第三章 木龍の思惑 第七話
深夜に皇都に帰還してすぐ、クラウス・オッペンハイマー大尉は城に入った。人影はまばらで、警備が数人いるだけだ。夜の執務室には、彼の上官はいない。暗がりの中、明かりも灯さずにやわらかいソファに身を沈めて思考をめぐらせる。
ハレイシア・デューン大佐の身辺調査は進まない。デューン大佐の故郷であるハルシアナに飛ばした使いが、まだ戻ってきていなかった。雪と氷の街・ハルシアナは皇都から遠い。皇都での情報はいくつか手に入ってはいるが、どれもこれも一般的なものでしかない。デューン大佐はあまり他人に気を許さないようだ。荒事のある部署でもないから、病院にもほとんどかからないらしい。大半は仕事に関する情報が占めていて、情報収集が遅々として進まなかった。
皇帝が突如として命じたデューン大佐の身辺調査で真相を報告するつもりはない。皇帝は第二夫人エルザとハレイシア・デューンの仲を疑っているだけだ。そのほとんどは嫉妬のようなものだろう。付き合わされるこちらの身にもなってほしい。エルザが関係を持っているのはクラウスであって、おそらくデューン大佐ではない。
それでも、敵のことは知っておくべきだ。身辺調査を続行するのはそんな思惑からだった。戦闘する際、まず相手や地理などの情報を得るのは必要なことだと、クラウスは思う。
さて、どうしたものか。
鳶色の瞳を天井に向けて、静かに目を閉じる。トレードマークともいえる銀縁の丸眼鏡はデスクの上だ。
何かがひっかかる。
クラウスのよく知るエルザは、決して自分の身を危険に晒すような真似はしないはずだ。何故第一夫人マリーの噂を放置しているのか。エルザがデューン大佐に近づいたことも、メイドの口から聞いている。意図的なものだろう。
幼い頃からエルザのことはよく知っている。商業都市スォードビッツで自分を救ってくれたのは他ならぬエルザであったことを、忘れたわけではない。
十三年前のスォードビッツの内乱。死人として残るヨシュア・フォルテスという名。炎上する邸宅……それは、かつて己が脱ぎ捨てた仮面だ。いつか、クラウス・オッペンハイマーという血にまみれた仮面も脱ぎ捨てる日が来るのかもしれない。
幽閉塔にいる、あのナイジェル・ライズランドとどう違うというのだろう。
現皇帝ウィルフレッド・ライズランドの弟であるナイジェル・ライズランドは、政争に敗れて幽閉塔から出られずにいる。先代皇帝の第一夫人の子であるナイジェルと、第二夫人の子であるウィルフレッド。先にこの世に生を受けたのは、ウィルフレッドだった。政争になるのは当然だ。
己の内側にいるヨシュア・フォルテスの疑問に、クラウスはうまく答えを見つけることができない。反乱とその鎮圧によって、違う自分を生きることになった己は、ナイジェル・ライズランドと大差ない。
あのときエルザがヨシュアを助けなければ、生きながら死ぬこともなかった。その声を、うるさい、とクラウス・オッペンハイマーが抑える。エルザがいなければ生き延びることなどできなかった。──それはどちらも真実だ。
いずれ、ヨシュア・フォルテスを解放する日は訪れるだろう。そのときのために、クラウスは策略を練っている。けれども、ヨシュア・フォルテスの解放が達成されたそのとき、エルザが隣にいなければ意味がない。だからエルザを救わねばならない。
エルザを救い、デューン大佐を陥れる。どうするのが上策か。ヨシュアとクラウス、二人がそろって思索を進める。噂を否定して、先にエルザを救うべきだろう。では大佐を陥れる方法は?
突如として、扉を叩く音が耳に入った。クラウスは我に返って返事をする。
「クラウス・オッペンハイマー様。ご自宅にご在宅ではなかったので、こちらに伺いました」
扉を開けて、入室させる。ハルシアナに放った密偵だった。
「何か、わかりましたか」
密偵が黙って書類の束を渡す。報告書であるらしい。クラウスはデスクの上に置いてあった眼鏡をかけて、書類を受け取った。ざっと目を通す。クラウスの表情が驚愕の色を宿す。
「……大佐が、女性?」
「はい。間違いなく」
感嘆のため息がもれた。ありがとう、と密偵に告げる。黙礼した密偵はすぐに廊下の闇の中に消えた。優秀な密偵なのだろう、足音は聞こえない。少しだけ時間を置いて距離をはかり、クラウスは喉を鳴らした。
ハレイシア・デューンが女性だという事実を公表しさえすれば、簡単にエルザを救い、大佐を陥れることができるではないか。皇帝の寵愛を受ける女同士が密会していたとして、不義密通を疑う者はいないだろう。同性であれば、後宮でよく開かれるお茶会のようなものではないか。あとはこれを、どう公表するかだろう。
身辺調査の結果として皇帝に密告すると、デューン大佐を敵にまわすことになりかねない。
できればデューン大佐を、敵にまわさずに陥れたいものだ。うまくいけば、現皇帝ウィルフレッド・ライズランドを倒す味方に引き込めるだろう。
かといって、エルザに大佐の性別を公表させるのは避けたい。エルザが大佐をお茶に誘ったことでハレイシア・デューンが女性だと判明したのだと言われる可能性がある。それでは不義密通の計画がエルザ側にはあったとされてしまう。
窓にはカーテンがひかれており、月を見ることは叶わない。けれどもクラウスは、闇夜に咲く月を見つけたように晴れやかな気持ちでいる。
ラウィーニア・ライズランド。
丸眼鏡の大尉はふと眼鏡の奥の瞳を細め、引き出しから便箋を取り出した。ペンの先が華麗に踊る。
ラウィーニア・ライズランドは、先代皇帝の第一夫人である。いまだに後宮に住む彼女は、現皇帝と犬猿の仲にあった。現皇帝が即位する際、ラウィーニアは陥れられたのだから、仲が悪いのは当然だろう。第一夫人の彼女の子であったナイジェルは第二子だった。第一子の生母である第二夫人の流布した噂によってその座を奪われ、ラウィーニア・ライズランドは皇帝生母となる機会を失った。政争ではよくある話だ。
恨みや憎しみというものは、そう簡単に消えるものではない。歳をとって死を身近に感じられるようになった今、そういった感情はさらに煮詰められて凝縮されているはずだ。後宮の薔薇園の女主人となったラウィーニアは、己を操ろうとする影の正体や思惑に気づくだろうか? 恐らく気づくまい。感情的になった女主人は、冷静さを失うはずだ。
ラウィーニアさまは男好き。ナイジェルも誰の子かわからない──。
女主人の顔には、第二夫人の流した事実無根の言いがかりや陰口による苦しみが深く刻まれている。いまだに心の底に残っているであろうその澱を、少しかき回してやるだけでいい。
──親愛なる女王、ラウィーニア・ライズランドさま。
筆を一瞬止める。そうだ、お前に姿を与えてやろうと思いついて、ヨシュア・フォルテスより、と文末に書き加えた。書き終えた手紙を見て、クラウスは微笑む。微笑んだのはヨシュア・フォルテスなのか、クラウス・オッペンハイマーなのか。微笑はすぐに苦笑に変わった。
ラウィーニア・ライズランド、後宮の薔薇園の女主人は、後宮から出てきた噂……「第二夫人エルザとハレイシア・デューン大佐の不義密通」など愚にもつかぬものなのだと世間に知らしめるための最良の人選だと思えた。




