第一章 火龍の息吹 第一話
ライズランド島の中心部に位置する皇都モルティアに、皇帝の居城カーミラ城がある。初代皇帝エルンスト・ライズランドの妻の名を冠した城だ。白亜の城は曲線を多く利用した豪奢な造りであり、しなやかさも兼ね備えている。街と城を区切る塀は外壁よりは低いが、十分な威圧感をそなえていた。
カーミラ城には、佐官以上の人間に割りふられた執務室がある。その一室の扉を、銀髪の背の高い男が勢いよく開けて叫んだ。
「ユーミル! ユーミリア・ユグドラシル!」
執務室のデスクにいる黒髪の青年、ユーミリア・ユグドラシルは顔すら上げない。返事もせずにペンを走らせつづける。銀髪の中佐、ローデリヒ・イジドール・ステファン・ロッシュはあまりにも冷たい自らの副官の反応を見て、扉を開けたまま固まった。思いつく限りの予定を反芻してみたが、何も思い出せない。
困り果てて八の字になった上官の眉が視界に入ったのか、一呼吸置いたユーミリアがようやく口を開いた。
「今まで一体どちらにおられたんです?」
それでもなお、ユーミリアの手は書類の上で忙しく駆けまわっている。《済》と書かれた箱に次々書類が飛びこむ。
「今日はマチルダんち」
詰問する口調に負けずにロッシュは鼻息荒く答える。今日の予定に覚えがないのだから仕方がないと、割り切ってしまっている。ロッシュが執務室の扉を閉めてソファにどっかりと座りこむと、ユーミリアはペンを走らせていた手を止め、おもむろに立ち上がった。
「な、なんだよ」
「仕事ですよ。おかげさまで上官殿に構っているヒマはありませんから」
執務室には本棚やキャビネットが並んでおり、そのなかに書類や資料が大量に整理されている。突然すっくと立ち上がって本棚に近付き、一冊の分厚い本をとると、ユーミリアは付箋紙が大量についた本をぱらぱらとめくり、自分の席に戻った。検索が早いのは付箋紙のおかげというべきか、付箋紙を日頃から貼りつけてこまめに管理している本人の技というべきか。
「マチルダさんというと、ローズ通り6丁目のパン屋さんのお嬢さんでしたっけ?」
「いや、そのマチルダじゃなくて、シアン川とライラック通りの交差するあたりに住んでるマチルダ」
のうのうと返事したロッシュの声に、再びペンを走らせていたユーミリアの手が一瞬止まる。こめかみのあたりがぴくりと動いた。黒髪に隠れてはいるが、それでも彼の怒りは空気中に広がり、執務室にとげとげしい気配を充満させた。
「また新しい女性ですか?」
「うん、そう」
ユーミリアの眉間にぎゅうとしわが寄って、ペンを持つ手に力が入る。目がわずかに吊り上がるのを、ロッシュは開き直ってながめている。
「貴方のプライベートに口を出すつもりはありませんが、待機時間中に女性と遊ぶのはやめて下さい。いいですね、ロッシュ」
「えー、仕事済んだんだからいいじゃない」
ユーミリアがとうとう書類から目を離した。
「それは私が片付けたんです! 昨日あれほど会議だって言ったのに!」
「ああ、会議! そうかそれだ! あったあった、あったねえ」
「あったねえ、じゃなくて!」
つりあがった二重の黒い瞳には、あきらかに殺気がこもっていた。そんな己の副官に、ロッシュ中佐はひるむことなく告げた。
「きっと南国の魔法使いは、いい加減身を固めればいいのにと苦笑いしてたと思う。割とまともな人だからな」
「……そうですけど」
仕方なく答えたユグドラシル大尉は釈然としない表情をしている。
「それでラグラス・マーブルんとこの眼鏡副官は、あの人がいなくても戦略会議じゃないから大丈夫ですと言って、得体がしれない癖にこぼれおちそうな笑顔を浮かべていたはずだ。あいつは一番面倒くさい」
「オッペンハイマー大尉ですよ……いい加減名前を覚えてください」
「ハズレ?」
「あたってますけど」
「その上官のマーブル弟は副官をたしなめることもせず、眉間にあの有名な三本じわを寄せていたに違いない。自信家の兄貴の方は、あんな奴いなくったって完璧だ、とかほざいたに違いない」
「……ええ、その通りです」
「ぜひ一度お相手願いたくなるほどお美しいデューン大佐は相変わらず無表情。この前新聞で、クール様ってあだ名をつけられてたくらいだからな」
「確かにそうでした」
「湾岸警備のクーベリック提督は多分来てない。来たのは代理のフレアリング准佐で、デートすっぽかされた犬みたいな、悲しい顔をしてたんじゃないか? あいつは俺に会いに来たようなもんだろ」
「……当たりです。わかってるなら会議に出ればいいのに。准佐が可哀想ですよ」
会議の様子を言い当てるごとにふんぞり返っていくロッシュ中佐に苦々しい笑みを向けるしかない。湯を注いでからゆうに二時間は経った紅茶を飲んだかのような、渋い顔をしている。
「だって忘れてたんだもん。それに男に会いたがられてもあんまり嬉しくない」
中佐はけろりと答えて続ける。
「ついでに言うなら会議の内容は新興宗教の件だろ。一神教なので多神教である我が国の宗教を快く思ってない。過激な教義で人数が変に増えてきてるから、暴動を起こす可能性がある。警備を厳重にするべきか、新興宗教の踏みこみ調査を行うべきかという話だ」
「大当たりです。その通りです」
ユーミリア・ユグドラシルはあきれ果てている。
「結果はどうなったかと言うと、踏みこみ調査を行うならば、陛下に進言して命令が下るまでしばらく待機。その後命令が下れば、近衛の俺か、憲兵のラグりんが動く」
「ラグりん……」
「警備はマーブル兄の管轄だな。警備を強化するとなると、他の人間に協力を要請することになったんじゃないか? 多分協力を要請されるのは美人のデューン大佐あたりだろう。皇帝陛下から正式に命令が下るまでは警備の強化と、踏み込み調査の両方の準備をしよう、という結論になったかと思うんだが」
「まさにその通りです。会議に出ないくせに、どうしてそこまで」
呆れつつも感心している黒髪の副官に、銀髪の大佐はあっさり答えた。
「マチルダは新聞記者なんだよね。彼女から新興宗教の話を聞いて、多分そうだろうなと思ってたんだ。記者って発表しないけど一杯ネタ持ってるからさ」
「お得意のマドモアゼル情報網ですね」
「マダムもいるぞ」
ユーミリアは心底呆れて肩から力を抜き、大きくため息をついた。
「まったく……刺されても知りませんよ」
「情が深くなる前に逃げるのがオレでね。幸い、そんなヘマをしたことはない。おい、今日は飲みに行くぞ。会議の内容を教えてくれ。要点だけじゃ心配だ」
「それなら会議に出てくださいよ……」
「オレがサボるのを知ってるから、上層部は敏腕副官のお前を、オレのところによこしたんだろう?」
銀髪の大佐は市街の女性たちをとろけさせる微笑を浮かべて、得意げに己の副官を見た。