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エンドロール・サガ  作者: 網笠せい
第五章 風龍の跳躍
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第五章 風龍の跳躍 第五話

 ハレイシア・デューンのまどろみを破ったのは海風だった。潮の匂いが鼻をくすぐる。

 ハルシアナは海に近いのだから当然だ。

 寝返りをうって、再び目を閉じる。

 ベッドがやわらかいことに気づいて、あわてて体を起こした。


「ハルシアナではない?」


 ハルシアナの自室のベッドは硬い。こんなにやわらかいわけがない。

 あたりを見回す。天井にぶらさがるシャンデリア、猫脚の椅子と机。細かな模様が施された花瓶には真紅の薔薇が何本も生けられている。貴族の邸宅のようだが、なじみがない。


「ああ、そうか。ここは」


 商業都市スォードビッツか、と唇を噛む。

 城内牢を逃れて、後宮で皇帝第二夫人エルザに会ったのを思い出した。クラウスとの情事のあとだというのに、エルザは以前後宮で話したときと変わらぬ様子で無邪気に微笑んだ。


「さあ、早くお入りになって。逃走が知れたあとでは警備が厳しくなります。総責任者が後宮におられても言い逃れはできないということは、既にご存知でしょう?」


 その声に従い、衣装入れの中に身をひそめる。しばらく静かな時間が流れた。考えるのにはちょうどいい時間だった。

 一体自分に何が起こったのかと考えた。ここ最近のめまぐるしい変化についていけない。

 逮捕されて、狙われて、監禁されて、逃がされた。

 自発的な行動がない。ハレイシアのあずかり知らぬところですべてが動いている。

 衣装入れを運んでいるであろう振動が伝わって、あたりが暗くなったのがわかった。

 いつ見つかるか、考えただけで呼吸が乱れた。目を閉じて、まぶたの裏に訓練場を描く。手に持った槍を構える。槍先を沈めて足元を狙う。目の前の敵は槍を構えることもせず逃げ回る。それが自分自身だと知って、憎しみを覚える。突く。胸にずきりと痛みが走って、思わず目を開いた。せまい天井が眼前に広がった。じわりとまなこが潤んだのをこらえる。

 こんこん、と天井が小さな音をたてた。あわててまばたきをして、潤んだ瞳を隠す。すぐに衣装入れのふたが開いて、銀縁眼鏡をかけた笑顔の男が顔を見せた。


「僕はこれからネステラドに戻ります。あなたたちは、スォードビッツに」


 小さな地下倉庫を出て階段を上りながら、クラウスはそうささやいた。


 宗教都市であるネステラドで一体、何を?


 クラウス・オッペンハイマー大尉のまぶしい笑顔にめまいを覚える。何か企んでいるのだろう。

 逃走が知れれば、捜査がはじまる。ラグラスが城内警備総責任者になった今、別の人間が脱獄の捜査を進めるに違いない。事件直後に失踪することになるラグラスも疑われるのではないか。城内でも、入ることのできる者が限られた階層からの脱獄だ。


「何を企んでる?」

「楽しいことですよ。そしてあなたが生き残る方法です」


 銀縁眼鏡の大尉はくくっと喉を鳴らした。その上官であるラグラスは慣れているのか表情を変えず、用意されていた馬車に乗り込んだ。

 馬車が動き出して、ハレイシアは頭を抱えた。


 ──巻き込まれる。何か、大きなことに。


 クラウスの得体の知れない笑みは、これから訪れるであろう嵐を予感させた。

 皇都の整備された道の上で小刻みに揺れていた馬車が、徐々に大きく揺れはじめる。モルティアを出て、山間部に到達したのだろう。

 その間中、ラグラスは辛辣な言葉も吐かず、押し黙ったままだった。

 朝が来ても、途中で御者が食事をもって現れても、馬が大きくいなないても、ずっとラグラスは眉間にしわを寄せたままで、ハレイシアは話しかけるのをためらった。


「生き残ろうとするなら、武器を手に取らなければならなかった」


 悪路を進む揺れで尻が痛くなりだした二日目に、ラグラスはようやく口を開いた。


「謀反は、あなたの頭の中になかったのですか」


 ラグラスの瞳は明らかにハレイシアを責めている。しかしハレイシアには責められる理由などわからない。責められていることだけはわかる。視線が痛い。


「謀反? 考えたこともない。陛下のことをよくは思わない。しかし私は命令に従わなければならない」

「忠順にして誠実か。軍人に向いている」


 皮肉なのだろう。ハレイシアは、それを悟った上で静かに返した。


「軍人は、命令に従うものだ」

「帝国はあなたを裏切ったのに?」


 一瞬言葉に詰まる。呼吸を整えるようにして息をのんだ。


「元はといえば、女性であることを伝えられなかった私の責任だ」

「そんな些細な落ち度をあげつらわれて、命を捨ててもかまわぬとおっしゃる?」


 扉のすきまから入ってくる空気が冷え冷えとしている。夜が深くなったことを思い知らされる。馬車の窓にかかるカーテン越しに差し込む光が弱々しい。


「軍人は戦場に身を置く。命の危険に晒されるのは、仕方のないことだ」

「くだらないことに、命をかけるのも?」

「命令なら」


 ラグラスはしばらく答えない。

 馬の疲労が伝わるように馬車のスピードが落ちて、がくがくと奇妙な揺れ方をする。車輪の音が大きい。互いの言葉がかきけされているのではないかと錯覚する。


「誇りを汚されるのも?」


 錯覚は瞬時に打ち破られる。はっきり耳に届く声だった。背筋が夜気に触れたように冷たくなった。

 ラグラスの質問に、ハレイシアは沈黙で答えた。


「互いに帝国に馴染まぬ身です。立場のことなど忘れましょう」

「私に裏切れと?」

「はい。目的もなく罪人を逃がすような真似はしない」


 いつの間にかにぎりしめていた拳が白く変色していた。

 今さら、戻ることなどできはしない。


「あなたの進む道は一つ」


 思わず席を立つと、馬車が大きく揺れた。バランスを保って、ハレイシアは奥歯をかみしめる。

 自分で選んだ未来が欲しい。流されるままに得た未来は、激しく悔恨の情を刺激した。


「我々にはあなたの力が必要だ。心を決めてください。そのために数日、用意する」

「いやだと言ったら」

「道は一つだと言ったでしょう。あなたの故郷ハルシアナは、商業都市スォードビッツからの援助がなければ暮らしていけないほど貧しい土地だ。覚悟を決めるほかない」


 ラグラスは立ったままでいるハレイシアの椅子のふたをはずす。椅子の下はこまごまとした品を収められるようになっていた。そこから毛布を取り出して、ラグラスはハレイシアに渡した。


「どうぞ」


 受け取って身体を包み込む。白く震える己の手のひらを見ていると、ここ数日のあわただしさを思い出した。ふと肩の力を抜く。緊張の糸が切れるのと同時に眠気が訪れた。

 そうして夢を見た。

 夜の冷たさが呼び水になったのか、ハルシアナの夢だった。

 積もった雪の中、足が沈むのもかまわず走って行く。頬が赤く熱くなるのがわかった。手の中には罠にかかった小さなウサギがある。白くなった息が踊る。走って走って、家の扉を勢いよく開く。

 首吊り死体が揺れた。

 扉を開けた拍子に寒風が吹き込んで、粗末な机の上から紙切れが飛んだ。

 小さな暖炉に火は入っていない。梁からぶらさがったロープが、人の重みに耐え切れず、きしんだ音をたてた。

 どうしてお前はそんなところにいるんだ。

 眼前の光景に実感がわかず、手につかんだウサギを差し出したまま、ハレイシアは泣いた。涙だけは自然とあふれた。

 今年の冬は何人死んだ? 一体何人、周囲の者たちが死に奪われていくのを見過ごすしかなかった?

 小さな紙切れには『ウィルフレッド皇子ご成婚』と華やかな文字が躍る。その裏に木炭で書かれた走り書きがある。

 ともに槍術を学んだ仲だった。何故将来有望な彼が死なねばならない?

 厳しい冬の中にあっても、身体の芯まで冷えることはないと信じていた。冷たい吹雪は、かえって身体の奥が炎のように燃えるのを感じさせた。友もきっとそうなのだろうと信じていた。それなのに。

 目の前の宙で、吹き込む風に揺れてまわる友の足は、どの冬よりも冷たい。吹雪よりも、氷柱よりも。

 己の涙があたたかいことに気づく。涙をぬぐった手で、友の足にそっと触れる。あたたかかったはずの涙さえ、乾くように凍った。汚物でできた小さな水たまりを前に、ハレイシアは深く絶望した。下級貴族でさえ、これほどに貧しい。冬さえなけえば。この冷たささえ、なければ。

 肩に手を置かれてふりかえると、槍術の師匠がハレイシアと友を交互に見た。

 冷たく悲しく凍えた瞳は、弟子の死に動揺を見せなかった。仕方のないことだ、と白い口ひげを揺らしただけだった。


 ──冬は、悲しみさえも奪うのですか!


 かつてのように慟哭しようとしたその瞬間、ラグラスに起こされて目覚めた。スォードビッツに到着したらしい。すぐにマーブル家が使っているという屋敷に通された。久々にやわらかいベッドで眠りについた。安らかな眠りはすぐにやってきて、今度は悪夢も見ずに身体を休めることができた。

 ベッドから起き上がって薔薇の花びらに触れる。

 唐突に、ラグラスの言葉が思い出されて身震いした。

 商業都市スォードビッツからの援助がなかった当時を思い出す。今やハルシアナでも、冬に命を落とす者は減ったという。けれども冬の厳しさは今もかわらない。そんな中で援助を打ち切られることになれば、どうなるだろう。

 木製の扉をノックする音がして、ハレイシアは我に返った。寝乱れを手早く直して扉を開ける。


「朝食です」


 仏頂面の男はそれだけ告げると、すぐに身を翻す。それを伝えるだけなら侍従に頼めばよかっただろうに、返答を急かしているのだろうと、ハレイシアは気持ちが沈んだ。


「ラグラス」


 廊下には、カーミラ城の執務室前に似た赤いじゅうたんが敷かれていて、ハレイシアの足音を吸い込んだ。

 ろうそくの火を飾るシャンデリアが、きらきらと光を反射している。


 ──あれほどの冬の冷たさに、民を放り込むことなどできるものか。


「君に従う」


 オリーブ色の髪の大佐は、にやりと笑った。


「これであんたと俺は同胞だな。よろしく」


 ラグラスが途端に口調を改めたことに気づいて、ハレイシアは弱弱しく笑った。

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