第五章 風龍の跳躍 第二話
白を基調とした部屋に大小さまざまな鳥かごが並ぶ。色とりどりの小鳥たちが入ったかごを見て、女、エルザ・ライズランドは微笑んだ。
後宮の片隅で、エルザは白いカップに唇をつけて、小鳥の声を楽しむ。
「疑いが晴れたのはよかったわ」
純真な笑みを浮かべて小鳥に話しかける。チチチ、と小さく歌う緑の鳥に向けて長い人差し指を踊らせる。
「でも私、悪い女ね」
人を下がらせた部屋には小鳥たちと女主人しかいない。
華やかな香りを漂わせる紅茶を再び注ぐ。鼻をくすぐる微香にまぶたを閉じると、濃茶色の髪の少年の幻が浮かんでくるような気がした。少年の視線はエルザをとらえて離さない。驚いて目を開く。
「ヨシュア」
あなたは、私を憎むかしら。
まぶたを開けて目を伏せると、幻は再び視線を向ける。ヨシュア──クラウス・オッペンハイマーの本来の姿である幻は、敵意を含んでいるようにも思えた。
「ごめんなさいね」
言葉だけの謝罪を口にする。けれどもヨシュアの敵意は偽りでしかない。彼は女を恨まない。そして裏切らない。
それはあの煤にまみれた厄災の日に定められたことだ。
炎の上がるスォードビッツの領主宅を背にして、焦げた臭いがたちこめる街で定められたことだ。
もしかしたなら、それはもっと昔からだっただろうか。
女の疑問に答えるように、少年が背を向け、何かを遠くに投げる。エルザはそれが石なのだと知っている。
投じられた一石は瞬時にエルザの見る幻を変化させた。波紋が水面に広がるように、静かに景色が姿を変える。広がる緑の木々は両腕を広げて静けさを抱く。何かの前兆を告げるように風が踊ったが、木々をざわめかせるまでにはいたらない
瞬時にがさっと低い音がして、静けさが破られる。木々の梢をぬうように墜落する何かがある。見たくない、と幻の中で、女は目を覆う。
少年の手が、女の手を強くつかんで放さない。覆えなかった瞳がとらえたのは、落下する石と緑の小鳥だった。
森を走り抜けた風が、現実にはあるはずのない血の臭いを運ぶ。
小鳥の異質な緑が、木々の緑の中を泳ぐように落ちる。群れる葉にときどき隠れながらも通り抜け、やがて小鳥の身体ははっきりと女の視界に入った。
息を呑む女に、少年は笑顔を向けた。
君のために。
少年の唇が刻んだ言葉がおそろしくて、女はすくみあがる。わかっている。幻にとらわれた瞬間から、こうなることは予測できた。だからエルザは、かつて発したのとは違う言葉を口にする。
「私のために、殺したのね」
少年がうなずく。どうしてあんなに残酷な真似をしたの、と問いかける純真さを、女はすでに失った。
君が欲しいって言ったから。
かつて少年が返した言葉が蘇って、そのまま女を責める。
足なんてぶつけてしまっては、もうあの子は生きていられない。どうしてこんなひどいことを?
どうして怒るの? 君が欲しいって言ったんじゃないか。
嫌よ、私が望んだことじゃないわ。
かつて発した言葉をすべて飲み込んで、女はヨシュアの幻に手を伸ばす。
「あなたは私のためなら、命を奪うことすら厭わないというのね」
そんなことは、とうの昔からわかっている。
煤けた街で、少年は女の手の甲に口付けた。その瞬間から、ヨシュアは、クラウス・オッペンハイマーは、エルザだけを世界の中心に据えるようになった。
長じて後宮という大きな鳥かごに入ったエルザは、あのときの少年の行動を非難することができない。
「わかってる……私がそれを利用していることも」
少年、ヨシュアの幻は、いつの間にか時を経てクラウスへと変化し、銀縁眼鏡の奥で目を細めて笑った。
エルザは苦痛をたたえた笑みを浮かべる。
エルザの肩にまわした手が、首筋をつたうクラウスの唇が、己から罪の意識を拭おうとする。
決して拭われることもなく、癒されることも、また慰められることもない。そればかりか一層罪に穢れていくのだということを、エルザは知っている。
私はあなたを裏切るわ。この先、きっと。あなたに利用価値がなくなれば──。
クラウスの前に身体を投げ出すのは、罪悪感を埋めるためなのかもしれなかった。
罪を意識することでさらに黒く染まった女は、クラウスの幻の背に腕をまわす。小さな爪をたてて、そっと背中を傷つける。
その痛みがクラウスに真実を悟らせはしないかと、はかなく望んで。
かごの中の鳥がチチチ、と甲高く鳴き、女主人を白昼夢から目覚めさせた。主の苦しみをやわらげるように、励ますように……蝕まれていく心を忘れさせる鳴き声に、エルザ・ライズランドはゆっくりとまばたきをする。
幻から解放された女主人は鳥かごの扉を開け、大きく息を吐いた。
小鳥はあたりをうかがうように扉の前で躊躇する。急に開かれた扉をじっと見て、小首をかしげる。やがて両足でとん、と調子をつけて跳ねたかと思うと、かごの外へ身を移した。緑の羽を大きく広げ、一回り大きくなった鳥かごの中を縦横無尽に飛びまわる。
女主人はその様子をながめて、ふと思い出したように瞳に力をこめた。羽を休めようと小鳥がシャンデリアの上にとまる。
「まだ、出してあげない」
女主人の低い声に呼応するように、先ほどの幻と同じ緑色の小鳥は小首をかしげた。
いつまで? とたずねているような小鳥の仕草を見て、エルザは天井に手を差し伸べる。
「塔に棲みつく鳥が、あなたを狙っているから。まだ──。そのときが来たら外に出ましょう、私とともに」
透き通るような白い腕から、若草色のショールがすべり落ちた。
 




