第二章 金龍の血痕 第五話
金髪の大佐は夜が明けるのを、静かに待っていた。夜闇が白い太陽光ににじんで、夜が明けていくのを想像しているが、先ほどから一向にその気配はない。
ハレイシア・デューン大佐が思うよりもずっと、夜は長かった。それでも退屈な夜のほうが、まだマシだ。庭園用の小さな机の上には、すでに空になったカップがある。周囲の気配を探っているが、不審人物の気配はない。
嘆息した瞬間、背中から小さな物音が聞こえた。即座にふり返り、体勢を整える。立てかけた槍に手をのばす。扉が開いたようだった。扉のなかから少女が、こわごわと顔をのぞかせる。小さな呼び声が、美貌の大佐の耳に届いた。
「何かありましたか?」
「いいえ。大佐は夜通し警備なされるのですか?」
「ええ、それが仕事です」
「眠気覚ましにコーヒーでもいかがですかと、主が申しております」
そばかすが乗った眠そうなメイドは声をひそめて言った。ハレイシアはその言葉にうなずきたいのをこらえる。
「いや、いただきたいのはやまやまですが、私はここを動けません」
「そうですか……」
メイドが軽く頭を下げて廊下から消えた。
こんな夜遅くまでご苦労なことだ。いや、それは自分も同じか。
夜はまだ長い。星たちのささやかな光では、暁を呼べるのはまだ当分先だろう。
軽やかな足音が聞こえた。太陽の足音であればよかったのにな、とハレイシアは胸の内で笑って身構える。
ふりかえると皇帝第二夫人、エルザ・ライズランドがそこにいた。夜着のまま現れたエルザに、ハレイシアは不快感をもった。青白い瞳をわずかに曇らせて、すぐに視線を逸らす。いらぬ疑いをかけられてはたまらない。
「デューン大佐」
視線を逸らすのを許さないというように、エルザはハレイシアに声をかける。
「エルザ様、そのような格好で外に出られては、お風邪を召します」
「ああ、失礼しました。後宮は女ばかりなものですから、つい」
お願い、とメイドに声をかけてエルザは笑う。星の瞬きのような声が、ハレイシアの不快感をぬぐいさっていく。その声は、エルザを無邪気な人だと思わせる不思議な力を持っていた。メイドが部屋へと消え、やがて大きな若草色のショールを手にして現れる。それを羽織らせると、エルザはハレイシアに歩み寄った。
「無理にお呼びたてして警備のお邪魔をするわけには参りませんから、私がこちらに出向くことにしましたの」
「お心遣い感謝します」
メイドがポットからカップにコーヒーを注ぐ。ふわりとあがった湯気がハレイシアの白い頬をかすめた。暖かい。
「こんな夜おそくまでご苦労様。不埒者さえいなければ、こんなに警備を強化しなくてもよかったのでしょうに」
「いえ、仕事ですから」
カップに唇をつける。湯気がたっていたにも関わらず、コーヒーの温度はちょうど良かった。
「陛下はデューン大佐のことを大層お気に召しておられますもの、きっとおそばに置いておきたかったのでしょう。本来なら、マーブル大佐の弟君が警備を引き継がれたのでしょうけれど……」
先ほどより、空が少し明るくなったように思われた。それは時間の経過によるものか、はたまたエルザが現れたためか。
「事情にお詳しいですね」
「ええ。数日前からメイドたちの噂でもちきりでしたのよ。次の警備はデューン大佐になるのではないかって。大佐はおもてになるから、メイドたちが黄色い声をあげていましたわ」
「……そうですか」
明るく感じられるのは夜が明けつつあるからではないと、ハレイシアは結論を出した。太陽の明るさではなく、ほの暗い、灰色がかった赤い光によって照らされているような気がする。闇夜に散りばめられた年老いた星のような光だ。あたたかで、つい安心しそうになる。
「大佐」
聞き慣れているはずのその呼び方も、エルザの声で聞くとちがって聞こえた。
「オッペンハイマー大尉に、ことづてをお願いしたいのです」
その言葉を聞いた刹那、ハレイシアの直感が警告音を発した。
……一介の軍人が皇帝の第二夫人と知り合い? 私でさえ、ほぼ関わりがなかったのに?
クラウス・オッペンハイマー大尉が龍将の一人だといっても、そうそう知り合う機会があるとは思えない。
「お知り合いなのですか?」
直感をすぐに打ち消す。オッペンハイマー大尉はラグラス・マーブル中佐の副官だ。マーブル家といえば後宮にもつながりをもつ有力貴族、中佐の代理として知り合ったとしても、そうおかしくはない。言伝がおかしな内容なら、密告すればいいことだ。
「ええ。以前、鳥をいただいたご縁で」
エルザ・ライズランドの部屋には無数のとりかごがあるのだという。鳥が好きだという第二夫人のために、帝国のあちこちから珍しい鳥が届くのだ。
「そうですか。一体何をお伝えすればよろしいのですか?」
「いただいた子が死んでしまいましたの。とりかごから逃げてしまって……後宮の塔に棲みついていた大きな黄金鳥が、あの子を殺してしまいました。同じことになってしまってはかわいそうだから、もう小鳥を送るのはおやめくださいと、お伝えしていただきたいのです」
不審な様子は特にない。後でメイドに事実確認はするが、恐らく事実だろう。エルザの微笑みからは、企みなど微塵も感じられなかった。皇帝の第二夫人を疑ったことに、ハレイシアは罪悪感をおぼえた。
「わかりました。お伝えします」
エルザはハレイシアの声を聞いて穏やかに微笑む。
「よろしくお願いしますね」