第三章 木龍の思惑 第三話
何日も移動しているとさすがに疲れる。馬車とはいえ、揺れのせいで心地よい睡眠をとることはできなかった。皇都からネステラドにいたるまでの道のりを思うと、クラウスは自然とため息が出る。宗教都市ネステラドは小さな街だ。農業が盛んなこともあって、建物より田畑の方が多い。秋の収穫期なら田地は黄金色の大海と化す。今の季節は若い稲や麦が延々と並んでいるだけだ。のぼりはじめた太陽の光を浴びて繁茂しているのだろう、草の匂いがする。日がのぼれば草いきれはいっそう強くなるに違いない。丸眼鏡の大尉は、まだ気温が上がらずにいることに安堵をおぼえた。
田舎くさい街だと、クラウス・オッペンハイマー大尉は鼻を鳴らす。
青年期をこの街で暮らしたが、どうにも好きになれない。あまりに純朴で、日々の生活が単調で、穏やかすぎる。善良な領主のもと、ゆっくりと時間を進めるのがこの街には似合う。きっと宗教都市であることも関係しているのだろう。国教であるメイジス・フェシス教の二柱の神々のうち、光であるメイジス神を祀るオッペンハイマー家にあって、彼は異色だった。神官であるクラウスはこの街の領主をつとめるが、自分だけが浮いているように思えてならない。
幽閉塔に直行するように御者に指示してある。緑色の大地に、レンガ造りの城壁と塔があるのが見える。その古びた色はネステラドという街に似合っていたが、妙な威圧感も兼ね備えていた。馬が減速していく。やがていななきが聞こえて、馬車が止まった。
幽閉塔の敷地におりたって、オッペンハイマー大尉は大きく嘆息した。朝日がもやを溶かしていく。その光の中に浮かび上がる塔は、暗く湿った空気と独特の匂いを漂わせていた。
敬礼した門番に軽く会釈をする。門番はおかえりなさい、と言った。それを聞いてクラウスは苦笑する。月に一度は必ず、この幽閉塔を仕事で訪れる。ネステラドはクラウス・オッペンハイマーの生まれた街だ。おかえりなさいと言われても不思議はない。けれどもクラウスにとっては、妙に居心地が悪かった。
重い鉄の扉を開ける。寒々とする。すえた臭いがした。頭の芯が重くなる。
──ヨシュア。
塔の奥から吹いてきた風がそう告げたような気がして、クラウスは身震いする。疲れているのだと己を納得させた。深呼吸をする。塔内の冷たい空気が肺にしみた。
階段を進むたび、靴音が反響した。レンガでできた塔は、ところどころに苔を生やしている。
拷問部屋の前を通る。錆びた臭いがした。絶叫する気力すらなくした者のうめき声は、地中深くから響く獣の声のように思えた。
瞬時にクラウスの脳裏に、炎に包まれた邸宅が思い出される。背筋に感じた寒さが全身に広がって、毛穴がぞわりと開いたのがわかった。
やはり今日は疲れている。かぶりをふって塔を進む。やがて塔の頂点にある部屋にたどりついた。他とは比べ物にならぬほど頑丈な鍵を一つずつ開ける。四つ目の鍵を開けたあと、ようやく扉は開いた。
扉が開いた瞬間、塔内に哄笑が響いた。
「来たか! クラウス・オッペンハイマー!」
「来ましたよ。仕事ですからね」
笑い声の主は椅子に座っていた。腰まで伸びた長い金髪は燻されたような色をしている。ヒゲの伸びた口元を歪ませて、男は笑った。瞳の色は泥色に思えた。白目が血走っている。
「お前に告白する罪など、このおれにあるものか!」
「そうですね。あなたは罪を犯したわけではない」
クラウスは眼鏡の奥の瞳を細めて、現在の皇帝ウィルフレッド・ライズランドの弟、ナイジェル・ライズランドに視線を定める。狂人のようにときおり高い声をあげて笑う男が、目の前にいる。鎖で繋ごうにも繋げない罪人である。
「おれよりずっと罪深い女を知っているぞ。ルイーズ・ライズランド、現皇帝の母親だ! あいつは第一夫人の嫡男であるおれを、次期皇帝の座から追い落とした! 皇位継承権第一位であったおれを!」
高笑いが部屋の中に響く。冷たく臭気を放つレンガの部屋にその声は反響した。何倍にも膨れ上がったナイジェルの声の余韻に、クラウスは冷たく言い放つ。
「歴史というものは、勝ったものが決めるのです。ですからあなたの罪は、政争に負けたことでしょう。第二夫人の子で第一皇子である陛下と、第一夫人の子であり第二皇子であるあなた。敗れたのはあなただった。だからあなたはここに幽閉されている。ただそれだけのことです」
弟王の喉がかすかに上下する。喉を鳴らす音が室内に反響した。途中、ナイジェルは何度か荒い息をついた。興奮してもれた鼻息が少しずつ不規則になっていく。やがてそれは大きな笑い声に変わった。
「そうとも。だからおれに告白する罪などあるものか! おれを殺して罪にまみれるのはウィルフレッドの方だ。奴にはそのうち、闇の神フェシスの神罰がくだる!」
塔全体に響くような声も、実際にはこの部屋で響いているだけだ。現皇帝ウィルフレッド・ライズランドが即位してから四十年が経つ。政争に負けて表舞台からも裏舞台から抹殺され、この幽閉塔に閉じ込められたナイジェル・ライズランドのことなど、覚えている者などほとんどいない。
クラウスは自嘲する。遺物に心惹かれるのは、己の性質なのだろうか。
狂気に満ちた両目を見開いて笑う男に、クラウスは宣告した。
「神罰などくだりません」
男の笑い声が止まる。
「毎月お前に、奴の罪を告白しているというのに? メイジス神は、フェシス神は一体何をしているのだ!」
神々の名を男は叫んだ。膝を折り、喉の奥から高い声を上げる。それは悲鳴だった。正気を保っていられる限界を超えたのだろう。クラウスはふと、微笑んだ。男に顔を近づける。ナイジェルのおびえきった視線と、クラウスの冷徹な視線が絡む。
「神などいない。それに僕は、光の神官でもない」
だからこの街になじむことができない。クラウスという仮面に日々侵食され、すでに他人と成り果てた自分に嫌悪感を持つ。遺物に心惹かれるのも、本来の自分自身を取り戻したいと心のどこかで求めているからかもしれない。
……本当の自分の故郷はどこだ?
思い出せ。体中に刻み込め。もう後戻りなど、する必要はない。クラウスの内にある本来の自分……ヨシュアがそうささやく。
クラウスはナイジェルの耳元にそっと薄い唇を寄せた。
「いずれ、あなたがここから出る機会があるかもしれない」
低く響いたクラウスの声に、ナイジェルは再び興奮した。泥色の瞳に強い光がにじむ。どこからしみこんだのか、結露したのかよくわからない雫が、部屋の隅でぽたりと小さな音をたてた。
「もしそのときが来たら、僕の力になってくれますか?」