第三章 木龍の思惑 第六話
疲労がわずかなかげりを生んで、妙な色香をふりまいている。ハレイシア・デューン大佐のため息を、もう何度聞いただろう。山積みの仕事以外にも何か心配事があるのだということは、容易に想像できた。
ロイではなくその副官、ユーミリアに用があると執務室までわざわざ足を運んでくれたのだ。部下にあたるユーミリアを呼びつけるわけでもない。よほど深刻な、そして内密の用件に違いないとユーミリアは身構えた。
先日下された命令のことを思い出した。気づかれないように、そっと嘆息する。デューン大佐がラズラス・マーブル大佐の犯人であろうはずがない。ラズラス・マーブル大佐を殺した犯人は、おそらく皇帝を暗殺しようと目論んでいた。でなければ、わざわざ警備の厳重な城で暗殺事件を起こすはずがない。犯人の目的が皇帝暗殺にあるのなら、皇帝の警備など絶好の機会のはずだ。ロイはあまりに馬鹿馬鹿しい言いがかりだと憤慨した。陛下からの命令なのだから無視するわけにはいかないとユーミリアはなだめたが、後宮由来のごたごたなら貴族のラグラスに任せておけばいい、バカバカしくて聞く気もしないとますます鼻息を荒くしただけで、彼の上官はそっぽを向いた。皇帝と上官の板ばさみになったユーミリアは諸手をあげて降参の意を示し、己の上官が折れてくれるのを待つよりなくなった。だからその問答の最中に訪れたハレイシア・デューン大佐のノックは、福音にも近い響きをもって聞こえた。
「で、話というのは何なんです」
ロッシュは退屈を紛らわせるようにそう割り込んだ。頬が笑みを刻んでいる。険悪なムードの中、ユーミリアと角をつきあわせるよりも、美貌の大佐の相談ごとを聞いた方が面白いと思っているのだろう。その様子を隠しもしない。
「今日は大尉に用があるんだ」
苦笑しながらデューン大佐はカップに唇をつけ、香りのいい紅茶だな、と微笑んだ。
「どうかされたんですか?」
茶菓子を用意して、ようやくユーミリアはソファに戻る。
「告白をしたいんだ」
唐突なデューン大佐の言葉に、二人の動きが止まった。あたり一面が急激に乾期に突入したような、湿度のない感覚に陥る。デューン大佐は何かに思いをめぐらせているようで視線を上げない。ロイが真剣な顔で身を乗り出す。会議のときよりもずっと真摯で、眉間にしわまで寄っている。
「恋ですか? どっちに?」
「何が?」
デューン大佐も同じく真顔で返す。
「中佐!」
茶化されては困ると悟ったユーミリアは、瞬時に己の上官を突き飛ばした。思わず掌底を食らわされたロイはソファの上で身をよじらせる。ソファの上にあった窓の手すりに、身体をしたたかにぶつけたらしい。言葉にならない叫びを上げながら悶絶している。
「ロッシュ君は大丈夫か?」
「大丈夫ですから、無視して進めてください」
「そうか」
上官になんてことを、と非難の視線を送るロイを無視して、ユーミリアは姿勢を正す。おそらくデューン大佐は、神官としてのユーミリアに用があるのだろう。罪状や秘密を告白する懺悔に来たのに違いない。
デューン大佐はひどく躊躇していた。透明感のある白い肌に金の絹糸のような髪がかかる。ほのかに青い瞳は落ち着きなく動いている。
「他言はしません。ね、中佐。問題があるなら、中佐に席を外してもらいますが」
「構わない」
有無を言わせぬユーミリアの言葉に、ロイはまだ痛みから逃れられないのか、不恰好な謎の動きの間に何度も小さくうなずいた。ロッシュがもだえるたびに、ソファがわずかに浮き沈みする。
「……女なんだ」
美貌の大佐は突然そう告げた。黒髪の大尉はわずかに首をかしげる。
「ええと?」
「実は女なんだ、私」
瞬時にロッシュの瞳に輝きが満ちる。まだ戸惑っているユーミリアをお返しとばかりに突き飛ばし、満面の笑みを大佐に向ける。
「んもう、そんなことなら早く言ってくれたらよかったのに!」
わずかに顔をこわばらせたデューン大佐がユーミリアに助けを求める視線を送る。ソファの上で、先ほどのロイと同じく、けれどもその上官よりは少し小さくうめいている大尉の姿が目に入った。助けは期待できないと悟ったデューン大佐が、市街の帝王と化したロッシュをはねのけるために憮然とした表情を作る。
「聞かれなかったから、言わなかっただけだ」
デューン大佐の作戦など一切無視して、ロッシュ中佐は笑顔を見せる。それはいつもの、女性に向ける満面の笑顔ではなく、ロイ本人がとろけた笑顔だった。ユーミリアが横で呆れている。こうなった上官を止める方法はおそらくこの世に存在しない。
「大佐、性別は?」
「だから女だ」
憮然とした表情に加え、眉が寄る。みるみる表情の険しくなるデューン大佐を無視して、ロッシュは両手を大きく広げた。窓から差し込む光もあいまって、ロイはとても幸せそうな顔に見えた。
「大佐! 愛してます!」
「黙れ色ボケ」
「あなたの愛で私を満たしてください。私の苦悩などはねのけてください。私の人生にあなたという艶やかな潤いと、芳しい香りを与えてください。あなたの美貌ならそれが可能だ」
「阿呆、自分のことで手一杯なのに、お前のことまで面倒見られるか」
思わずはねつけたハレイシア・デューン大佐の言葉に、黒髪の大尉ははっとして叫んだ。よく隠せたものだと感心している場合ではない。
「そうですよ、陛下の警備! 寝所を任されたんでしょう?」
先日から、ハレイシア・デューン大佐は城内警備を任されていた。そのなかでも特に皇帝の寝所を守るようにと言明されている。もしも女性だと知られれば皇帝を欺いていたとされるか、酷い目に遭う。どちらに転んでもいい結果にならないのは間違いない。
「大佐、そりゃいけません! 絶対、絶対にです!」
ユーミリアの言葉を聞いたロイが怒りに燃えている。あまりの剣幕に気圧されて、デューン大佐が口の中で弁解するように小さくもごもごとしゃべった。
「行ってない。だから後宮に」
「でも後宮は男子禁制でしょう? 男性だと思われている大佐が後宮にいたら、要らぬ疑いをもたれるんじゃ」
ユーミリアの声にハレイシアはうなずく。その表情は苦悩に満ちている。
「私は城内警備担当だろう? だからまだ逃げようがあると思ったんだ。でも甘い考えだった。今朝から誰かにつけられている。きっと夜着のエルザ様と話をしたのを誰かに見られてたんだ。それで要らぬ疑いを」
「うわあ、エルザ様大胆。それでその誘いを受けたんですか」
「誘い? コーヒーを飲んで話したけれど」
真摯な表情で問い返されて、ロイの動きが止まった。少しして、冗談ではないらしいと悟った銀髪の中佐がため息まじりに答える。
「……大佐? それは多分誘われてるんですよ?」
「誘いって、いったい何の……まさか、そんな」
わずかに頬が紅潮したデューン大佐を見て、さらに「うぶですねえ」とロイがからかう。
「ばか、私は」
「こんなにうまく隠せるなんて誰も思いませんよ。ましてや男性より槍を使いこなしてる女性がいるなんて、なかなか思い至らない。エルザ様との関係を疑われても仕方がないでしょう」
ユーミリアの言葉に、デューン大佐がわずかに表情をくもらせる。複雑なその表情を見て、大尉はこれからの先を憂いているのだと感じた。しかしロイはすぐに、副官の足を強く踏みつけた。
何をするのかと上官を非難しようとすると、銀髪の中佐は逆に副官をにらみつけらていた。何を求められているのかわからず、ユーミリアは眉を寄せる。上官は軽く舌打ちして、だからアリアちゃんとうまくいかねえんだよ、と毒づいた。それを言われてしまっては、ユーミリアは黙るしかない。
「大佐、身体検査は?」
「ちゃんと受けた。女性だというのも定期健診のカルテに載ってる。私の故郷ハルシアナの医者だから、取り寄せなくては見せられないけれど」
「じゃあなんで隠してたんです? もったいない」
「隠してたんじゃない。特に聞かれることもなかった。気付いたら男性だと思い込まれていて、釈明する機会のないまま今日まできた。槍術大会の優勝者を女だと思えなかったんだろう。当時ハルシアナから出てきたばかりで、誰も私のことを知らなかったし」
目を伏せて寂しげに笑う大佐を目の当たりにして、ユーミリアは先ほどの己の発言を後悔した。ハレイシア・デューン大佐は女性として扱われなかった自分のことを、少し気にしている。しかし力自慢・腕自慢の集まる武術大会の優勝者が女性だと知れば、槍の腕前で負けた男性たちは彼女をあることないこと言って批判しただろう。己の身を守るためには、性別を明言しないのは正しい選択であったかもしれない。
どうフォローすべきなのかわからない。ロイは遊び歩いているだけあって、ハレイシアの劣等感を敏感に感じ取ったらしい。何を語るべきか困っているユーミリアに、上官が助け舟を出す。
「大佐は中性的な美貌の主だから仕方ないですよ。皆つい見とれてしまうんです。それにしても陛下の警備は困ったな。女性だと公表しますか? そうすればエルザ様との疑いは晴れるはずです」
「エルザ様との疑いが晴れる? 陛下は私を女性だと知っていて、その上でエルザ様との関係を疑っているのではないのか? 警備担当者の経歴くらいは目を通すはずだ」
首を傾げるハレイシアに、ロイはためいきをついた。ユーミリアも自分が奥手だという自覚はあるが、デューン大佐の場合は自覚すらない。朴念仁、四角四面という言葉が脳裏に思い浮かんでは消えた。
ロイがどう説明したものかとうなって、銀髪をかきまわしている。きっといい言葉が出てこないのだろう。やがて観念した銀髪の中佐は率直に告げた。
「あの陛下がそんなもの見ますかね? 書類なんか右から左で、基本シルバリエ大佐にぶん投げてるじゃないですか。陛下は男色に目覚めた、そう勘違いしていると思いますが。だからエルザ様との関係が疑われているんじゃないですか?」
「ああ、そういうことだったのか……」
何かを深く思案するように、ハレイシアは遠くを見ると、困ったな、と他人事のように呟いた。
デューン大佐も朴念仁すぎますよと、思わず口に出しそうになったのをユーミリアは苦笑してごまかした。




