第四章 水龍の波紋 第三話
後宮薔薇園の主は小さく折り曲げた背中を伸ばした。色とりどりの薔薇が咲き乱れる温室で、老婆、ラウィーニア・ライズランドは大きく息を吸い込んだ。小さなテーブルと二脚の椅子を持ち込んだだけの応接セットに迎えられるのは金髪の大佐、ハレイシア・デューンだ。関わったことのない老婆から突然呼び出されて、ハレイシアは複雑な思いでいる。椅子に浅く腰掛けて、彼女は小さく嘆息した。
普段なら女主人と侍従が一人いるだけの温室だったが、今日はさらに大勢の人間がいた。幾人かは見覚えがある、とハレイシアはさらに不信感を強くする。男性も混ざっているのは何故だろうか。
老婆は深いしわの刻まれた顔をしていたが、表情ははっきりと読み取れる。老婆の心の底からわきあがる憎悪が見えるようだった。
何故これほど、後宮に関わらねばならないのか。
考えれば考えるほど、ハレイシアは自分の選択が悔やまれてならなかった。
針山にいる心地で過ごす時間はやけに長く感じられた。誰もハレイシアに向けて口を開かない。こちらを見てひそひそとささやきあうだけだ。
やがて人波が分断された。奥からやってきたのは皇帝、ウィルフレッド・ライズランドその人であった。ハレイシアは静かに皇帝を見て、視線を逸らすことなく瞬きを繰り返した。そうして一度も皇帝と視線が絡まぬことに愕然とした。
皇帝に思われたいなどと感じたことはない。しかし、これではまるで罪人ではないか。疑いをもたれようと疎まれようと構わないが、実際のことを……真実を証明する場は与えて欲しい。不義密通など、ましてや皇帝の寵愛を受ける第二夫人エルザを寝取るなど、考えられないことだ。調べれば疑いなどすぐに晴れる。ハレイシア・デューンは、れっきとした女性なのだから。
「デューン大佐」
ようやく呼びかけられて、大佐は静かに顔をあげた。老婆のしわがれた声が耳をくすぐる。老婆の憎悪は大佐に向けてのものではない。けれどもあまりに凝縮された憎悪に飲み込まれそうになる。温室に咲く無数の花のにおいすら、老婆が操っているかのように思えた。ハレイシアは小さくかぶりをふり、老婆から侵食してくる感情を遮断しようとする。
「第二夫人エルザとそなたが密通しておるというのは、根も葉もない流言飛語の類ですね」
ラウィーニア・ライズランドはそう言った。ハレイシアが顔を上げる。皇帝への強い憎悪が、鎌首をもたげた蛇のように老女から発せられている。大佐は肯定した。
「はい。そのような事実はありません」
第二夫人エルザとの関係がないというのは真実だ。けれども誰かの思惑に乗せられてそれを語るのに、警戒心が生まれる。本来皇位継承者であった己の子を蹴落とした現皇帝への意趣返しであることは明白だ。
「陛下、なにゆえ信じてやらぬのです。潔白にして、忠実なしもべを」
老婆の鋭い眼光が皇帝を刺すのがわかった。皇帝はいくぶんかたじろいだ様子を見せたが、すぐに返答する。
「それは何故彼を信じるかということと同じ問いではないか。信じるに足る理由を述べてもらわねばならない」
「そのように仰いますならば、証明してみせましょう」
上からものをいう皇帝に向けて、老婆は一層憎悪を強めた。老婆の頬に酷薄な笑みが浮かんで、ハレイシアの胸をひどくざわつかせた。一体どう証明するというのだろう。
「大佐、今すぐ衣類をすべて脱ぎなさい。そうして貴方の潔白を証明すればよいのです」
ああ、そういうことか──。
老婆の言葉の衝撃が、頭の芯を麻痺させる。めまいを覚えながらも椅子から立ち上がった瞬間、大佐を留める声が人波から投げかけられた。
「そのような必要があるとは思えません」
群集から抜け出したオリーブ色の髪の男を見、ハレイシア・デューン大佐はわずかに瞠目した。ラグラス・マーブル中佐だった。
「出生証明書を取り寄せれば済むだけの話です。今ここでわざわざ辱める必要がありますか」
「おや、まあ。入隊するときに確かめなんだと、軍におられる方自らお認めになると?」
老婆の哄笑にラグラスの表情が厳しくなる。歯ぎしりが聞こえた気がした。
もうここまで来たからには逃げられないだろう。特に隠し立てするつもりもなかったが、こんなおおごとになってしまった責任は、政治を司る者として、とらねばならない。
決して親しくはない自分の為に声をあげたラグラスに、ハレイシアは弱弱しく首をふって見せた。金色の髪がわずかに揺れる。その様子を見たラグラスは軽く舌うちをして、一層激しく老婆に噛み付いた。
「出生証明書を調べぬというのなら、医者を呼べばよろしい。こんなバカげた話がありますか」
ラグラスの内に抑えこんだ激しい感情が見える、吐き捨てるような口調だった。皇帝はその声に深くうなずいた。老婆の思惑通りにことが進むのを嫌っているのだろう。老婆は温室の薔薇を一本手にとる。美しく咲いた薔薇は彼女のためにその美しさを見せている。にもかかわらず、老婆は花びらを握りつぶした。節くれだった指が虫のようにうごめくたびに、真紅の花びらが散る。
「国内で歌われているざれ歌をご存知か。『見目うるわしき水龍が舌先三寸転がすものは、おそれおおくも皇帝陛下、それから国家の行方かな』。医者であろうがたぶらかされればそれでおしまい。真相は闇の中じゃ」
老婆の高い笑い声が響きわたる。無数の視線がハレイシアを無遠慮に撫でていく。すべてが棘となって己を苛もうとしているようにハレイシアには思えた。疼くような痛みに頭蓋が悲鳴を上げ、老婆の笑い声がチリチリと脳内を刺激しながら巡る。薔薇に絡みとられた身体は、もう己の思いどおりに動くか疑わしい。棘が身を刺すのを感じる。
「私は、女性です」
ハレイシアはようやく声を発する。かすかに震える声は、決して小さくはない。
「私をたばかっておったと、そういうことか」
皇帝はゆっくりと言葉を区切り、怒りの熱を吐き出すように告げた。老婆は呪うとも祝うともとれない複雑な瞳でハレイシアを見る。後宮発の噂に信憑性があるのか問いかけることはできたが、己が主導権を握ることには失敗したのだろう。老婆はハレイシアの潔白を証明しようというよりは、己にかけられたかつての疑惑を否定し、名誉を取り戻そうとした。それが中途半端にしか敵わなかったのだから当然だろう。
ラグラス・マーブル中佐はわずかに目を丸くしたのち、すぐに痛々しい表情を作った。そんな顔をしないでくれ、とハレイシアは苦笑する。既に断頭台に上がったようなものだ。けれども言っておきたいことがある。己の弁護など引き受ける者がいないのを知っているから、この先機会は与えられないだろう。
「たばかったと思われても仕方ありません。戯言と思われるかもしれませんが、偽りを申しあげたことは一度もない。問われなかったから話さなかった。女性なのかと尋ねられればいつでも答えるつもりでいました。私が男性だと、誰もが信じて疑わなかった。ただそれだけのことです」
「……戯言、自分でよくわかっているではないか」
皇帝は怒りに満ちた瞳で、口元を痙攣させる。皇帝が手に入れることを望んだ美貌の大佐は女性であった。その事実は彼にとって歓迎すべきものであったが、死の間際にある老婆に口を出させ、かつ人の集まる場で恥をかかされた怒りははかりしれないのだろう。階級を剥奪されるだけで済むわけがない――ハレイシアは自嘲する。ふと何かを考えるように、皇帝は薔薇を見た。老婆と同じように手にとるが、花びらを散らすことはしない。花びらの感触を確かめるように撫でまわしながら、皇帝はゆっくりと声を発した。
「マーブル中佐」
「はっ」
犯罪捜査機構の長をつとめる中佐は即座に返事する。皇帝に命令される前にその意を理解した。苦々しくゆがんでいたラグラスの表情が一気に引き締まり、軍人の顔になる。
「ハレイシア・デューン大佐を逮捕します」




