第五章 風龍の跳躍 第一話
その牢獄は、地の果てを連想させた。
カイルロッド・フレアリングは光の宗教都市、ネステラドの幽閉塔へと送られた。アスハト教教祖である男とは、すぐに顔をあわせることができた。同じ部屋に幽閉されるよう、クラウスが手配したらしい。
レンガ造りの建物はあちこちに苔が生えており、悪臭がたちこめ、呼吸をすることさえ苦痛だ。じめじめした空気が肌をしっとりと包む。
看守が姿を消したあと、カイルロッドはどう切り出すべきか悩んだ。
「何をなされた」
唐突に教祖が切り出した。カイルロッドは目をみはる。戸惑うカイルロッドに、教祖は優しく微笑んだ。
「あなたがここに送られた理由。それを、聞かせていただきたいのです」
囚人服に身を包んだ男は石の床に座り込んだまま、足元の鉄球をそっと隠す。
「罪を許しましょう。そして来世で幸福を得るのです」
「来世とは?」
カイルロッドは己の服に絡みついた、誰の者とも知れぬ髪の毛と埃を払いのける。
胡散臭い男の説法に興味はわかなかったが、この男を仲間にせねばならない。
「我々が死したのち、魂は休息を経て再びこの世につかわされます。再びこの世界にまみえるのです。それを来世と呼びます」
興味深くはある。しかし本当にそんなものがあるのだろうか。
あったとして、腹立たしいだけではないか。あの皇帝の魂にすら、休息や来世があるというのだから。
数々の暴挙をくりかえす巨悪。誰もが彼の滅亡を望んでいるだろう。
なにより、不平等ではないか。
メイジス・フェシスの教えと同様に、不平等だとカイルロッドは唇を噛む。死したものは大地に還って、新しい世代に託す。死したものは休息を経て、来世を迎える。
──どちらも、さほど大きな違いはない。
地上で不幸だった者も、幸福だった者も、富んで暮らした者も、貧しくひもじい思いをして過ごした者も、人殺しをした者も、病気で死んだ者も皆、平等に扱われるのがカイルロッドには解せない。彼の求める復讐や断罪は、ライズランドの宗教にない。
悪は裁かれるべきなのに、その機能が既存の宗教のどこにもないことを、カイルロッドは不満に思う。
裁く仕組みさえあれば、自分が満足できぬ教義であっても、ある程度は従おう。しかしその仕組みさえ、宗教にはない。
「父の、母の魂が、穏やかであるのなら嬉しく思います。しかしおそらくは……」
アスハトの興味をひかねばならない。もう皆が知っていることだ、死んだ貝のように硬く口を閉ざす必要はない。
「皇帝陛下への憎悪に、身を焦がしていることでしょう」
教祖がわずかに目を見開いた。ほう、と痩せた頬を震わせて興味を示す。
「そういう者は多いでしょう。ウィルフレッド・ライズランドは、じきに裁かれる。あのような悪行を許しては、人の世はなりたちません。何より私を、現人神たる私を裁こうというのだから」
「……できればこの手で、決着をつけたかったものです」
この手で他人の幸福を踏みつけることも厭わない。他人の生を奪うことも、報復が連鎖となってつづいていくものだと知っていて、歩みを止めないことも。
そんなふうに目的に向かって迷いなく真っ直ぐに進んでいくクラウス・オッペンハイマーを、うらやましく思う。無慈悲になれと自分自身に投げかけても、どこかでためらいが出る。ためらいを押し切って進まねば、復讐は果たせないというのに。
すべてはラズラス・マーブル大佐を暗殺したときからはじまった。
カイルロッドはあの一件で、立ち止まることを知った。
長い逡巡を経た今だからこそ言える。今すべきことはためらうことではない──。
「失礼。あなたの名をお聞かせ願えないだろうか。私はアスハト・モーランという」
「カイルロッド・フレアリング。かつてのルーファス領主の子です」
教祖に名を告げ、カイルロッドは静かにまばたきをくりかえした。
「ルーファス! もしやあの乱の。私も……私もかつて、あの惨劇の場に」
苦笑を返した。おそらくルーファスにいた者ではないだろう。記憶にもない。あの豊かな大地を、人々を、カイルロッドは忘れることはない。
おそらくアスハトは、皇都モルティアから派遣された軍にいたのだろう。
苦笑の意味を悟ったのか、アスハトが自嘲する。
「……お察しの通り、私はルーファスに攻め込んだ陸軍にいた。徴兵された雑兵のうちの一人だった」
カイルロッドのまぶたの裏によみがった光景は、どこまでも赤く染まっていた。
火と血と。
かつてくすんで見えた世界は、皮膚をはがしたような鮮烈な赤にまみれている。
それらを目の当たりにしてきた火龍……カイルロッドは今、かつてないほどの穏やかな心境でいる。
「あなたに会えてよかった。この機会を与えてくれた父なる創造神に感謝したい」
ルーファスを蹂躙したうちの一人に向く憎悪は、養父の顔を思い出すことで忘れることができた。陸軍大佐であった養父レイド・ライエルは、ルーファス掃討作戦の司令官だった。カイルロッドを引き取った彼は、口癖のように言った。
生きたいのなら、甘んじて屈辱も受けねばならないこともある。常日頃ふりかざすような誇りなら、身に馴染んでいるとは言えない。しかしどうしても譲れないものを穢されたときは、大いに怒りなさい……。
「カイルロッド・フレアリング殿。私は……あなたに謝罪したい。ルーファスに攻めいった人間の一人として」
あまりに遅い。ラズラス・マーブル大佐暗殺の前に聞いていたら、少しは変わっただろうか。違う。カイルロッドは自分の身の上を、親しいロイス・ロッシュにさえ話さなかった。その機会はなかっただろう。
湿った床に、ぽつりと外からしみこんだらしき雨垂れが落ちた。
「救われたいのですね?」
思わず口をついてでた言葉に、アスハトが怯えたのがわかった。
カイルロッドの瞳には、静かな炎が宿っていた。それはかつてルーファスを焼いた炎と同質のものである。
「あなたは謝罪することで、罪の意識から逃れたいんだ。あなたが謝罪したところで、誰もよみがえりはしない。あの日失われたものは、何も戻らない」
アスハトを仲間にしてください。
クラウスの冷たい声が聞こえた気がした。
「……そうして、俺が怒ったところで今さらどうなるものでもありません。あなたが罪の意識から逃れたいというのなら、新たな罪を犯すといい。そうすることで、古い罪への罪悪感にさいなまれることは減ります」
カイルロッドの眼力に気圧された教祖がかろうじて口にする。
「な、何を」
答えるカイルロッドは手を緩めない。
「簡単です。今度は俺を、手伝えばいい」




