすぐに三十路だーッ!」
ロッシュ中佐が猛烈な勢いでユーミリアに食ってかかる。人差し指をつきたてて副官を襲うと、身構えた副官は難なくその人差し指を防御した。
「お前もアリアちゃんが『ユーミル』って呼んでくれなくて気にしてるのを知ってるぞ! だったらオレの気持ちもわかるはずだ!」
急に恋人の名前が出てきて、ユーミリアは表情をひきつらせる。
「それとこれとは話が違うでしょう」
「いや、同じことだ! 皇都に出てくる前から付き合ってるんだろ? 一緒に住んでるんだろ? それなのに『ユーミリア様』とかちょっと距離のある呼ばれ方されちゃってさ! 白状しろよ。寂しいだろう? 寂しいだろうがぁ!」
肩をつかんで力説する上官に、ユーミリアは逆らうことをしない。
「オレもな、一昨日恋人に逃げられて寂しいんだよ。逃げるつもりが、逃げられたんだよぉぉ」
「知りませんよ。大体中佐、マチルダさんとお付き合いされてるんでしょう?」
「マチルダとは昨日からだ!」
「じゃあ寂しくないじゃないですか」
酔っ払いの相手をまともにするだけ無駄だ。
「暑い! 蒸し暑い!」
唐突にそう叫んで、シャツの前ボタンを引きちぎらんばかりに脱ぎだした上官を、ユーミリアはあわてて止める。今ここで止めないと、全裸になりかねない。ロッシュは酔うと脱ぐ癖があるのだ。あわてるユーミリアをよそに、ロッシュは途中で動きをぴたりと止めた。盆に空ジョッキを数杯乗せた酒場の女将が背後を通り過ぎる。
「ねえさんビールもう一杯」
急に普通の調子に戻った銀髪の中佐がそう告げる。もちろんすべての女性に対して捧げる微笑みも忘れない。
──案外、酔ってなかったりするのだろうか?
拍子抜けしたユーミリアがかしげた首を元に戻した瞬間、ロッシュは人差し指で副官を攻撃した。白い人差し指が副官の額に直撃する。
「はぁい、一本取ったァ! 今日はお前のおごりね~」
「子供ですか貴方は」
「油断する方が悪いんだ。まあ、油断を誘うオレのテクニックも、完璧だったけどな!」
二日酔いになるほど飲んだ覚えはないのに早くも痛くなりはじめた頭を抱え、ユーミリアは酔っ払いの上官に向けて疲れた笑いを浮かべた。