第四章 水龍の波紋 第八話
カイルロッド・フレアリングの自白によって、ラズラス・マーブル大佐暗殺事件は幕を下ろした。極刑は免れないだろう。裁判までの短い期間ではあるが、准佐は幽閉塔へと送られることになった。
赤じゅうたんの廊下を歩きながら、ラグラス・マーブル中佐は肩を怒らせる。事件解決まで封鎖されていた、殺害現場の前でふと足を止める。
ここで兄、ラズラス・マーブルが死んだ。
任務の遂行をせずに命を落とすとは、あっけない最期だった。軍人である以上、命をかけて職務に励むのは当然のことだ。兄を亡くしたことは悲しくない。ただ、あの根拠のない自信がうらやましいと懐かしく思う。
血みどろの巨漢が赤い床からゆらりと体を起こす。噴き出す血を止めもせずに、男……ラズラス・マーブルは笑った。総天然色で彩られていた壁画は返り血に染まっているように思えた。森の中にできた血の道を楽しそうに歩む女たちは、死者を迎えに行こうとしているようにも見えた。
──ラグラス、一体お前に何ができるというんだ?
廊下に響いた兄の声に、ラグラスは眉間にしわを寄せる。
くだらない。死人と争うなど時間の無駄だ。お前が死んだ時点でお前の負けだ、と心の中の兄に呼びかける。
中央がわずかに膨らんだ柱の並ぶ廊下を抜け、歩を進める。早足で殺人現場を抜け、兄の幻影をふりはらう。
幻だとわかっている。しかし兄の叫びに呼応するように、汗が額を滑り落ちた。
──お前は俺を越えられない。決して、決して俺を越えられない。それがお前に相応な分というものだ!
「うるさい、黙れ」
生前の兄なら言わなかったであろう言葉にいらだって、装飾の施されていない柱を殴る。力任せに殴ったせいか、天井のシャンデリアが大きく揺らいだ。シャンデリアから紫水晶でできたぶどうが一粒落ちる。大理石の床にぶつかって砕けた破片が飛び散った。硬質な、耳を刺すような音が廊下に響き渡る。
耳の奥から聞こえてくるように、兄・ラズラスの哄笑は反響するのを否定する。これはラズラスではない。紫水晶が落ちて砕けた音だと、頭をふって兄の幻を追い払う。
「ラグラス様」
やわらかい物腰の声に我に返ると、笑顔の副官がいた。
「なんだ」
「やはり、ここを通るのはやめておきましょう」
「なんでもない。考え事をしていただけだ」
笑顔の副官をにらみつける。銀縁眼鏡の大尉は一つ嘆息すると、意地っぱり、とつぶやいた。
「誰が意地っぱりだ」
「聞こえてても聞こえないふりしてください、それが優しさってものです」
「そういうのはその真っ黒な腹の中をせめて灰色に塗ってから言え」
軽口を叩いているうちにいくらか気分が楽になってきたことに気づいて、ため息が漏れた。
笑顔の男はそれを見て、意地悪く口元だけで微笑む。
「で、何を考えていらしたんです」
返答に窮するわけにはいかない。兄・ラズラスの亡霊と問答していたなど、口が裂けても言えない。
「有能な人材が帝国を裏切った事についてさ」
ごまかした答えは、意外にすんなりと銀縁眼鏡の副官に受け入れられた。
「カイルロッド・フレアリングはクーベリック提督の代理を務めるほど優秀な人材だったはずだ。龍の間に出入りするくらいだ、どれほど期待されているか伺えるというもの。そんな、いわば将来を約束された人間が帝国を裏切った。そういうことですね?」
鋭い瞳で確認してきたクラウスに、ラグラスは首肯する。考えれば考えるほど、ため息が出てくる。
「海軍は大変でしょうね。提督は皇都に出て来るんでしょうか。でもその頃には仕事もたまってるだろうなあ。眠る暇もなかったりして」
オッペンハイマー大尉の楽しげな声に、ラグラスは思わずふりかえった。
「いくら海軍が人材不足でも、そこまで酷くはならないだろう」
音の反響する廊下で帝国の衰えについて話すものではない。適当な世間話にする。真っ向から受け止めて返すには他人の存在が気になる。
執務室の扉を開けて、いつもの見慣れた景色の中に戻る。重い扉の閉まる音と同時に、誰かに聞かれるかもしれないという警戒心が軽くなった。
「陸だ海だというのが問題なんじゃない。優秀な人材まで、陛下を裏切った。それが問題だ」
「そうですねぇ……でも仕方ないかもしれません」
やかんを火にかけに給湯室に向かったクラウスが明るく返す。
「だってあの人はルーファスの乱の生き残りだったんでしょう? 僕の情報にもなかったから、聞いたときはビックリしましたよ」
今にも笑い声が混じりそうな明るい声に、ラグラスは眉間のしわを数段深くする。
つくつくとやかんの小さな音が聞こえてきたころ、ラグラスは頭を抱えた。
「フレアリング准佐は恨みだけで裏切ったと思うか? 俺にはそうは思えん。帝国の腐敗は進んでいる。有能な人材を信じられず、くだらないことで失脚させるような国家だぞ。それがデューン大佐の一件で証明されてしまった」
思わずその名を出してしまうことに、ラグラスは戸惑う。視線を逸らして得体の知れない副官を見ないようにする。
「自分の過去、すべてに胸をはれる者などいるものか。誰だって一つや二つはすねに傷を持ってる。それをすべて陛下に晒した上で、綺麗な身の上の者だけ集まれと言ったって集まるものか。それで軍を構成できるとでもいうのか」
心に秘めた花園を荒らされぬよう、そっと足を遠ざける。それでも気づけばまた近くに戻っている。氷でできているかのような瞳と噂されるハレイシア・デューンに、ささくれだった己を癒してほしいという願望でもあるのだろうか。己の愚かさが身にしみた。
「今日はずいぶん、おしゃべりですね」
「……あれでは、民草に見限られても仕方がない」
言葉をつづけてみる。けれども前線基地に花売り娘が一人紛れ込んでしまったように不釣り合いだと思えた。今さら取り繕ったところでどうなるというのだ。これ以上こねまわすと余計に怪しい。もうこれでやめておこう。そう決意して、さらに眉間のしわを深くする。
湯が沸いた。音に反応したクラウスがすぐにやかんを外す。給湯室から苦い匂いが漂ってきた。コーヒーをいれているのだろう。
くすんだ金ともオリーブ色ともつかぬ色の髪に手をやる。細い割に頑固な髪質だ。ハレイシア・デューンへの思いをごまかしている自分に似ているようで、思わず苦笑した。美しいものは嫌いではない。
「ラグラス様は見限らないのですか」
給湯室から聞こえるクラウスの声は無関心だったが、興味をわざと隠しているのが感じられた。大尉が皇帝をよく思っていないことくらい、日頃のやりとりからなんとなく察している。表情を確認してやろうかとも思ったが、やめておいた。
「デューン大佐の一件ではいい加減あきれたな。准佐の件は……あれは謀反の一種だが」
「大佐の一件にやけにこだわりますね」
ラグラスは鼻で笑った。強く返した時点で認めるようなものだ。クラウスが給湯室から姿を現す。その表情はいつもよりも三割増しの笑顔に見えた。
「あの事件は問題だろう。あんな馬鹿馬鹿しい理由で逮捕者が出るなんて、一体誰が予想した? 陛下は無駄に栄養を取りすぎて、脳まで肥満になったんじゃないのか」
口に出すたびに怒りが増してくる。牢に移送するとき、ハレイシア・デューンとともに赤いじゅうたんを歩いたことが思い出される。デューン大佐は凛とした強さを含んでいた。ラグラスは己の内で鋭い歯を鳴らす狂犬をなだめる。
「仕方ないですよ、陛下は金髪碧眼の美女のことしか頭にないんですから」
「金髪碧眼?」
蔑むような光がクラウスの視線に浮かんで消えた。
ラグラスの問いにクラウスは目を丸くした。目の前にコーヒーカップを置いて、小首をかしげるようにして驚いてみせる。
「あれ、ご存知なかったんですか? マリー様もエルザ様も、皇帝の寵愛を過去一度でも受けたことのある人物は、みんな金髪碧眼ですよ」
言われてみれば確かにそうだ。マリーもエルザもハレイシアも、微妙な色こそ違うが、皆、金髪碧眼だ。
──それだけなのか。たった、それだけだというのか?
ラグラスの内側で何かが大きく崩れていく。同時に、先ほどのラズラスの亡霊の声が、部屋の中を飛び回る。
──お前は、決して俺を越えられない。それがお前に相応な分というものだ!
死んだ兄への笑いが、思わず喉の奥からこみ上げてきた。
皇帝に本気で仕えて命まで失ったお前は馬鹿だ、ラズラス。
ラグラスに分というものがもしもあるのなら、それはライズランド帝国の陸軍中佐に収まるものではない。もちろん、上流貴族マーブル家次期当主の座に収まるものでもない。
……俺の価値は、俺が作る。兄の屍を乗り越えて。
「俺は行く。ラズラスを越える。あいつの、行けなかった場所に到達する。あいつの見れなかったものを目にする」
先ほどから耳をわずらわせていた哄笑が跡形もなく消える。
「皇帝の犬でなど、終わってたまるか」
ラグラスが背もたれに身を委ねると、ソファがきしんだ音をたてる。クラウスは不適な笑みを浮かべている。
「万が一のときのために、武器をそろえているんです」
コーヒーカップを口元に運びながら、鳶色の髪の副官はにこやかに言う。
「武器?」
銀縁眼鏡がきらりと光るのを見て、ラグラスの頬がつりあがった。
「面白いことを言う」
第四章 水龍の波紋・了
第五章 風龍の跳躍につづく




