第四章 水龍の波紋 第二話
カイルロッド・フレアリング准佐の両足が赤いじゅうたんを踏みしめる。急ぐときは廊下の右端を走るように言われていたが、そんなことに構っている暇はなかった。中央にのみ敷かれたじゅうたんはほとんどの靴音を飲み込むが、急ぐ靴音までは完全には吸収しきれない。端を歩くときほど大きな音ではないが、足元で小さく鳴っている。
追っ手がせまっている。
もちろん、以前から覚悟はしていた。ラズラス・マーブル大佐を暗殺したのだから当然だ。けれどもあの事件のあと、捜査はなかなか進まなかった。大佐を斬ったのは偶然だったにしても正解だったといえる。城内の警備担当者がいなくなったおかげで、誰がその仕事を引き継ぐかというところから話をはじめなくてはならなくなったからだ。
カイルロッドは日常に戻った。事件がたらいまわしにされているうちに、他の手が打てたのかもしれない。安心しすぎた感はある。上官であるクーベリック提督がカイルロッドに会うたび、口癖のように「お前はいつもつめが甘い」と言うのを思い出して、赤髪の准佐は苦笑いした。「せめて自覚くらいは、してもらいたいもんだな」と、隻眼の提督の言葉を口の中で真似する。まったくだ。もっと早く提督のお小言を思い出せばよかった。
天井の高い廊下は靴音を反響させる。膨れ上がった靴音は追っ手が何人もいるのだと警告しているようで、恐怖心を煽られる。
違う。靴音などほとんどない。自分の鼓動が体内に響くように、大きく聞こえるだけだ。
かぶりをふって打ち消すものの、恐怖心は拭いきれない。
ロイが気づいている。その副官、ユグドラシル大尉も気づいている。ユグドラシル大尉の顔を思い出してみたけれど、先日の手合わせで見せた厳しい表情よりも、最初に声をかけられたときのやわらかい表情を思い出した。小動物みたいな顔のわりにあなどれない。あれで陸海軍の誰もが補佐に欲しがる敏腕副官なのだ。彼が動き出した以上、自分がいつ逮捕されることになってもおかしくないだろう。
ならば、打てる手は今のうちにすべて打っておきたい。
執務室の重い扉をノックする。ラグラス・マーブル中佐の執務室だ。「はい」と返事があって、少し救われる思いがした。
「どうぞ」
ラグラス中佐の副官だろう。明るい声が聞こえた。扉を開けて中に踏み込む。笑顔でこちらをじっと見ているのはクラウス・オッペンハイマー大尉だった。
あの夜と同じ顔だ。
そのことが、急に怖くなった。固まったカイルロッドに、クラウスはどうぞ、と椅子を勧める。華奢な造りの椅子は、緩やかな円をいくつもつなげたような模様が彫られている。
「海軍のクーベリック提督の代理の方ですよね。今コーヒーをご用意します」
「いえ、結構です」
なんと言葉を発すればいいのだろう。閉じた扉をもう一度開けて、廊下に後退したいとさえ思った。
貴族趣味ではあるが、上品な壁紙が貼られた壁に自然に視線が流れる。クラウスに勧められた椅子も繊細さと優美さを兼ね備えている。きっと大貴族のマーブル家から持ち運ばれたものだろう。ほどよい古さが味を出している。こういった趣味に思わず苦笑したくなるのは、きっと街の生活に慣れすぎたせいだろう。
「どうかされましたか」
「大尉、今お一人ですか」
喉の奥からこぼれた声は低く苦しげだった。クラウスはいまだに椅子に座らないでいるカイルロッドに向けてうなずいた。丸眼鏡の奥にのぞく瞳が、やや細められる。
「ええ、ラグラス様はおられませんが……何か」
「助けてください」
口から出たのはそんな言葉だった。大尉は静かに微笑んだままだ。
小さく発せられた声は、クラウスの耳に届かなかったのかもしれない。カイルロッドがもう一度口を開いた瞬間、とび色の髪の大尉は右手を上げて制した。
「僕に何を求めておられるのですか」
クラウス・オッペンハイマー大尉の淡々とした声に恐怖を感じて、カイルロッドはひるんだ。このまま逃げ出してしまいたい。何もかも──己の過去でさえも忘れて、異国に逃げ出すことができたなら、どれだけすっきりするだろう。
「あの、雨の夜、塀づたいに後宮へ」
先ほどの靴音のように、体内で心臓の音が増幅される。ぐんにゃりと視界がかすかに歪む。大きくなった鼓動が、めまいにつながっているように思えた。それ以上の言葉が、うまく出てこない。
「ああ、あのときの」
クラウスの瞳が大きく見開かれ、すぐに笑みを形作る。
あなたでしたか、とささやいて、クラウスが椅子から立ち上がった。
「まさか本当に、来ていただけるとは」
「追われているんです」
「誰にです?」
「ロイス・ロッシュ中佐です」
「へえ……」
クラウスは上の空といった様子で、しばらく返答をしなかった。カイルロッドは膝の上で指を組む。指先に力を入れて、震えを止めようとするが止まらない。力を入れすぎて指が白くなっている。
「罪を償わねばならないのはわかっ」
「僕はそんな話を聞きたいんじゃない」
カイルロッドの懺悔をクラウスがぴしゃりと止めた。カイルロッドはそれ以上何も言えなくなって目を伏せた。
部屋の隅で窓が小さくゆれ、ガラスが悲鳴をあげた。風が強いのだろう。
「微罪で幽閉塔に行ってもらうのが、きっと一番安全でしょうね」
「そんな!」
ネステラドにある幽閉塔には、一度入れば出られない。先の政争で敗北したナイジェル・ライズランドをはじめとした囚人たちの塔。処刑することでいっそう運動が加熱しかねない政治犯も幽閉されている塔は、皇都から追い落とされた敗北者たちが集う塔でもある。有力者の縁戚なども多い。しかしその塔は、入れば出られぬ牢獄だ。庭には無数の墓石が並んでいて、死後も敷地内から出られないと噂されている。
幽閉されてしまえば、もう逃れることが出来ないのではないか? そのまま、この世から抹殺された存在となるのでは? そこまでこの男を信頼してもいいのだろうか?
さまざまな葛藤が浮かんでは消える。それを見て取ったクラウスが、薄く頬を歪めた。
「そのままロッシュ中佐に逮捕されますか? おそらく死刑だ」
「皇帝の首をはねるまでは、死ねません」
あきらめて、力なく首を横にふる。窓から差し込むおだやかな光を背にして、クラウスは満足げに笑っていた。窓にはカーテンがかけられており、強い光は遮断される。得体の知れぬ肌寒さを感じて、カイルロッドは身震いした。
「少しの辛抱です。すぐに出られる。その間に挙兵準備を整えてもらいたいのです。幽閉塔にいる、地方基盤をもつ政治犯たちを味方につけてください。頭数をそろえなければなりませんから、大物を狙ってくださいね。それから先日逮捕したアスハト教の教祖を、あなたとほぼ同時期に幽閉塔に送ります。彼を抱きこむことができれば、信徒も味方にできるでしょう」
「挙兵準備?」
反乱を起こすというのだろうか、国民全てを巻き込んで。
まさか、先日のアスハト教逮捕もクラウスが裏で糸をひいていたのか? 意図的に、情報を流した可能性は……。
思わず顔をあげたカイルロッドに、クラウスは心底楽しそうな目を向ける。猫のように細くなった瞳から読み取れるのは、愉悦でしかない。
「暗殺はもう無理ですよ。一度失敗してしまったんだから」
「でも国民を巻き込むのは!」
「何を言うんです。皇帝陛下が殺されれば、そのあと一体誰が政権をとりますか? 皇后様ですか? それとも娘のオフィリア様? 幽閉塔にいる先代皇帝の第一子であるナイジェル様? 誰が即位したって混乱からは逃れられない。あなたがやろうとしていることは、国民を巻き込まざるを得ないことなんですよ。だったら、新しい国を作るというやり方だって、選択肢の一つでしょう」
いつの間にか距離をつめていたクラウスに、カイルロッドは恐怖を覚える。カイルロッドの凍りついた表情を見て、クラウスはあはは、と無邪気に笑い声をあげてつづけた。背骨を冷や汗が滑り落ちた。
「夢見てはいけませんか。フォルテス家の末裔として」
丸眼鏡の奥の瞳がはっきり笑っているのに気づいて、カイルロッドは自然と身体が震えあがるのを感じた。