第二章 金龍の血痕 第六話
親指の爪が小さく悲鳴を上げる。ささくれだった爪が舌にひっかかった。
老人は寝室で一人、頭を抱えた。
「なぜだ!」
ヒステリックな叫びと共にベッドのカーテンをむしりとる。薄いカーテンが裂ける音がして、眼前にほつれた糸がぶら下がる。黄金色の太い柱によりかかった薄布を一瞥して、皇帝はベッドに倒れこんだ。つたを絡ませる葡萄の彫刻を施した四つの柱に囲まれたベッドはやわらかく、皇帝の身体を弾ませた。
「あれも、これも、みんなちがう!」
青い縞瑪瑙の瞳をもつ彼……デューン大佐は、皇帝寝所の警備を避けた。後宮の警備へ逃げたのだ。
天蓋から、エメラルドで作った葡萄がぶら下がっている。
「ちがう! ちがうちがうちがう! あの美貌も所詮は複製でしかない!」
腹の底から押し出された声は野太い。けれどもその内容は、子供の癇癪と大差ない。幼い叫びを響かせた腹は、前にも横にもはりだしていた。脂ぎった太い指で頭を抱え、軽く癖のついた髪をかきむしる。思い出されるのはデューン大佐のことだった。
金色の豪奢な、けれど絹糸のように細い髪。青い縞瑪瑙に似た、冷たい水色の瞳。氷を思わせる冷たい美貌。
わずかな武功で取り立てた。瑣末な仕事であってもことさらに功績をたたえた。そうして彼は、龍将にまでのぼりつめた。
「……ああ、あれこそ。あれこそが」
んふう、と鼻から熱い息が漏れる。見開かれた皇帝の瞳はくすんだ緑色だった。
「ああ、お前は、なぜ私から逃れていくのか!」
皇帝の寝室を満たした灰色の声は、わずかに天蓋の葡萄をふるわせた。それが視界に入って、皇帝はとりつかれたようにくりかえす。
「青だ。青だ。青だ!」
皇帝は俊敏にはね起きると、ベッドから飛び出す。脇机に置かれたオルゴールのふたを開ける。宝石を埋めこんだ銀の透かし彫りのオルゴールには目もくれない。コロン、と小さく転がりだした音も聞こえぬように、皇帝はオルゴールのなかの宝石をつかんだ。
「これなのか」
贅肉のついた太い指と指の間に丸い石がおさまる。ラピスラズリ。
てのひらからこぼれそうになる石を短い小指で押さえ込む。アクアマリン。
何面にもカットされた石をわしづかみにする。スターサファイア。
目の高さに掲げた宝石が、指の隙間からすり抜け、脇机とぶつかる。甲高い音は皇帝の叫びにかき消された。
「これも、これも、全部ちがう!!」
発作でも起こしたかのように、宝石をぶちまける。
「あれが、あれこそが……」
震えるてのひらには、ブルーレースメノウがただ一つ。白く青い、縞瑪瑙は、デューン大佐の瞳の色に似ている。
「おまえが欲しい」
引力に従おうとする縞瑪瑙を捕まえる。逃れられなかった縞瑪瑙は冷たい光を宿したまま、燭台の灯りを受けて小さく輝いた。
皇帝、ウィルフレッド・ライズランドは黄金色の柱の前に、宝石をはさんだ指を移動させる。黄金を背景にした青い縞瑪瑙は、皇帝にやわらかな光を投げかけた。その光を受けて、急に正気に戻ったように、老人は高い声をあげた。
「誰か、誰かおらんか!」
すぐに重い扉がノックされる。入るよう促すと、扉が開いて執事が現れた。
「シルバリエ大佐を」
執事は短く返事をして退室する。ほとんどの龍将がそうだが、シルバリエ大佐も皇都に住んでいる。使いを出せばすぐに来る。
皇帝は鼻息も荒く、グラスにウイスキーを入れた。琥珀色の液体が、軽い音をたてて注がれていく。一気にあおると食道をアルコールが駆けぬけた。鼻腔に届く香りはわずかに苦い。分厚い唇からグラスを外すと、頭がくらくらした。酔いが心地いい。
自然と喉の奥から笑いが転がりだす。
手に入らぬなら、奪えばいいのだ。
手のなかでもてあそんでいた青い縞瑪瑙をグラスへ入れる。ウイスキーの泉で縞瑪瑙が泳ぐ。底に落ちた縞瑪瑙を踊らせるために、再びグラスを揺らす。縞瑪瑙はときおりグラスの壁にぶつかって、軽い音をたてた。老人は甲高く笑う。琥珀色の液体に浮かぶ白い体を想像する。大佐の金色の髪がウイスキーに広がる様子を思うと、ぞくぞくした。
何杯目かのウイスキーを流し込んで、腹の底の熱を吐き出したとき、扉を叩く軽い音がした。シルバリエ大佐が到着したらしい。入れ、と返事をする。
「陛下、どうされましたか」
「デューン大佐は、後宮におるのだな?」
「はい。そのように聞いておりますが」
大佐の眉宇が、こんな夜更けに何用かと語っている。あるいは酔った人間に対する不快感なのかもしれない。南国タリビュート特有の黒い肌は、表情をわかりづらくはしていたが、本人が隠そうとしない感情までは隠せない。
「先日の曲者は、後宮の誰かの協力によって逃げたという噂があるそうだな。マリーから聞いた。お前は知っているか?」
「いえ、存じ上げません」
大佐が答えるのと同時に、入室してきた執事が皇帝から目をそらした。こいつも噂を知っていたのだと皇帝の直感が叫ぶ。荒い鼻息のまま、皇帝はシルバリエ大佐に問う。
「マーブル大佐の暗殺は計画的な犯行だったのではないか? 前々から、後宮の誰かと通じて、機会を狙っていたのではないか? なぜ今、大佐は後宮にいるのだ? 私の警備が目的なのに、私はここにいるというのに、大佐はなぜ後宮にいる!?」
執事の顔がこわばる。トゥール・シルバリエは冷静なままだった。さすが、前線からの無理な補給要請にもこたえてきた男だ。その手腕は、南国の魔法使いという異名をつけられるだけある。ヒステリックに叫ぶ皇帝の前でも冷静だ。短く刈り込んだ針金のような大佐の髪を、アルコールを含んだ皇帝の息がかすめていく。顔色ひとつ変えず、力強い瞳のまま、大佐は告げた。
「では、本日は私が陛下をお守りするということですね? 私をお呼びになられたのは、そういったご用件でしょうか」
シルバリエ大佐がわざと話をそらしたのに老人は気付いた。デューン大佐は落ち度を責められて当然だ。そんな人間をかばうと自分が痛い目にあう。守らねばならぬ家族を得て、一層守りに入るようになったシルバリエ大佐を見下ろして、皇帝は一息ついた。
他人の目など久しく気にすることのなかった皇帝は、シルバリエ大佐の目を意識した。欲望よりも現実問題を優先しろと、この男は言外に告げている。
「そうだ。それだけではないがな」
気圧されたのをかくすように、甲高い声で皇帝は笑う。寝室を越え、廊下を越え、笑い声は夜闇にそびえる白亜の城を揺らす。
「デューン大佐は後宮の誰かと通じている可能性があるのではないか?」
南国の魔法使いは動かない。
「怪しいだろう。大佐が今、私の側にいないのは、怪しい!」
皇帝は己の考えに陶酔しきって、部屋の中で大きく叫んだ。
「今すぐ大佐の身辺調査をしろ!」
第二章 金龍の血痕・了
第三章 木龍の思惑へつづく




