第五章 風龍の跳躍 第四話
「ロッシュ様、主はもうすぐ参りますから、お待ちくださいね」
食事を運ぶ女の、茶色の猫っ毛がふわりと踊った。程よい広さのテーブルに、いくつもの皿が並んでいる。一般市民よりは少しばかり豪勢な食事を、アリアが並べていく。
形ばかりで、もう何年も火を入れられたことのない暖炉の上に、幼い写真。バカ騒ぎする貴族の息子と控えめな少女、そして愛らしい顔をした少年が一人。
ふと視界に入った写真たてを小突きたくなって、ロイはアリアに視線を戻した。
「ユーミルなんて来なくていいよ。アリアちゃんと話してたい。二人で食事をしよう。明日は非番だから、二人でゆっくりワインでも飲んで夜を語り開かそう」
銀髪の中佐、ロイス・ロッシュがテーブルの下でこっそり脚を揺らしているのに気づいた女は、少し笑うと、「お約束をお忘れですか」と告げた。
「約束ぅ? 何それ」
「あら、お忘れになったんですか。ロッシュ様がこの家に来られるときのお約束」
「……アリアちゃんは口説きません」
身体中で落胆をあらわそうと、ロイが机の上にあごを乗せる。かつてバカ騒ぎしていた貴族の息子に向けて、大人になった少女は微笑んだ。
「さすがロッシュ様、女性に関することは忘れませんね」
この切り返しはさすがユーミリアの恋人といわざるを得ない。ロイはうなって負けを認めた。
「まったくあんたら夫婦はそろって人を色ボケ扱いする」
「あら、今日はご夫婦も来られるのですか?」
「けっ」
窓の外は黒い雲に包まれていて月光もない。まばらな星の光では雲の分厚さには勝てない。雲の切れ間からわずかに光を投げかけるので精一杯だ。
アリアが目をわずかに細くしたのに気づいて、ロイは観念してつぶやく。
「夫婦はアリアちゃんと、ユーミリア」
「ユーミリア様との関係を疑われるのですね? 私は一介のメイドです。主と主従以外の関係を持つことはいたしません」
即座に答えたアリアに、ロイはため息を返す。
そんなセリフはもう何度も聞いた。
主従の関係が結ばれて以来、ユーミリアを昔のようにユーミルと呼ばないのだということも、黒髪の副官が酒に酔うたびに愚痴をこぼすので知っている。
「ユーミルはアリアちゃんと一緒にいたかったんだよ。だから故郷のユグドラシルから連れて来た」
俺は一緒にいるために、アリアを連れて来たんです。ただそれだけのことなのに、その日以来主従でしかないのだと彼女は言う──。
ユーミリアの愚痴が思い出されてロイは鼻息を荒くする。
何で俺がこんなことを言ってやらにゃならんのだ。二人ともいい大人のくせに。
「それでも、私とユーミリア様の間にあるのは、主従関係です」
「石頭」
きっぱり言ってのけたアリアにそうこぼす。
窓の外から忍び込んでくる夜が、彼女の表情に濃い陰影を作っている。アリアはそっと微笑んだ。
「そうですね。でも、この関係が壊れてしまえば、私がここにいる意味もなくなってしまうから」
意味がなくなる?
ロイはアリアの言葉を反芻して鼻で笑う。
「おたがいに必要としてれば、それでいいんじゃないの」
「いいえ。お役目がなくなれば、私はユグドラシルに帰らなくてはいけません」
なんだ。こいつら、結局おたがい一緒にいたいんじゃないか。
間を取り持とうと一瞬でも考えた自分が馬鹿だったと、ロイは暖炉の上に飾ってある写真立てを見た。
「それよりも、ロッシュ様はご結婚されないのですね。三丁目のルシアさんとも別れてしまったようですし」
アリアからの反撃が思わぬところに決まって、ロイはうめいた。
本命の女なんているものか。おめがねにかなう女はいまだに現れない。
大体恋愛なんてものは落とすまでが楽しいのだ。落としたあとはどうでもいい。デートで女の喜ぶ顔を見るのは好きだ。けれどそれも、家に帰ればたちまち違う顔になる。それが嫌だ。深く知りたくなるような女性はいないし、だからといって妊娠させてしまうと面倒だからさっさと別れる。
「ロッシュ……さ、まっ」
思い切りよく開いた客間の扉が悲鳴を上げた。黒髪の副官がいくぶんかあわてた様子でいる。その様子を見て、銀髪の中佐はにやりとした。これでアリアの追撃からは逃れることができる。
「なんだ、そのとってつけたような様は」
「そんなことより聞いてください」
ここ最近はユーミリアが驚くような異常事態ばかり起こるため、彼のあわてた様子にも慣れてしまった。
仕事熱心なユーミリアのことだから、きっと仕事のことに違いない。
アリアちゃんの追撃から逃れられたのはよかったんだが、仕事の話というのもな。
銀色の頭をかいて、ロイは唇をとがらせる。
「せっかくアリアちゃんの手料理を楽しもうとしてたのに」
わざとじらせるのは仕事をしたくないからだ。仕事に情熱を向ける気にはなかった。あちこち駆け回るのは好きだが、デスクワークは性に合わない。
「ハレイシア・デューンが逃走しました」
黒髪の副官からの報告に、ロイはうなずきかけて瞠目した。
「逃走?」
「逃走です」
黒髪の副官がきっぱりとうなずく。ユーミリアが書類を机に乗せた。おそらく、くわしい状況をまとめたものだろう。
銀食器に反射したろうそくの光が入って、ロイは目を細めた。
「ユーミリア、お茶」
次の言葉を待っていたであろう副官にそう告げる。肩透かしをくらって、猪のように突き進んできた副官は勢いが削がれるだろう。案の定、ユーミリアは目を伏せてため息をついた。
「あ、お茶なら私が」
「いや、俺がいれてくるからいいよ」
ユーミリアとはもう十年以上の付き合いになる。いい加減慣れてはいるのだろうが、毎度勢いを削がれる副官は不憫だった。しかしそうしなくては、ユーミリアは集中しすぎてしまう。
どうしようもないじゃないか。今回ばかりは本当に。
台所に消えるユーミリアを見送って、ロイは背中を反らした。
ラズラス・マーブル大佐暗殺事件の真犯人を見つけた。カイルロッド・フレアリング海軍准佐は自首して、その手柄はロイの元に転がりこんだ。手柄で得た機会を使って皇帝に直談判をした。皇帝の信の篤いトゥール・シルバリエ大佐を同席させた。しかし皇帝は、己を裏切ったことが原因だと言った。決して減刑にうなずかなかった。ここまで手をつくしても決定は覆らなかった。
わかっていたことだ。陛下が自分の過ちを認めるわけがない。
けれども他に良策はなかっただろうか、他にも思いつかない方法があるのではないかと悩む。己の限界が呪わしい。
自分が大貴族であったならば、金を積んで合法的に助けることができたのかもしれない。
書類をざっとながめながら、ポケットから万年筆を取り出した。指の上でくるりとまわす。
冷たい感触が染み込んできて、万年筆が指先から滑り落ちた。あわててつかんだてのひらの中で、キャップが外れて飛ぶ。
体制内から一度出された決定は、そう簡単に覆らない。
どうしようも、ないじゃないか。
三時間前、ハレイシア・デューンが城内牢から消えた。手鎖を断ち切ったあとがみられる……ユーミリアが急いで持ち込んだ書類には、そう書かれていた。実際の現場を見てみないことにはわからないが、おそらく誰かが逃がしたのだろう。
「これでよかったんだよ」
できるだけのことはやったじゃないか。
床に飛んだ万年筆のキャップを拾おうと、身体をのばす。届きそうで届かない距離の目標物を、副官の白い手が拾った。
「そうですね。これで……よかったのかもしれない」
手の中に戻ってきた万年筆のキャップをしめて、副官の持つトレイからカップを奪う。一口すするとあたたかい紅茶が身にしみた。
「外国にでも、逃げてくれればいいんだけどな」
国外へ逃れるには、大海を越えて行かねばならない。渡航船など相当数が限られている。けれども、これから先ずっと、隠れて怯えながら生活するよりはいいだろう。
「仕方がないさ。やれるだけのことはやったんだ」
ふと思いついて、パンにのばした手を止める。
「クーベリック提督に、見逃すように頼めないかな」
副官が席に着いたのを確認して付け加えた。副官はスープを一口すすってから「裏から手をまわすんですか?」と深刻な顔をした。彼の上官は、見事に微笑んでいた。




