第三章 木龍の思惑 第一話
赤じゅうたんの敷かれた長い廊下に、軍靴の音が急調子で響く。眉間のしわは普段より数段深い。荒々しく扉を閉めて、ラグラス・マーブル中佐は己の副官を呼んだ。すぐに返事したクラウスに、上官はコーヒーを入れてくれと命令した。虫の居所が悪いらしい。デスクから給湯室に向かいながら、丸眼鏡の大尉はたずねた。
「どうされました」
「お前に頼んでも?」
「命令されればなんでもしますよ。今日は幽閉塔に行く日ですから、他に用事は入れてません。何を頼まれればいいんですか?」
「身辺調査だ」
荒々しくソファに座ると、中佐は深いオリーブ色の髪をかきまわした。ガラスを通して光を投げかける太陽が、淡いクリーム色のソファを白く照らしていた。クラウスは湯を沸かしてコーヒー豆をフィルターに入れている。
「ハレイシア・デューン大佐の身辺調査だ」
「大佐の? 何かあったんですか」
「知らん。上司を売れということだろう。ロッシュ中佐も呼び出された。どちらを大佐に昇進させるかそれで決めるそうだ。くそっ、皇帝陛下の頭の中はどうなってるんだ」
一瞬できた会話の間を、やかんが熱せられる小さな音が埋めた。上等なソファに身を沈めたラグラスは、目を閉じて思考を巡らせている。目を開き、一瞬躊躇してようやく重い口を開いた。次に発したラグラスの声はひどく低かった。
「……後宮の女と通じていないか、だよ」
クラウスは聞き取ろうとせまい給湯室から身を乗り出し、即座に返す。
「マリー様とですか、エルザ様とですか」
「さっき自宅に使いを出して調べさせた。どうやらマリー様経由の噂らしい。つまりエルザ様との仲を調べろということだろう。クラウス、お前知ってたか」
「いえ。でもデューン大佐は警備を任されているから後宮に出入りするだけで……」
「ラズラス暗殺事件の犯人ではないかと、陛下は疑ってるようだ」
湯が沸く高い音がして、中から熱湯があふれ出した。クラウスがあわてて体勢を整え、やかんを外す。
エルザが?
心の内でクラウスは思考をめぐらせる。デューン大佐経由でエルザからは伝言を受け取っている。エルザはおそらく、もう後宮には来るなと言いたいのだろう。後宮の塔に住み着いた大きな黄金鳥が、小鳥を殺してしまった──それは、マリーが動き始めたということだ。おそらく噂のことをさしているに違いない。エルザとその周囲に疑惑が向いている今、自身が後宮に真相を確かめに行くのは危険だ。
エルザが自分を裏切るわけがない。クラウスにはエルザについて知り尽くしているという自負がある。エルザは一体何をしようとしているのだろう? デューン大佐に疑いを向けようとしているのだろうか。しかしこのままでは、エルザにも疑いが向いてしまう。
「大佐が使うのは槍でしょう? 剣ではないはずです。ラズラス様の傷は剣によるものだったはずです」
「わかってる! それくらいのこと、俺もわかってる!」
心情を爆発させるようにラグラスが強い調子で言った。
「……すみません」
「すまない。少し取り乱した。その件については既にロッシュが進言した」
前髪をかきあげたまま、ラグラスは指に力を入れた。眉間には三本じわが生まれ、表情も険しい。クラウスは見なかったふりをして、湯をポットに注ぎいれる。湯を注ぎながら、大尉は再び思案をめぐらせる。
噂が嘘だと証明しなければならない。でなければエルザの身が危険にさらされる。マリーは毒を含んだ牙で、エルザに噛み付こうとしている。だから今回の噂を流した。第三夫人や第四夫人もいるにはいるが、マリーが狙うのは現在皇帝の寵愛を最も受けるエルザだろう。皇帝としても、先の暗殺事件の犯人が後宮経由で逃げたとすれば放っておくわけにもいかない。
「デューン大佐が剣を使わないということで、陛下は納得されなかったのですね? デューン大佐が使うのは槍です。使い慣れない剣で、ラズラス様ほどの使い手を暗殺できるわけがないのに」
クラウスは皇帝を忌々しく思う。
もしも真犯人が捕まれば、エルザと自分の関係が公になる。それだけは避けたい。
「調べろ、の一点張りだ。仕方なくロッシュも折れた」
偽の犯人をでっちあげるべきだろう。疑われているハレイシア・デューン大佐と第四夫人あたりが密通しているように見せかけるのはどうだろう。他の龍将たちは疑うだろうが、何らかの罪でデューン大佐を捕らえてしまえば、管理下に置くことができる。幽閉塔にでも入れておいて、反皇帝の仲間に引き込むこともできるだろう。民衆が真相を疑うほど、デューン大佐の価値は高くなる。市外で人気のあるデューン大佐には利用価値がある。
「クラウス、コーヒーがこぼれそうだ」
「ああ、ああ、すみません。やっちゃいました」
ラグラス・マーブル中佐の声で、クラウスはあわてて我に返る。こぼれる寸前にラグラスが声をかけてくれて助かった。すぐさまカップにコーヒーを注いで、角砂糖を二個とミルクを入れる。角砂糖はすぐに液体の中に姿を消した。カップをトレイに乗せ、応接机に運ぶ。
憤然とした様子の上官が目に入って、クラウスは心の底で薄く笑う。普段仏頂面をしているからわかりづらいが、ラグラスには意外と素直なところがある。
「身辺調査、しないわけにはいきませんね。僕がやっておきますよ」
「幽閉塔の仕事もあるのに悪いな」
「あれはオッペンハイマー一族……光の神官の役目だから、あまり仕事という気はしないんですよ。宗教都市ネステラドに行くのも里帰りのような感じですから。ところで、調査の期限はいつまでです?」
甘めのコーヒーを一口すすったラグラスは、十日だと副官に告げた。かなり早い。その声は甘さの欠片もない声で、クラウスは妙におかしくなった。